命をつなぐ手
恵の誕生──父になった瞬間
八月。
あの日の空は、まぶしいくらいに晴れ渡っていた。
なのに、わたしの目の前は何度もにじんで、うまく見えなかった。
長くて、苦しくて、だけど──どこまでも尊い時間。
その果てに、恵は、小さな産声を上げてこの世界に来てくれた。
あのときの音を、わたしは一生忘れない。
あの声を聞いた瞬間、涙がいっぺんにあふれ出して、
わたしは震える声でつぶやいた。
「ありがとう……」
この子が生まれてきてくれたこと。
それを、誰よりも早く伝えたかったのは──
ベッドの向こうの、そうちゃんだった。
──午後。
特別な許可が下りて、そうちゃんは車椅子に乗って病棟に運ばれてきた。
酸素マスクをつけて、細くなった体を看護師さんに支えられながら、
あの人は、ガラス越しの小さなベッドをまっすぐ見つめていた。
何も言わなくても、わかった。
いまこの瞬間を、そうちゃんがどれだけ待ち望んでいたか。
「……ちいさいなぁ……こんなに……ちっちぇのに、生きてるんだなぁ……」
そうちゃんの声は、細く、かすれていた。
でも、その目だけは優しくて、まっすぐだった。
わたしはそっと、赤ん坊を抱き上げて、あの人の腕に渡す。
細く震える腕だった。
でも、その腕は、間違いなく“父親”の腕だった。
「……はじめまして、恵。お父さんだべさ……来てくれて、ありがとな……」
そうちゃんがそう言った瞬間、
マスクの下から静かにこぼれた涙が、頬をすべって落ちた。
「雪……ありがとうな……おれ……おれ、父さんになったんだなぁ……」
わたしは、もう何も言えなかった。
ただ、うなずくだけで精いっぱいだった。
そうちゃんの笑顔が、あまりに優しくて、あまりに幸せそうで──
まるで、光そのものみたいだったから。
あの笑顔を、わたしは胸の奥でずっと灯して生きていく。
恵と一緒に、これからも。
恵が生まれてからの一週間。
そうちゃんは、まるで奇跡みたいに生きててくれた。
毎日、ほんのちょっとの時間だったけど、
恵の写真を見てくれて、あたしの話に、ちゃんと耳を傾けてくれた。
「昨日さ、ちょっとだけ笑ったんだわ。ミルク飲んでるときにね、口の端、きゅって上がって……」
「ほんとが……見たかったなぁ……ええなぁ、ええなぁ……」
そうちゃんの声は、かすれとったけど、ちゃんと届いてた。
その顔に浮かぶ笑みは、日を追うごとに小さくなっていったけど、
その目だけは、変わらなかった。
あの目は、父さんの目だった。
恵の誕生は、そうちゃんにとっての小さな希望だったのかもしれない。
たとえ触れられなくても、抱けなくても、
この世に生まれてきた娘の存在が、そうちゃんをここに踏みとどまらせてくれた。
あたしは、そう信じたい。
「ねえ、そうちゃん。恵、今日も泣いてばっかだったよ。でもね、泣き声がね……どっか、あんたに似てるんだわ」
「そったらもんか……そったらもんなら、ええな……」
あたしの言葉に、ゆるゆるとうなずくそうちゃん。
その瞳は、もう何も見えなくなってるのに、まっすぐ恵を見てるようだった。
目を閉じても、見えてたんだよね。
恵のこと、あたしのこと、
これからも続いていく、この命のこと——
最期の日
恵が生まれて八日目の朝。
層一は、静かに目を閉じたまま、雪の手を握っていた。
呼吸は浅く、言葉ももうほとんど出なかった。
けれど、雪が
「恵は、今日もちゃんと泣いて、飲んで、眠ってるよ」
と話しかけると、かすかにまぶたが動いた。
「……ありがとう……」
それが、層一の最後の言葉だった。
その日の夕暮れ。
層一は、眠るようにこの世を去った。
そうちゃんは――父親として、一週間を生きてくれた。
恵を抱いた腕は細くて、頼りなくて、でも、ほんとうにあたたかかった。
あの短い時間。わたしたち三人でいた、たった一瞬の光のような日々。
わたしは、あの瞬間を、一生忘れない。
そうちゃんが見た、あの小さな命のぬくもりが、
どれほど彼を救ったか――わたしには、よくわかる。
恵。
あなたのお父さんはね、世界でいちばんやさしい人だったの。
「お父さん」と呼ばれた、たった一週間の奇跡を――
わたしたちは、生きるたびに、思い出していくんだよ。
葬儀の日──ありがとう、さようなら、またね
