層一の決意と雪への思い
オリンピックの熱気から一か月。対立して燻っていたロシアとウクライナ。
そのウクライナにロシアが軍事侵攻を開始し、ウクライナ戦争が始まった。
層一は、ニュースの画面を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
戦車の轟音、逃げ惑う人々。あまりにも遠くて、けれどあまりにも身近に感じる戦争の気配に、沈黙が続いた。
やがて、低く、絞り出すように言った。
「……俺はさ、もう長く生きられないってわかってるんだよ」
私はその言葉に、胸が詰まった。
ずっと分かっていたこと。でも、本人の口からそんなふうに言われると、心の奥が冷たくなる。
「だからこそ……余計に思うんだ。
俺みたいに、病気でどうしても時間が限られてる人間は、どれだけ生きたくても、生きたくても、生きられない。
愛する人ともっといたくても、それができないって分かってる」
層一はそこで、私の方を見た。
その目に浮かぶものに、私も思わず泣きそうになった。
「雪と、そして生まれてくるこの子と……もっと一緒にいたい。
何気ない日々を積み重ねて、笑って、写真撮って、ただ幸せに生きていきたいんだ。
でもそれが叶わないってわかってる。だから……だからこそ、思うんだ」
声が震えていた。握りしめた拳は、怒りと悲しみに揺れていた。
「なんで、こんなに当たり前の“生きたい”っていう想いを、一部の国のトップに立つ奴らが、勝手に奪うんだよ。
理不尽な命令ひとつで、普通に生きてた人間を戦争に駆り出して、殺し合わせて……そんなの、絶対におかしいだろ。
俺は、どんな人間にも、生きる権利があるって信じたい。俺自身がそう願ってるからこそ、戦争なんて、絶対に許せないんだよ……」
私は層一の手をそっと握り、抱きしめた。
彼の胸に耳を当てると、早鐘のような鼓動が聞こえた。
生きたいという叫びが、その鼓動の中に確かにあった。
ナレーション(雪)
——そうちゃんの言葉が、私の心に深く深く刺さった。
「生きたい」って願うことが、こんなにも切なくて、こんなにも尊いなんて。
この想いは、きっと、戦場にいる誰かも同じはず。
争いを止めたいという気持ちに、国も言葉も関係ない。
そうちゃんの命が、願いが、どうか届いてほしいと、心の底から願わずにはいられなかった。
オリンピックの熱気から2ヶ月。北国にも遅い春が訪れた。
病室の午後──
外は少しずつ春の気配を帯びはじめていた。淡い光がレースのカーテン越しに射し込み、病室の空気をやわらかく包んでいる。
ベッドに横たわる層一が、窓の外をぼんやりと眺めながらぽつりとつぶやいた。
「…雪、ごめんな。結婚式も…新婚旅行も…ぜんぶ、できんかったな…」
その声は、かすれていたけれど、確かに届いた。私はベッドのそばに腰を下ろし、層一の手をやさしく握り返した。
「そったらこと、気にせんでええから。そうちゃんが、そばに居てくれるだけで、わたし、幸せだったよ」
層一は微かに目を細めて笑った。でも、その笑顔の奥に、静かに積もっていく別れの予感が滲んでいた。
「なあ、雪…。オレな、四月になったら、緩和ケアの病棟に移ろう思てる」
私は息を呑んだ。春が来るのを、あんなに楽しみにしてたのに。その言葉の意味が、胸にじわじわと染みこんでくる。
「…もう、そろそろ、覚悟せなあかんと思ててな。体も、前よりずっと辛うて…。痛みがひどくなる前に、ちゃんと受け入れよう思うてる」
言葉のひとつひとつが、静かに降る雪のように、心に降り積もっていった。そうちゃんの手は、前よりも少し細く、骨ばっていて、でも温もりだけは変わらなかった。
そうちゃんの決意に、わたしは何も言えんかった。ただ、涙がこぼれんように、強う握った。
ほんとは、一緒に行きたかった。桜の並木道も、温泉旅館も、ふたりで選んだウェディングドレスも、ぜんぶぜんぶ、夢の中に置いてきぼりになったまま。
でも、そうちゃんが前を向こうとしてる。最後まで、人として、夫として、ちゃんと生きようとしてる。
そったら姿を、わたしは、最後まで見届けたいんだ。
涙じゃなく、笑顔で。別れじゃなく、ありがとうを伝えるために──。
ある春の日、体調が落ち着いた層一に、主治医からそっと言われた。
「いまなら、写真撮影くらいはできるかもしれませんよ。ご家族との大事な記念に」
その言葉をきっかけに、病棟のスタッフたちが動き出してくれた。看護師さんが白いレースのカーテンを張り、病院の一室が小さな撮影スタジオへと変わっていった。
⸻
白いドレスに身を包んだ雪が、鏡の前でそっと息を整える。
