表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
終着駅  作者: リンダ
17/21

層一の決意と雪への思い

 オリンピックの熱気から一か月。対立して燻っていたロシアとウクライナ。

そのウクライナにロシアが軍事侵攻を開始し、ウクライナ戦争が始まった。


層一は、ニュースの画面を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。

戦車の轟音、逃げ惑う人々。あまりにも遠くて、けれどあまりにも身近に感じる戦争の気配に、沈黙が続いた。


やがて、低く、絞り出すように言った。


「……俺はさ、もう長く生きられないってわかってるんだよ」


私はその言葉に、胸が詰まった。

ずっと分かっていたこと。でも、本人の口からそんなふうに言われると、心の奥が冷たくなる。


「だからこそ……余計に思うんだ。

俺みたいに、病気でどうしても時間が限られてる人間は、どれだけ生きたくても、生きたくても、生きられない。

愛する人ともっといたくても、それができないって分かってる」


層一はそこで、私の方を見た。

その目に浮かぶものに、私も思わず泣きそうになった。


「雪と、そして生まれてくるこの子と……もっと一緒にいたい。

何気ない日々を積み重ねて、笑って、写真撮って、ただ幸せに生きていきたいんだ。

でもそれが叶わないってわかってる。だから……だからこそ、思うんだ」


声が震えていた。握りしめた拳は、怒りと悲しみに揺れていた。


「なんで、こんなに当たり前の“生きたい”っていう想いを、一部の国のトップに立つ奴らが、勝手に奪うんだよ。

理不尽な命令ひとつで、普通に生きてた人間を戦争に駆り出して、殺し合わせて……そんなの、絶対におかしいだろ。

俺は、どんな人間にも、生きる権利があるって信じたい。俺自身がそう願ってるからこそ、戦争なんて、絶対に許せないんだよ……」


私は層一の手をそっと握り、抱きしめた。

彼の胸に耳を当てると、早鐘のような鼓動が聞こえた。

生きたいという叫びが、その鼓動の中に確かにあった。


ナレーション(雪)

——そうちゃんの言葉が、私の心に深く深く刺さった。

「生きたい」って願うことが、こんなにも切なくて、こんなにも尊いなんて。

この想いは、きっと、戦場にいる誰かも同じはず。

争いを止めたいという気持ちに、国も言葉も関係ない。

そうちゃんの命が、願いが、どうか届いてほしいと、心の底から願わずにはいられなかった。




オリンピックの熱気から2ヶ月。北国にも遅い春が訪れた。


病室の午後──


外は少しずつ春の気配を帯びはじめていた。淡い光がレースのカーテン越しに射し込み、病室の空気をやわらかく包んでいる。


ベッドに横たわる層一が、窓の外をぼんやりと眺めながらぽつりとつぶやいた。


「…雪、ごめんな。結婚式も…新婚旅行も…ぜんぶ、できんかったな…」


その声は、かすれていたけれど、確かに届いた。私はベッドのそばに腰を下ろし、層一の手をやさしく握り返した。


「そったらこと、気にせんでええから。そうちゃんが、そばに居てくれるだけで、わたし、幸せだったよ」


層一は微かに目を細めて笑った。でも、その笑顔の奥に、静かに積もっていく別れの予感が滲んでいた。


「なあ、雪…。オレな、四月になったら、緩和ケアの病棟に移ろう思てる」


私は息を呑んだ。春が来るのを、あんなに楽しみにしてたのに。その言葉の意味が、胸にじわじわと染みこんでくる。


「…もう、そろそろ、覚悟せなあかんと思ててな。体も、前よりずっと辛うて…。痛みがひどくなる前に、ちゃんと受け入れよう思うてる」


言葉のひとつひとつが、静かに降る雪のように、心に降り積もっていった。そうちゃんの手は、前よりも少し細く、骨ばっていて、でも温もりだけは変わらなかった。



そうちゃんの決意に、わたしは何も言えんかった。ただ、涙がこぼれんように、強う握った。


ほんとは、一緒に行きたかった。桜の並木道も、温泉旅館も、ふたりで選んだウェディングドレスも、ぜんぶぜんぶ、夢の中に置いてきぼりになったまま。


でも、そうちゃんが前を向こうとしてる。最後まで、人として、夫として、ちゃんと生きようとしてる。


そったら姿を、わたしは、最後まで見届けたいんだ。


涙じゃなく、笑顔で。別れじゃなく、ありがとうを伝えるために──。



ある春の日、体調が落ち着いた層一に、主治医からそっと言われた。


「いまなら、写真撮影くらいはできるかもしれませんよ。ご家族との大事な記念に」


その言葉をきっかけに、病棟のスタッフたちが動き出してくれた。看護師さんが白いレースのカーテンを張り、病院の一室が小さな撮影スタジオへと変わっていった。



白いドレスに身を包んだ雪が、鏡の前でそっと息を整える。


「ほんとに、似合うんかね、これ…」


「…なんまら、きれいだ。まぶしいくらい」


車椅子にタキシード姿で座る層一が、少し照れたように、でもまっすぐな目で雪を見つめていた。白髪の混じりはじめた髪、やせ細った頬。それでも、その眼差しには、かつてと変わらぬ温かさが宿っている。