八月の空はすっきり澄んでて、どこか秋の気配さえ感じられる、静かな朝だった。
夏の終わりって、どうしてこんなに寂しくなるんだべね……。
礼拝堂のなかには、白い花の匂いがふわっとしてて、
層一の写真が、やさしく笑ってこっち見てたんさ。
その笑顔の奥に、あたしは、全部、感じてた。
あのまなざしも、あの声も、あの温もりも──どれも、まだそこにあるみたいで。
ふと、膝の上の恵が、小さくぐずった。
あたしはそっと抱き上げて、その小さな手に頬を寄せた。
「……大丈夫だよ。お父さん、見ててくれてるからね」
そう心の中でささやきながら、前を向いた。
棺の前に立って、深くお辞儀してから、静かに話しかけた。
「そうちゃん……おつかれさま。ほんとに、がんばったね。
苦しかったのに、最後まで……あたしと、恵のこと、気にかけてくれて……ありがとうね」
涙がつーっと頬を伝ったけど、声は不思議と揺れなかった。
この想い、ちゃんと届いてほしくて。
「いま、恵はね、元気にミルク飲んでるよ。
あんたにそっくりな目で、じーっとあたしの顔、見てくるのさ。
もうすぐ、初めての“にっこり”が見られるかもしれないよ」
写真の中の層一が、今にも「ほんまか?」って言いそうで、思わず笑ってしまった。
「……あたしね、泣いてばっかじゃいけないって思ってるんだ。
これからは、ちゃんと笑って生きていくから。あんたに恥ずかしくないように。
でもね……泣きたいときは、ちょっとだけ、泣いてもいいべか? いいしょ?」
そう言って、そっと棺に手を置いた。
まだ、層一のぬくもりが残ってる気がして、胸がぎゅってなった。
「そうちゃん、大好きだよ。これからも、ずっと、ずっと。
また会える日まで……さようなら。ううん、またね」
2022年 夏 層一の葬儀――最後の別れ
棺の中で、層一は静かに眠っていた。
顔には、病と闘いぬいたとは思えない穏やかな表情が浮かんでいた。
その横に並ぶ雪と、生まれてまだ数週間の恵。
そして、両親が最後の言葉を届けるために、棺の傍に立った。
母の言葉
母は、そっと層一の頬に触れながら、涙をこらえた。
「……そうちゃん、なんであんたが先に逝くのさ……母さん、まだ信じられんよ……」
声は震えていたが、どこか穏やかだった。
「でもね、もう泣かんことにしたの。あんたの好きだった空を、恵ちゃんも見上げる日がきっと来る。雪ちゃんが、強いお母さんになってくれる。……母さんも、そばで見守るからね。だから、心配せんで、ゆっくり休みなさい」
彼女は小さな花を層一の胸元にそっと置き、続けた。
「そうちゃん……生まれてきてくれて、ありがとね。母さんの誇りだよ。ずっとずっと、大好きだよ」
父の言葉
父は、ゆっくりと棺に向かって頭を下げたあと、しばらく黙ってから言葉を口にした。
「層一……おまえには、言わなきゃならんことがたくさんあると思ってたけど、今になっても、まだうまく言えんわ」
そう言って、照れくさそうに一度目を閉じた。
「でもな……オレは、おまえの親父でいられて、ほんとに幸せだったぞ。おまえが飛ぶたび、オレの胸も一緒に跳ね上がった。どんな高い空でも、おまえなら飛び越えていくって信じてた」
少し声が詰まり、彼は拳をぎゅっと握った。
「……短ぇ人生だったかもしれん。でも、おまえはちゃんと、やりきった。雪ちゃんと恵ちゃんのことは、オレたちが守る。安心して、あっちで跳んでろ」
そして、最後に言った。
「……なまら、かっこよかったぞ。おまえは、オレたちの息子だ」
父は、棺に手を重ねて静かに頭を下げた。
葬儀に集った仲間たち──風の記憶とともに
静まり返った礼拝堂に、層一の盟友たちがゆっくりと歩みを進めていく。
北京オリンピックで共に戦った代表選手──仁木恵一、白石浩、大沼圭佑。
そして、彼らを若き日から育て導いてきた恩師、深井留美子監督。
最後に、ひときわ静かに──けれど確かな足取りで前に進み出たのは、層一の最も深い絆で結ばれた盟友、海斗だった。
その顔に浮かぶ表情には、それぞれの想いが深く刻まれていた。
深井留美子監督の言葉
「層一……あなたは、私の教え子の中でも、とりわけ繊細で……それでいて、誰よりも強い子でした。
あなたがジャンプ台に立つと、不思議と風が味方してくれた。覚えてるかしら?
