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終着駅  作者: リンダ
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その背中を追いかけて

 層一が倒れてから、はじめての週末。


 雪は、着替えや必要なもんを手に持って、病室を訪ねた。



「こんなにも、時間がゆっくりと重く感じる日が来るなんて思わなかった。あの日から、何度も何度も繰り返し考えた。『あの日の層一は、どうしていたんだろう』って。怖さと希望の狭間で、心が震えていた。」


「雪……。こんなときになってしまって、ごめんな。いちばん身体、大事にせなあかんときに……俺、子どもの顔、見られるべか」


「何言ってんの。そうちゃん、大丈夫だってばさ。いつも、どんな苦しいことだって乗り越えてきたしょや」


 雪は笑顔をつくって、なるべく明るい声を出した。でもその目は、少し潤んでいた。



「笑顔の奥に隠した涙は、誰にも見せられなかった。だけど、こうして側にいられることだけが、私の支えだった。」


「あのさ……赤ちゃんの名前、何がいいと思う?」


「名前か……。女の子だったら、雪みたいな子がいいな。


 おしとやかで、でも芯が強くて、人に優しさを分けられるような……。そんな、あったかい名前。


 男の子なら……そうだなぁ……北海道らしい、雄大な自然みたいな。でっかくて、たくましい子になるような、そんな名前がいいな」


「そっかぁ……。あたしね、なんとなく女の子な気がすんの。……勘だけどね」


「雪の勘は、けっこう当たるからなぁ。きっと、そうなんだべな……」


 層一はそう言って、ふっと笑いながら、雪の手をそっと握った。


 そのぬくもりはまだちゃんとあって、でも雪には、それが少しだけ遠く感じた。



「手の温もりが伝わるたびに、私は心のどこかで覚悟を決めていた。どんなに離れていても、私たちは繋がっている。たとえ、この先どんなに厳しい道でも。」


 帰り道、雪は病室を出て、まっすぐ家に向かった。


 層一の前では、笑っていられた。でも、本当は怖くて仕方なかった。


「……この人がいなくなってしまうかもしれない」


 その現実が、じわじわと胸の奥を締めつけてくる。


 家の前まで来たとき、雪は立ち止まり、携帯を取り出して、父に電話をかけた。


「……お父さん、あのね、やっぱり……つらくて。今日は、泊まりに行ってもいいかな……?」


 声が震えていた。


 電話の向こうから、父のあたたかな声が、ゆっくりと返えってきた。



「……あぁ、つらいときは、いつでも帰ってきたらいいべさ。


 雪も大変だべけどな、これから産まれてくる子のこと、しっかり守っていかにゃなんないべや。無理すんなよ。


 今日は冷えるから、あったかい鍋でもして、母さんと一緒に食べようや」


「……うん、ありがとう、お父さん。お義父さんのほうにも連絡しとくね」


「わかった。気ぃつけて来なさいよ。また後でな」


 そう言って電話を切ると、雪は静かに深呼吸して、改めて層一の実家にも連絡を入れた。


「……お義父さん。今日は実家に泊まらせていただきます」


「うん、わかったわかった。こっちのことは心配せんでいいから、雪さん、ゆっくり休んでな。


 心も身体も、ちゃんと休めるのがいちばんだべさ。


 明後日になったら、また一緒に見舞いに行こう。無理はせんでいいからね」


 電話越しに聞こえる層一の父の声も、どこか心配そうで、けれど優しさが滲んでいた。


 ⸻


 この夜、雪は実家で両親に迎えられた。


 母はもう鍋の準備をしていて、父は湯気の立つ食卓を見ながら、ほっとしたように微笑んだ。


「ほら、あったまるべさ。いっぱい食べて、今夜はゆっくり寝なさいよ。赤ちゃんも、きっと頑張ってるべさ」


「……うん、ありがとう。なんか……泣きそうだわ」


「泣いてもいいんだよ。がんばってるもん、雪は。何も恥ずかしくないっしょや」


 誰も強い言葉は使わず、そっと寄り添うように包み込む――


 そんな、北海道らしい、家族のあたたかさがそこにあった。



「言葉は少なくても、この部屋の空気が、私の心をそっと包み込んでくれた。悲しみも不安も、分け合える家族がいることに、どれだけ救われているか。」


 やがて、北京オリンピックに出場するスキージャンプの代表選手が発表された。


 男子4名、女子3名――その顔ぶれには、実力と実績を兼ね備えた選手たちが並んだ。


 壇上に立った深井監督は、静かにマイクを握り、会見場を見渡した。


 その表情には、責任の重さと、同時に、どこかあたたかなまなざしが宿っていた。


「本日は、スキージャンプのオリンピック代表選手の発表という節目に、このような会見の場を設けていただき、ありがとうございます。


 選ばれた選手たちは、いずれも厳しい国内外の戦いを乗り越えてきた、誇るべきアスリートです。


 技術も心も、世界と戦えるレベルにあります。私は彼らの背中を、心から信じています。


 そして――


 この場に立つはずだったもう一人の選手、上川層一。


 彼は病に倒れ、夢だった舞台に立つことは叶いませんでした。