カメラマンがそっと声をかける。


「じゃあ、おふたりで、手をつないでくださいね」


雪は少しだけ屈んで、層一の手を握る。その手は、弱くなっていたけれど、たしかに生きて、つながっていた。


層一がぽつりとつぶやく。


「なあ、雪。オレ、生きてるうちに…ちゃんと、嫁さんにもらえて、よかった」


「……わたしの方こそ、ありがとう。そうちゃんの奥さんに、してくれて…ありがとね」


写真機のシャッターが切られる音が、静かな部屋にやさしく響いた。





この日、病室は教会みたいだった。

白いカーテンが光をやわらげて、春の風がそっと揺れてた。


そうちゃんの頬に触れたとき、あぁ、この人は、わたしの人生そのものだったんだなって思った。


ドレスは、少し丈が長かったけど、鏡の中のわたしはちゃんと花嫁だった。

タキシードのそうちゃんは、やせてしまったけど、世界一かっこよかった。


写真の中で、ふたりは今も笑ってる。

何十年も前から、そうなるって決まってたみたいに──

きっと、奇跡だったんだ。


病院の片隅で叶った、たったひとつの、ふたりだけの結婚式。



こうして、病院内でのささやかな結婚式は終わりを迎えた。層一の容態が悪化してから、諦めかけていたウェディングドレス。なんとか夢を叶えてくれた、層一の優しさに触れて、嬉しくて、帰宅してから声を上げて泣いた。

「ありがとうそうちゃん。私の夢を叶えてくれて。愛してる…」


八月。夏の陽ざしが眩しい朝。

長く続いた陣痛の果てに、恵はこの世界に生まれてきた。


産声が響いた瞬間、雪は涙と笑顔が溶けあったような顔で、「ありがとね」と小さくつぶやいた。


その日の午後、病院の特別許可が下りて、層一が車椅子で産婦人科病棟に運ばれた。


酸素マスクをつけ、痩せ細った身体を支えられながら、

層一はガラス越しに眠る恵のベッドを、じっと見つめていた。


「……ちっちぇなぁ……こんなに……ちっちぇのに、生きてんだなぁ……」


雪がそっと赤ちゃんを抱き上げ、層一の腕へと渡した。


震える手で、彼は初めて、自分の娘を抱いた。


「……はじめまして、恵。お父さんだど。よぐ来てくれだなぁ……ありがと……」


マスクの下から、一粒の涙が静かにこぼれ落ちた。


「雪……ありがとな……ほんとに……おれ、父さんになれだんだなぁ……」


そのときの層一の笑顔は、世界中の誰よりも幸せそうだった。



最後の一週間


恵が生まれてからの一週間、層一は奇跡のように持ちこたえていた。


毎日ほんの数分でも、恵の写真を見て、雪の話に耳を傾けた。


「昨日ね、ちょっとだけ笑ったの。ミルク飲んでるとき、口の端がきゅって上がってさ」


「ほんとか……見たがったなぁ……いがったなぁ、それ……」


層一の表情に浮かぶ微笑みは日に日に弱くなっていったけれど、

その目は最後まで、確かに“父親のまなざし”だった。



最期の日


恵が生まれて八日目の朝。

層一は静かに目を閉じたまま、雪の手を握っていた。


呼吸は浅く、もう言葉もほとんど出なかった。

けれど、雪がそっと語りかけた。


「恵ね、今日もちゃんと泣いて、飲んで、眠ってるよ」


そのとき、かすかにまぶたが動いた。


「……ありがと……」


それが、層一の最後の言葉だった。


その日の夕暮れ、層一は静かに眠るように、この世を去った。



雪のナレーション(北海道弁)


そうちゃんは、父さんとして──一週間、生ぎてくれたのさ。


恵を抱っこしたときのあの腕、ほっそくて、ほんとに頼んながったけど……それでも、ちゃんとあったけがった。


わたし、あの一瞬──三人でいられだ時間、ぜったい忘れねぇ。


そうちゃんが見た、あの小さな命のぬくもりが、どれほど彼を救ったか……胸がぎゅっとなるべさ。


恵、あんたのお父さんはな、世界でいちばんやさしい人だったんだよ。


「お父さん」って呼ばれた、たった一週間の奇跡。

うちらはこれからも、何度でも思い出しながら、生きでいぐんだべさ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