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終着駅  作者: リンダ
19/21

最終話 風に祈る

ー「風をつかまえる子」ー

風の匂いが変わると、私は思い出す。あの子が初めて、空を飛んだ日のことを。


2022年の夏。そうちゃんが旅立った年に、恵はこの世に生まれてきた。

まっすぐな目。小さな掌。私の胸のなかにぽっかり空いた空洞に、ふわりと温かい風が吹き込んできたようだった。


「あの子、空を飛ぶ子かもしれないね」


そうちゃんの背中を追いかけてきた私が、今度はこの子の背中を追いかける番だった。だけどそれは、過去じゃなくて、未来へとつながる道だった。



小学生の頃、スキー場で開催されたちびっこジャンプ体験会。

「飛んでみる?」と聞いた私に、恵はこくんと小さくうなずいた。

踏切台に立つ小さな背中が、あまりにも頼もしくて、私は息を呑んだ。


風に乗って跳んだ、たった数メートルのジャンプ。

でも、彼女は着地するなり、振り返って叫んだ。


「お母さん、わたし、もっともっと遠くまで飛びたい!」


そうちゃん、見てる?

あの子、あなたと同じ空を見てるよ。



ジャンプは孤独な競技だった。

誰かと争うんじゃなくて、自分と、風と、タイミングと、ただひとつの瞬間を信じるスポーツ。

だからこそ、うまく飛べなかった日には、恵は何も言わずに黙り込んでしまうことがあった。


「お母さん、わたし……向いてないのかも」


中学3年の冬、恵は初めて全国大会の予選で失敗し、転倒した。

雪の上にうずくまったその姿は、まるで空から落ちた小鳥のようで――私も思わず駆け寄りたくなった。


でも、その夜、家に帰ってから恵はぽつりと言った。


「怖かった。でも……怖かっただけだった。もう一回飛びたい。もっと高く、もっと遠くまで」


その瞳の奥には、悔しさと、それ以上の光があった。

そうちゃん、やっぱりあの子は……あの子も「空のひと」なんだよ。



高校に入ると、恵は日本のナショナルチーム候補に選ばれた。

先輩たちとの壁。大人たちの期待。SNSに書かれる心ない言葉。

「誰よりも才能がある」なんて言葉が、いつしか重荷になっていた。


ある日、夜中に布団の中で泣いていた。

「がんばってるのに、風に見放されるときがある。もう、全部やめたくなる」


私はそっと彼女の手を握った。


「風は、いつも試しとるんかもしれんね。ほんとに飛びたいんか、って。だけど、恵。あんたの背中には、そうちゃんの願いがついとる。わたしもずっと、そばにおるけぇ」


「……うん。お母さん、ありがとう」





―「風に祈る」―

(2038年 冬季オリンピック・ノルウェー リレハンメル)


リレハンメルの空は澄んでいて、どこまでも冷たく美しかった。

その空に向かって、ひとりの少女が今、立ち向かおうとしていた。

15歳、スキージャンプ日本代表――上川恵。私の娘。


「お母さん、風、きょうちょっと気まぐれだね」

「……うん。でも、風があんたを待っとるよ。そうちゃんが、ちゃんと見とるけぇ」

「じゃけぇ、大丈夫ってことやね。行ってくる」




「2038年リレハンメルオリンピック、女子スキージャンプ個人ノーマルヒル決勝――さあ、日本の新星、上川恵の登場です!」

《解説・佐伯元選手(2010年バンクーバー代表)》

「彼女は今大会最年少の金メダル候補。準決勝では安定して105メートルを超えるジャンプを決めています。空中バランス、踏切のタイミング、すべてが非常に高い完成度です」