“風を信じて、空を信じる”って、あなた、よく口にしてたわね。
あなたがいたから、他の子たちも自分を信じられた。
あなたの笑顔が、どれほどチームを明るくしてくれたか……ありがとう、層一。
あなたの魂は、いつまでもこの空に、ジャンプ台に、そして私たちの胸の中に生き続けます」
白石浩の言葉
「層一はさ、俺より年下だけど……ほんと、頼れるヤツだった。
試合前に俺がガチガチになってると、“浩さん、あとは風にまかせましょ”って、ニカッて笑ってさ。
……その一言に、どれだけ救われたか。
俺たち、またあの白銀のスタートゲートに立つよ。
今度は、空にいるお前と一緒にな」
大沼圭佑の言葉
「層一……お前のジャンプは、本当に誰よりも美しかった。
高さも、距離も、フォームも、どれも完璧だった。
でもな、それ以上に――“自分を信じる姿勢”が、何よりジャンパーとして尊敬してた。
俺たち、まだ跳び続けるよ。お前の魂を、俺たちが受け継いでいくから」
仁木恵一の言葉
「層一、北京で一緒に飛んだときのこと、今でもはっきり覚えてる。
“今日の風は、きっと味方や”って、お前が言っただろ?
ほんとに、あの日はお前の風だった。あれがなきゃ、銀メダルなんて取れなかったよ。
次のミラノ、今度こそ金を獲る。
お前の名前を背負って、跳ぶからな。
見てろよ、層一――いや、“そうちゃん”。
お前が笑ってくれるようなジャンプ、飛んでみせるから」
海斗の別れ──盟友として、
最後に、海斗がゆっくりと棺の前に立った。
長くて、けれどあっという間だった命の時間。
幾度となく共に飛び、転び、泣き、笑った日々が、胸を深く貫く。
海斗は静かに息を吸い、震える心を抑えながら、まっすぐ層一の写真を見つめた。
「……層一。お前さ……最後まで、ほんとにずるいな。
“もうちょっとだけ一緒にいたい”って……言ってたの、覚えてるか?」
かすれた声が、礼拝堂にそっと響いた。
「お前がいないと、チームが静かすぎてさ、つまんねぇんだよ……
でもな、お前が生きた時間、全部、俺の中に残ってる」
ポケットから、ふたりで一緒に表彰台に立ったときの記念メダルを取り出す。
「お前と取った、人生の勲章だよ。これは、俺の心臓のど真ん中にずっとある。
次に俺が跳ぶとき、風が味方してくれたら──それは、きっとお前だなって思うよ」
一瞬、言葉を詰まらせた海斗だったが、
やがて穏やかな笑顔で、別れの言葉を告げた。
「ありがとう……お前に会えて、ほんまによかった。
じゃあな、層一。また空で会おうぜ。
そのときは、また一緒に跳ぼうな」
そうちゃんのまわりには、こんなにも、あたたかな仲間がいたんだね。
風を信じて、空を信じて、生き抜いたその軌跡は、
今も、きっと空へと続いてる。
そうちゃん。
わたしも、恵も、あなたの仲間たちも、
これからも、風のように、生きていくよ──
あなたが跳んだ空を、忘れないでいてくれる人が、
こんなにも、いるんだから。
女子代表たちの別れ──風の中で跳んだ、あの日の仲間へ
静かな献花が続く中、また一組の足音が前へ進み出た。
白石瑞穂、朝日愛子。
北京オリンピックのジャンプ女子代表として、日本を背負って戦った二人の選手だった。
両手を胸の前でしっかりと組み、
彼女たちは層一の遺影の前に立った。
瑞穂は、深く一礼してから、そっと語りかけた。
白石瑞穂の別れの言葉
「層一くん……あなたがいなかったら、きっと私、あの五輪の空に跳べなかったと思う」
声が震えていた。
「男子も女子も関係ないって、誰よりも自然に言ってくれたの、あなたが最初だった。
“風は選ばない。誰にでも平等に吹く”──あなたのその言葉が、どれほど私の支えになったか……」
涙が一筋、頬をつたう。
「あなたが、病気と闘いながらも笑顔でいてくれたから、私も前を向けた。
あなたは、本当に、私たちの誇りでした。ありがとう、層一くん。空の上でも、きっと軽やかに跳んでいるんだろうな……」
朝日愛子の別れの言葉
続いて愛子が、絞り出すように言葉をつなぐ。
「層一先輩……私、いまだに信じられません。