「ほんとに、似合うんかね、これ…」
「…なんまら、きれいだ。まぶしいくらい」
車椅子にタキシード姿で座る層一が、少し照れたように、でもまっすぐな目で雪を見つめていた。白髪の混じりはじめた髪、やせ細った頬。それでも、その眼差しには、かつてと変わらぬ温かさが宿っている。
カメラマンがそっと声をかける。
「じゃあ、おふたりで、手をつないでくださいね」
雪は少しだけ屈んで、層一の手を握る。その手は、弱くなっていたけれど、たしかに生きて、つながっていた。
層一がぽつりとつぶやく。
「なあ、雪。オレ、生きてるうちに…ちゃんと、嫁さんにもらえて、よかった」
「……わたしの方こそ、ありがとう。そうちゃんの奥さんに、してくれて…ありがとね」
写真機のシャッターが切られる音が、静かな部屋にやさしく響いた。
⸻
この日、病室は教会みたいだった。
白いカーテンが光をやわらげて、春の風がそっと揺れてた。
そうちゃんの頬に触れたとき、あぁ、この人は、わたしの人生そのものだったんだなって思った。
ドレスは、少し丈が長かったけど、鏡の中のわたしはちゃんと花嫁だった。
タキシードのそうちゃんは、やせてしまったけど、世界一かっこよかった。
写真の中で、ふたりは今も笑ってる。
何十年も前から、そうなるって決まってたみたいに──
きっと、奇跡だったんだ。
病院の片隅で叶った、たったひとつの、ふたりだけの結婚式。
こうして、病院内でのささやかな結婚式は終わりを迎えた。層一の容態が悪化してから、諦めかけていたウェディングドレス。なんとか夢を叶えてくれた、層一の優しさに触れて、嬉しくて、帰宅してから声を上げて泣いた。
「ありがとうそうちゃん。私の夢を叶えてくれて。愛してる…」
八月。夏の陽ざしが眩しい朝。
長く続いた陣痛の果てに、恵はこの世界に生まれてきた。
産声が響いた瞬間、雪は涙と笑顔が溶けあったような顔で、「ありがとね」と小さくつぶやいた。
その日の午後、病院の特別許可が下りて、層一が車椅子で産婦人科病棟に運ばれた。
酸素マスクをつけ、痩せ細った身体を支えられながら、
層一はガラス越しに眠る恵のベッドを、じっと見つめていた。
「……ちっちぇなぁ……こんなに……ちっちぇのに、生きてんだなぁ……」
雪がそっと赤ちゃんを抱き上げ、層一の腕へと渡した。
震える手で、彼は初めて、自分の娘を抱いた。
「……はじめまして、恵。お父さんだど。よぐ来てくれだなぁ……ありがと……」
マスクの下から、一粒の涙が静かにこぼれ落ちた。
「雪……ありがとな……ほんとに……おれ、父さんになれだんだなぁ……」
そのときの層一の笑顔は、世界中の誰よりも幸せそうだった。
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最後の一週間
恵が生まれてからの一週間、層一は奇跡のように持ちこたえていた。
毎日ほんの数分でも、恵の写真を見て、雪の話に耳を傾けた。
「昨日ね、ちょっとだけ笑ったの。ミルク飲んでるとき、口の端がきゅって上がってさ」
「ほんとか……見たがったなぁ……いがったなぁ、それ……」
層一の表情に浮かぶ微笑みは日に日に弱くなっていったけれど、
その目は最後まで、確かに“父親のまなざし”だった。
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最期の日
恵が生まれて八日目の朝。
層一は静かに目を閉じたまま、雪の手を握っていた。
呼吸は浅く、もう言葉もほとんど出なかった。
けれど、雪がそっと語りかけた。
「恵ね、今日もちゃんと泣いて、飲んで、眠ってるよ」
そのとき、かすかにまぶたが動いた。
「……ありがと……」
それが、層一の最後の言葉だった。
その日の夕暮れ、層一は静かに眠るように、この世を去った。
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雪のナレーション(北海道弁)
そうちゃんは、父さんとして──一週間、生ぎてくれたのさ。
恵を抱っこしたときのあの腕、ほっそくて、ほんとに頼んながったけど……それでも、ちゃんとあったけがった。
わたし、あの一瞬──三人でいられだ時間、ぜったい忘れねぇ。
そうちゃんが見た、あの小さな命のぬくもりが、どれほど彼を救ったか……胸がぎゅっとなるべさ。
恵、あんたのお父さんはな、世界でいちばんやさしい人だったんだよ。
「お父さん」って呼ばれた、たった一週間の奇跡。
うちらはこれからも、何度でも思い出しながら、生きでいぐんだべさ。