スタートハウスに座る恵の表情は静かだった。

私は祈るような気持ちで、彼女の顔を見つめた。



覚えてるよ――あなたがいなくなったあの夏、恵はこの世界に生まれた。

小さな手で私の指を握って、無邪気に笑った顔を見て思ったの。

「この子は、空を飛ぶ子になる」って。




「現在、風速2.7メートル。左からの弱い追い風……やや難しいコンディションですが、さあどう出るか!」

《解説》

「上川選手は風に対する感覚が鋭い選手。しっかり風を読んで、自分のタイミングを信じて踏み切れるかが鍵になります」



恵の瞳の奥は、いつもと同じように澄んでいた。

不安も、迷いもない。ただ空と向き合う目。そうちゃん、あの子はほんとに……あんたに、よぅ似とる。




「動きました! スタートゲートを蹴って滑り出した!」

「滑りは安定しています、踏切へ――行った!」



恵が空へ飛び立つ。風と、空と、世界と、たったひとりで向き合う瞬間。



「飛んだあああっ! 上川恵、空を舞うように跳んだ! 滞空姿勢、美しいっ……揺れがない、フォームが崩れない!」


「これは伸びてます! 体重移動もスムーズ、風に乗ってる……!」


私は、息を止めた。


――お願い、風よ。

あの子に味方して。



「着地ぃっ! 完璧なテレマーク! スタジアムにどよめきが広がります!」


会場が一瞬静まり、そして爆発的な歓声に包まれる。



「記録は……107.5メートル! これは現在トップに躍り出ました!」



「完璧なジャンプです。踏切のタイミングと空中での安定感、そしてテレマーク。すべてが噛み合った一本でした」



そうちゃん、見てた?

あの子、いま、空をつかんだよ。



そのあと、スロベニアのエース・コヴァチ選手が106.0メートルを記録。

わずか0.3ポイント差――

上川恵、金メダル獲得。



「歴史が変わりました! 日本、女子スキージャンプで初の金メダル! 上川恵、15歳の奇跡――いや、これは“必然の勝利”です!」



「いやあ、鳥肌が立ちました……風と対話できる選手です。もう“少女”というより、ひとりの“空の職人”ですよ」



表彰台で、金メダルを首にかけられた恵は、ふっと空を見上げた。

遠く離れた観客席で、私はただ涙をこらえながら見守っていた。


「お母さん、あたし、ちゃんと跳べたよ」

「うん……見とったよ。きっと、そうちゃんも笑っとる」


恵は、私のほうを見て、小さく手を振った。




あの子の背中は、どこまでもまっすぐで、遠くて、でもちゃんと――私につながっている。

この空の下、あなたを失っても、私はひとりじゃなかった。

恵が教えてくれた。風と空は、ちゃんと見ていてくれるって。


これからも私は、この空の下で生きていく。

風を見つめながら、恵のジャンプを、そして、あなたのことを――胸に抱いて。


回想:中学時代の挫折と再起



あの冬の空は、やけに高くて、冷たくて。

どれだけ背伸びしても、届く気がしなかった。

——中学2年、14歳の冬。わたしは、一度、飛ぶことをやめた。


ジャンプが決まらない日々が続いて、転んで、泣いて、悔しくて。

それでも「大丈夫」って笑っていたけど、ほんとはずっと怖かった。

その気持ちを誰にも言えなくて、スキー道具をロッカーに仕舞い込んだあの日。

わたしはひとりきりになったつもりだった。


でも、そうじゃなかった。


グラウンドの隅で、ひとり、わたしを見ていた人がいた。


村野先生

「……飛ばんで、ええのか?」


突然かけられた声に、わたしはドキリとした。

俯いたまま、かすれた声で答えた。



「……飛んだって、勝てないし……もう、怖いんです」


先生は黙って、わたしの隣にしゃがみ込んだ。

どこか遠くを見るように空を仰いで、ぽつりと言った。



「そったらもんか……。

 ……怖いのは、ようわかる。ジャンプはな、風も雪も、なんもかんも味方してくれんときもある。

 けどな、怖いからって止まったら、そこで終わりだべ」


その言葉が、胸にじわりと染みてきた。

止まるって、こういうことなんだ。

わたしは、自分から歩くのをやめてた。



「怖うないジャンプなんて、ひとっつもないんだ。

 だけどな、怖いまんま跳んでみせる、それがほんとのジャンパーなんだわ。

 それはな、なまら強い。……なまら、かっこいいべや」



「……でも、怖くて、脚、震えるんです。助走から、もう、心臓バクバクで……」



「それでええんだ。震えたっていい。心臓バクバクでもええ。

 飛べるか飛べんかじゃなくて、跳ぶって決めることが、まず一歩だ。

 そしたらな、風も、そのうち返事してくれる」




風が返事をくれる?