 ですが、彼のこれまでの努力と、ジャンプにかけてきた情熱は、私たちスタッフも、チーム全員も、決して忘れていません。


 層一の想いを胸に、私たちは一丸となってこの大会に臨みます。


 選手たちがベストを尽くせるよう、そして何より、無事に帰ってこられるよう、全力でサポートしてまいります。


 皆様のあたたかい応援を、どうかよろしくお願いいたします」


 監督の言葉には、勝利や結果だけではない、人としての絆と誠意が込められていた。


 選手だけでなく、取材陣の中にも、思わず目を伏せる者の姿があった。


 続いて行われた質疑応答の時間。


 今シーズン絶好調で代表入りしたエース、喜多見海斗にマイクが向けられる。


「喜多見選手、今月初めのカルガリーでのワールドカップ優勝、続くソルトレークシティでも優勝と、快進撃が続いています。絶好調の要因は何でしょうか?」


 海斗は少しだけ息を吸ってから、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。


「正直に言うと……いちばんのモチベーションは、今も病と闘っている、上川層一の存在です。


 層一とは、小さい頃から同じチームで、一緒にジャンプして育ってきました。


 勝ったり負けたり、嬉しさも悔しさも、全部共有してきた、ただのライバルじゃなくて、大事な……戦友みたいな存在です。


 その層一が、今は飛ぶこともできずに、病室で戦ってる。


 だったら俺が、ここで中途半端なことなんてできない。


『あいつに恥ずかしくないジャンプを飛ぶ』――それが、今の俺の支えです。


 どんなときも、層一は俺に背中を見せてくれてた。


 だから今度は、俺が彼の希望になれたらって……そう思ってます」


 その声は決して感情的ではなかったが、ひとつひとつの言葉が誠実で、温かかった。


 場内に、しんと静かな空気が流れる。


「よき親友であり、最大のライバルでもある上川層一選手への想いが、今の喜多見選手を動かしているということですね。


 ……とても強く、あたたかい気持ちが伝わってきました」


 記者がそう言葉を結ぶと、海斗は少しだけ照れたように笑ってうなずいた。


「……あいつが、ここまで俺を引っ張ってくれたんで。ほんと、それだけです」


 ⸻


 ここには、スポーツの勝ち負けを超えた、「人としてのつながり」がある。


 それは、結果の数字では測れない――けれど確かに、ジャンプ台の風にも、選手たちの胸の中にも、生きているものだった。


 その記者会見を、層一と雪は病室のテレビで見ていた。


「そうちゃん、ジャンプのオリンピック代表、決まったね」


「んだなぁ…俺も、あの舞台に立ちたかったわ。でも、あのメンツなら、きっとやってくれるべ」


 そうちゃんの横顔は、悔しさを飲み込んで、それでも笑おうとしていた。


「そうちゃん…」


 雪はそう呟いたっきり、言葉が続かなかった。


 目の前の夫は、ずっと夢を追いかけてきた。吹雪の日も、氷点下の朝も、歯を食いしばって、がむしゃらにジャンプ台に向かった。オリンピックで金メダルを獲る――その一念で、身体を酷使して、誰よりも努力してきた。その姿を、一番近くで見てきた雪には、ただ「4年後、また頑張ろう」なんて言えんかった。


 あまりにも、その夢が大きく、そして、今の現実が過酷すぎて。


 でも――


「雪、俺…絶対、脳腫瘍に勝つからな。今回は夢、見せてやれんかったけど…4年後のミラノ、子どもと三人で行こうや」


「そうちゃん…うん…うん、絶対、勝とうね。私はそうちゃんのこと、信じてるから。どんなことがあっても、ずっと応援してるからね」


「ありがとうな、雪」


 その「ありがとう」は、言葉以上に深く、あたたかかった。


 二人はただ手を握り合い、記者会見の終わりまで、じっとテレビを見つめていた。


 これから始まる闘病の日々に向かって、そっと心を重ねながら。



「どんなに苦しい日々でも、私は信じている。そうちゃんの強さと、私たちの絆が、必ず未来を照らしてくれるって。夢は、きっと終わらないから。」


 日が暮れたころ、海斗から電話がかかってきた。


「層一、今、大丈夫か?体の具合、どうだべ?」


「おぉ、今はちょっと頭の痛みも楽になってきてな。落ち着いとる感じだわ。気にかけてくれて、ありがとな」


「なに言ってんのさ。雪ちゃんもお腹に子どもおるし、お前のこともあって、いろいろ大変だべや。お前がしょんぼりしとったら、ビシッと激入れてやろうと思ってたけど、思ったよりしゃんとしてて安心したわ」


「北京まで、まだちょっとあるけどよ…年末は帰ってこれるんか?」


「んだ。あんまり長くはおれんけどな、正月は顔出せっから。また病院、行くわ」


「おぉ、楽しみにしてるわ」


 電話を切ったあと、層一は深く息を吐いた。


 ただの「見舞い」じゃない。


 それは、ライバルとして同じ夢を追い続けた、魂でつながった親友の言葉だった。


 忙しい合間をぬって、電話をくれた海斗に――層一は心の底から、感謝していた。



「こうして、私たちは一歩ずつ、まだ見えない未来に向かって歩いている。どんな嵐が来ても、必ず乗り越えられると信じて。」



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