あんなに強くて優しくて、ずっと跳び続けてくれると思ってた。
病気のこと、きっと誰よりもつらかったのに、“大丈夫”って笑ってくれて……」
愛子は、一瞬こらえきれずに、手で口元を押さえた。
「でも、最後に雪さんと結婚できて、恵ちゃんにも会えて、本当によかった……
層一先輩のジャンプ、忘れません。いつか、私もあのときの自分を超えたって言えるように、もっともっと跳び続けます」
彼女たちは遺影に、そっと白いグローブを添えるようにして別れを告げた。
「ありがとう、先輩。また空で会いましょう。今度は、一緒に風を感じながら──」
雪のナレーション
瑞穂ちゃん、愛子ちゃん……ありがとう。
あのときの北京の空には、男女の枠も、病気の影もなかった。
ただ“空を信じて、風を信じる”心が、あのジャンプ台にはあった。
そうちゃん。あなたの生き方は、誰かの背中を押し続けているよ。
あなたと一緒に跳んだみんなが、今日もまた、新しい空を
天国への列車
夜明け前の上川駅。
夏の終わりを迎えたばかりのホームに、淡い朝靄がゆらめいていた。
時計の針が、午前4時27分を指したそのとき、
遠くから、ディーゼルエンジンの低いうなりがゆっくりと近づいてくる。
ヘッドライトを曇らせながら、
かつてオホーツクの大地を駆け抜けた183系の特急列車が、ゆっくりと上川駅に滑り込んできた。
「特急・天国行き──ただいまの便、まもなく発車いたします」
誰に告げるでもなく、アナウンスが風に乗る。
そのホームに、層一の魂は、静かに佇んでいた。
白いジャンパーのまま、スーツケースも持たず、
手ぶらで、ただ一人、列車のドアが開くのを待っていた。
車掌は、彼に微笑みかけた。
それは、どこか懐かしいジャンプ台の係員の顔にも似ていた。
「おかえりなさい、層一さん。席はご用意しております」
「……ありがとう」
層一は軽く会釈し、列車に乗り込んだ。
がらんとした車内。だが、それは決して寂しさではなかった。
柔らかな光に包まれ、かつて、北海道を駆け抜けた力強き車両。
車窓の外には、まだ眠る大雪山の稜線が、うっすらと見えていた。
そのとき、スピーカーから落ち着いた声が静かに響いた。
「お客様、層一様。
あなたは、二十三年という人生の終着駅に、無事ご到着されました。
これより当列車は、ご家族との思い出の地を巡りながら、天国へとご案内いたします。
どうぞ、ごゆっくりと旅をお楽しみください」
その声は、儀礼的なものではなかった。
まるで、層一のすべてを見守ってきた誰かが、
心からの労いを込めて語りかけているようだった。
層一は小さく頷き、静かに座席に身を預けた。
列車がゆっくりと動き出す。
その瞬間、層一の胸に、ふわりと風が吹いた。
──雪の笑顔が浮かんだ。
ベッドに腰かけ、生まれたばかりの恵を抱きしめている。
小さな手、小さなまなざし。
命をつないだ、わたしたちの娘。
「そうちゃん、見て。……恵、あなたにそっくりよ」
聞こえるはずのない声が、耳元で確かに響いた。
層一はそっと、頬を緩めた。
「……ほんとだな。よかった。ちゃんと、見れた」
窓の外に、記憶が流れていく。
白いジャンプスーツに身を包み、雪の中で飛んだ日。
海斗と笑い転げた合宿。
深井監督の厳しくもあたたかな声。
そして、何より──雪と出会った、あの夏の光。
列車は、静かに速度を上げていく。
山を抜け、川を越え、空へ向かって、走り続ける。
層一は、最後部の席に座りながら、そっと目を閉じた。
「……ありがとう。俺は、幸せだったよ」
その声に応えるように、風が窓辺を撫でる。
列車はまっすぐ、雲の向こうへと進んでいく。
やがて、それは光に溶けて、誰の目にも見えなくなった。
雪のナレーション
そうちゃん。
あなたは、もういないけれど、
わたしにはわかるの。
今でも、恵の寝息に耳をすますと、
あなたの笑い声が聞こえる気がする。
上川の空を見上げるたびに、
あの朝、発車していった特急の姿が浮かぶ。
おかえりって、言いたいけど──
いってらっしゃい、そうちゃん。
わたしと恵、がんばって生きていくから。
あなたが胸を張れるように、生きていくから。