そんなこと、考えたこともなかった。


でも、その言葉を聞いたとき、心の奥のなにかが、小さく動いた。

誰かの風じゃなくて、コーチの風でもなくて、勝つための風でもなくて。


わたしだけの、風。

わたしだけの、ジャンプ。



「……わたし、自分の風、探してみたいです」



「んだ。

 おまえだけの風、きっとある。……それ、見つけたらな、誰よりも遠くまで、飛べるべさ


あの冬、止まっていたわたしの時間が、また少しだけ動き出した。

ジャンプが怖いままでいいって、初めて思えた。


——あの日、わたしがまた飛べたのは、先生が、わたしの「怖さ」を否定しなかったからだ。

わたしの中にある風を、信じてくれたからだ。


いつかまた、あの空の向こうへ。

わたしの風に、出会うために——。


放課後の帰り道──佐保と光希と一緒に


──ジャンプを再開しようと決めたばかりの、あの冬の夕暮れ。

学校の帰り道。茜色の空の下、三人の影が雪の上に並んで伸びていた。

空気は冷たいのに、不思議と心は、あったかかった。



「ねぇ、恵。うちらさ、小学校のとき、スキー場で競争したの、覚えてるべさ?」



「うん……めっちゃ転んで、雪まみれになったわたしがいたわ」



「そん時から思ってたの。恵って、人と争うっていうより、自分に勝ちたい子なんだわ。

 ……そんな恵がまた跳ぶって決めた時、なんか、すごくうれしかったんだ」



「……うん、恵っぽいよな。

 俺、ちゃんと見てたし。あのとき、何回も転けて、でも一回も泣かねぇでさ。

 ムキになって立ち上がって、雪の中走ってったの」


(顔を赤くして、うつむきながら)

「や、やめてよ~……。恥ずかしいしょや……」


(少し笑って)

「忘れられねぇよ。あの時の恵、なんかすげぇキラキラしてたもん」


──その一言が、胸の奥にじわってしみてきた。

風に吹かれたわけでもないのに、目がうるっとしそうで。

……ずるいよ、光希。そういうとこ、たまにドキッとするんだから。




佐保は、いつも見守ってくれるお姉ちゃんみたいで。

光希は、隣でふざけたり笑ったりしながら、ふとした時に、私の芯の部分に気づいてくれる。

……だから、気がついたら、目で追ってたんだ。

ふたりと一緒にいると、わたし、弱くてもいいんだって思えた。



「……わたし、もうちょっとだけ、前に進んでみるわ。

 お父さんにも、ちゃんと届くくらいまで──」




あの夕焼けの空の向こうに、お父さんがいるような気がした。

佐保の優しさも、光希のまっすぐな目も、

今のわたしを、ちゃんと動かしてくれる。

……また跳びたい。

今度こそ、自分の意思で。

空のずっと、ずーっと向こうまで。


試合後インタビュー



「見事なジャンプでした、恵選手! この瞬間、何を感じましたか?」



「……やっと、“自分のジャンプ”ができたって思いました。

 お父さんみたいに飛びたくて、でもずっと届かなくて……。

 でも今日、初めて“わたしの風”を見つけたんです。

 お父さんの背中を追いかけてきたけど、

 今は、自分の空を、自分の足で飛んだって思えました」



「お父さま・層一さんも、きっと天国でご覧になっていたと思います。今、何を伝えたいですか?」



「お父さん、見ててくれたよね……?

 わたし、もう“お父さんの娘”ってだけじゃなくて、“一人のジャンパー”として、飛べたよ。

 お父さんが教えてくれた“風を信じること”、ちゃんと胸にあった。

 ありがとう――わたし、やっとここまで来られたよ」



「そして、お母さまも今日、会場で見守っていらっしゃいましたね」



「はい……お母さん、ずっとそばにいてくれて……

 泣いたり、逃げたくなったときも、ただ黙って、見守ってくれた。

 信じてくれてたから、わたしも、自分を信じられるようになったんです。

 本当に、感謝してもしきれないです。ありがとう、お母さん」


「そうちゃん……あの子ね、あんたの背中を追って、いっぱい悩んで、何度も転びそうになって……

 けど、最後は自分の空を、自分の風で飛んだんだわ。

 そう、あの子の風は――あんたと、あたしと、そしてあの子自身が見つけた風なんだわ」


:アンデルセンとジョンソンとの出会い(リレハンメル合宿中)



「“風を読む”という感覚――

 本当の意味でそれを知ったのは、この合宿での数日間だった。

 教えてくれたのは、かつて海斗さんとメダルを争ったふたりの伝説のジャンパー――

 アンデルセンさんとジョンソンさん。

 その教えが、わたしの中の何かを、決定的に変えた」


澄んだ空気と、遠くで鳴くカラスの声。

ノルウェー・リレハンメル郊外、雪に包まれたジャンプ台のふもとで、恵は小さく息を呑んだ。

そこに立っていたのは、オリンピックの表彰台で海斗と並び立った、あのアンデルセンとジョンソンだった。


彼らはかつてのライバル。

いまは競技を離れ、それぞれの国でコーチとして後進を育てている。

今回、海斗の頼みに応じ、臨時コーチとして合宿に参加してくれたのだ。


アンデルセン(英語)

"Wind is not your enemy, Megumi. It’s your rhythm. Feel it."

(風はお前の敵じゃない、メグミ。それはお前のリズムだ。感じてごらん)


ジョンソン(英語)

"Don't fight the wind. Dance with it."

(風に逆らうな。風と一緒に、踊るんだ)


恵(英語)

"Dance... with the wind..."

(風と……踊る……)


その一言一言が、身体の奥にすとんと落ちていく。

恵は貪るように彼らの技術と感覚を吸収していった。


滑走の角度、踏み切りの姿勢、V字の開き、空中姿勢――

ほんのわずかな角度とタイミングが、風との調和を左右する。


何度も転び、立ち上がり、雪を払いながらも、彼女の目は決して曇らなかった。

その姿に、海斗は静かに目を細める。



「……あの頃のおれたちを思い出すな。アンデルセンにジョンソン……手強かった。

 けど今は、あいつらが恵にすべてを託してくれてる。――すごいことだよ、これは」


アンデルセンが軽く肩をすくめ、雪煙の向こうで言った。


アンデルセン(英語)

"She reminds me of you, Kai. The fire in her eyes—same as back then."

(彼女を見てると、お前を思い出すよ、カイ。あの目の中の火――あの頃と同じだ)


ジョンソン(英語)

"But she's not a copy. She's carving her own way."

(でも彼女はお前のコピーじゃない。自分の道を、ちゃんと切り開いてる)


海斗(英語)

"Yeah... she's Megumi. Not me. Not Souichi. She's flying with her own wind."

(ああ……彼女は“恵”だ。おれでも、そうちゃんでもない。

 自分の風で、飛んでるんだ)


:深井留美子の思いと、海斗との語らい

──日本へ戻る前の晩。

リレハンメルのホテルの一室で、海斗は静かにタブレットを開いた。

時差のある画面の向こうには、深井留美子監督の姿。彼女は薄暗い日本の夜の中、照明を背に静かに微笑んでいた。



「恵のこと……ずっと心配だったの。

 “層一の娘”っていう、その名前だけが、あの子の背中を押しているんじゃないかって。

 彼の影に追われるように跳んでるように見えた時期も、確かにあったわ」


彼女の目がふと伏せられる。

そのまなざしの奥に、層一の若い頃の姿が映っているようだった。



「でもね……今の彼女のジャンプには、“彼”の姿がもう、重なってこないの。

 ――ちゃんと、自分の足で踏み切ってる。“彼女自身の跳躍”よ」


海斗は画面越しにゆっくりとうなずいた。

その目には、これまでの恵の努力と苦悩の日々が焼きついている。



「ええ……その通りです。

 最初は誰もが“層一の娘”として彼女を見ました。けれど、あの子はその期待を、自分の力で受け止めて、乗り越えた。

 “記憶の中の層一”ではなく、“今を生きる恵”が、ジャンパーとしてそこに立っている。

 彼女には――風に、名を刻むだけの器があります」


「……海斗、あなたも、よく見てきたのね。

 練習のとき、彼女の目がどんなに必死だったか……私、あの目を層一の若い頃と重ねそうになって、何度も自分を叱った。

 でも恵は、私たちが想像するよりずっと、遠くへ行ってたのね。ちゃんと、自分の力で」



「彼女は――もう、層一の遺志ではなく、自分の夢を跳んでいます。

 そうじゃなきゃ、あの風をつかまえられませんよ」


画面の向こうで、深井監督がゆっくりと目を閉じ、ひとつ、小さく息を吐いた。

静かな夜の中、彼女と海斗のあいだに、深く温かい沈黙が流れる。




……そうちゃんが遺してくれたものは、技術でも、記録でもなかった。

「ジャンプって、怖いけど、美しい」って、そう言ってくれたあの人の声が、私はずっと心の中で生きてた。

でも、きっと監督さんも海斗さんも、わかってたんだ――

娘が、もう“そうちゃんの娘”じゃなくて、“私”として跳ぼうとしてること。


ほんの少しでも、私の名前が、この風の中に残ってくれたらいい。

それだけで、十分だから。


:帰国後、小・中学校時代の恩師と親友、そして初恋の人との再会


金メダルを胸に、恵がいちばん最初に向かったのは――

中学時代、雪の降る放課後に、一度だけ声を震わせて涙を流したあの教室だった。

彼女の心の奥で、何度も何度も思い出された場所。

そこには今も変わらず、恩師・村野先生がいた。



「金メダルか……ようやったな、ほんとに。

 けどな、オレは“怖くても跳び続けた”お前が、なまら誇らしいんだわ」


短く、まっすぐな言葉が、胸に刺さった。

先生はあの日から何も変わっていなかった。

厳しくて、不器用で、でも一度も背中を見放さなかった人。


教室の窓の外には、少しだけ白く煙る空。

あの頃と同じ風景の中で、恵の胸の奥が静かにほどけていった。


──


その日の夕方。

雪解けの匂いが漂う、小さな喫茶店のドアを開けると――

恵にとって「ただいま」と言える場所が、そこにあった。

待っていてくれたのは、親友・佐保。



「金メダル、ほんとにおめでとう。

 ……でも、私がいちばんうれしかったのは、“またジャンプしたい”って泣きながら笑った、あの夜のあんた」



「ありがとう……佐保がいてくれたから、私は跳べたんだと思う」


ふたりの間に流れる沈黙は、あたたかかった。

変わらずそばにいてくれる人がいるということ――

それが、恵にとって何よりの勲章だった。


──


その夜、公園のベンチに座っていた光希は、いつになくぼんやりと空を見ていた。

小さなスマホ画面には、オリンピックの表彰台に立つ恵の姿。

小さく、でも確かに微笑むその顔を、彼は何度も見返していた。


──昔から変わらないな、あいつ。

真っすぐで、不器用で……でも、いっとう強い目をしてた。


光希は、自分でも気づかないうちに、心の中でその姿を探していたのかもしれない。

誰かに話すこともなく、ただ、静かに。


そんなとき――


「……ひ、光希くん……?」


聞き覚えのある、けれど少し大人びた声に振り返ると、そこにいたのは、まぎれもなく恵だった。


ほんの一瞬、言葉が出なかった。

画面の中の彼女じゃなくて、目の前にいる――

それだけで、胸の奥が急にあたたかくなる。



「……恵、だよな? ニュースで見たよ。おかえり」


そう言いながらも、光希は気づいていた。

今、自分の声がわずかに震えていたことに。

嬉しいのに、恥ずかしい。

彼女の目をまっすぐ見ているつもりが、どこか少しだけ視線を外してしまう。



「うん、ただいま……光希くん、変わってないね……」


その言葉に、ふっと笑みがこぼれる。



「そうか? 恵は……すごくなったな。

 金メダル、すごいよ。でも……なんていうか、昔と同じ目してる。

 緊張してても、決めるときには、ちゃんと“跳ぶ”目」


その言葉に、恵は顔を赤くして、俯いた。


「……あのね、決勝のスタートバーの上より……今のほうが、ずっと、ドキドキしてる……」



「……え?」



「……ううん、なんでもないっ!」


恵は頬を染めて笑いながら、下を向いた。

その仕草を見て、光希の胸にもふわりと熱が灯った。


──ああ、やっぱり。

俺、ずっとこの子のことが、どこかで気になってたんだ。


言葉にはできなかったけれど、雪の日に校庭で見た後ろ姿。

転んでも立ち上がって、飛ぼうとしていた姿。

それを見ていた自分の心を、今、やっと自分で理解した。



「……オレさ、たまに思い出してたよ。

 校庭でジャンプの真似してた恵のこと。

 “すごいな”って思ってた。……きっと、オレよりずっと遠くへ行くんだろうなって」



「……そんなの、初めて聞いた……」



「だって、今やっと言える気がしてさ。会えて、よかった」


ふたりの間に、風がふわりと吹いた。

冬の終わりを告げるような、やわらかな風だった。


その夜、空には星がひとつ、やさしく光っていた。

ふたりの気持ちが、ようやく少しずつ言葉になり始める――そんな予感に満ちた夜だった。



夜明け前の空は、やさしい光に包まれていた。リレハンメルの空気は凛として、雪をかぶった山々が、まるで長い眠りから目覚めるように静かに光を反射している。


ジャンプ台のてっぺんに立つ恵の姿が、遠くに見えた。


あの小さな手を握って歩いた日々。泣きじゃくりながら「お父さんに会いたい」と叫んだ夜。

――でも、あの子は泣くだけじゃ終わらなかった。


「行ってらっしゃい、恵」

心の中で、私はそっとつぶやいた。


「空は、あたしらをちゃんと見てくれてる。だから、思いっきり飛びなさい。そうちゃんも、あんたを見とるから――」


恵は風を読み、そして静かに踏み出した。

その瞬間、私の心に、そうちゃんの声がふっと蘇る。


「雪、俺らの娘はきっと、空を越えてくぞ」


風とひとつになった恵のジャンプは、ただの競技じゃなかった。

それは、父と母と、自分自身とをつなぐ祈りのような飛翔だった。


恵の身体が空を駆ける。

風の音の向こうから聞こえてくるのは、あの子の叫び――「私はここにいる、私は生きてる、私は飛ぶ」と。


そして、完璧な着地が決まった。


会場が歓声に沸き、実況が興奮に声を震わせる。

けれど、私にはただ、朝の空に浮かぶそうちゃんの笑顔が見えていた。



「ありがとう、そうちゃん。あたしらの恵は、こんなにも強く、美しく飛んだよ――。空に向かって、未来に向かって」


恵の笑顔が朝日に照らされて、空いっぱいに広がった。


そしてそのとき、私は確かに思ったのだ。

この子の物語は、まだ始まったばかりだけど。









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