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終着駅  作者: リンダ
13/21

12月の空 凍える決断

 ――そして、それでも明日へ


 白馬での大会を終えた層一は、わずかながら手応えを感じていた。五輪の代表に近づいている――そんな実感とともに、雪のもとへと戻ってきた。


(雪のナレーション)

「あの時の層ちゃんの背中は、いつもより少しだけ輝いて見えた。夢が近づいている、そう信じていた。」


 だがその数日後。12月1日、層一は診察室の前で倒れ、意識を失う。脳腫瘍の再発。それも、もう手術が不可能なほど進行していた。余命、半年。医師の口から告げられたその言葉は、すべての音を吸い込んで、静かに降り積もる雪のようだった。


(雪のナレーション)

「信じたくなかった。でも現実は、冷たくて重かった。雪が、静かに心を覆っていった。」


 その夜、雪は病室の窓辺でひとり、かつての記憶をたどっていた。


 ――最初に層一が店に来たのは、春先だった。競技の合間にふらりと訪れたその青年は、疲れているのに不思議と目が澄んでいて、コーヒーを飲みながら空ばかり見ていた。


「ジャンプの人、でしょう?」と声をかけたのは、私のほうだった。


 彼は少し驚いたように微笑んで、「なんでわかったの?」と聞いた。


 何度か来店するうちに、彼は話してくれるようになった。スキージャンプへの情熱、プレッシャー、時には夢を見失いそうになる夜のことも。


 初めてキスをした日、雪の舞う夜だった。層一の体は震えていた。寒さではなく、たぶん、夢と不安と、そして私への気持ちのせいで。


 彼が告白してきたとき、私はすぐにうなずいた。もう答えは決まっていた。ただ一緒にいたかった、それだけだった。


(雪のナレーション)

「あの頃の私たちは、未来がずっと続くと思ってた。風のように自由で、何も怖くなかった。」


 •


 層一の盟友、喜多見海斗は、病院のロビーで深く頭を垂れた。


「何でお前なんだよ…」


 彼は北京五輪の代表候補。ジャンプの距離では層一に一歩及ばないと思っていた。だが今、自分が跳び続けなければ、層一の夢ごと雪に背を向けるような気がしていた。


「お前の分まで跳ぶ。絶対、跳んでやる。だから……見てろよ」


 •


 層一の両親は静かに涙をこぼした。息子命が、指の間から零れるように遠ざかっていく現実。それでも、誇りだった。誰よりもまっすぐに生きた我が子を、今もこれからも愛してやまない。


 雪の両親は、一度だけ「やめた方がいい」と言った。でもそのあと、何も言わず雪の手を握った。「あんたが選んだ人なら、私らは信じるけえ」と。


 •


 雪は病室で眠る層一のそばに寄り添い、小さな声で囁いた。


「層ちゃん、私、言わんといけんことがあるの――お腹に、あんたの子が……おるよ」


 彼の目は閉じたまま動かない。だけどきっと、心は届いている。雪はそっと層一の手に自分の手を重ね、もう一度だけ囁いた。


「私、産むけえ。あんたの命、つなぐけえ。だから、どうか……明日を、一緒に見よう」


 外には雪が静かに降っていた。音のない夜のなかで、二人の未来が、確かに息をし始めていた。


(雪のナレーション)

「この小さな命が、どんなに寒い冬も乗り越えていけるように。層ちゃんの魂を、私の中で生かしていくって決めた。」


 静かな目覚め


 白馬の大会から数日後――


 脳腫瘍の再発により、層一は緊急入院となった。手術は不可能。残された時間は、半年。


 その報せを受け、深井留美子は黙ってコーチ室の椅子に腰を下ろした。ジャンプ台では誰よりも冷静な指揮官だった彼女も、このときばかりは言葉を失った。


「どうして…こんな才能を…」


 層一の成長を、誰よりも近くで見てきた。勝ち負けだけで選手を見ない彼女にとって、層一は「飛ぶ理由」を持つ稀有な選手だった。ただ距離を競うのではなく、「生きること」と向き合って跳んでいた。


 病室に見舞いに来た深井は、ベッドの傍らで静かに雪に言った。


「あなたの存在が、彼の背中を押していたのね。…ありがとう。彼を支えてくれて。」


 雪はただ黙ってうなずいた。感謝の言葉よりも、層一の手を握ることの方が、ずっと大事だった。


 •


 病室の午後、静寂の中で、層一の指がかすかに動いた。


「……ゆき……?」


 かすれた声に、雪は思わず涙をこぼした。


「層ちゃん…! よかった、目ぇ、覚めた……!」


 目を開けた層一は、天井を見つめたまま、静かに呼吸を整えていた。自分の体が思うように動かないことに気づき、目の奥にわずかな絶望の影がよぎった。


「……俺……もう、跳べんのじゃろ?」


 雪は答えず、彼の手をぎゅっと握り返した。答える必要などなかった。層一は、感じていた。自分の中に、もう風を掴む力が残っていないことを。


「夢、終わったんじゃな……」


 その言葉は、絶望ではなく、静かな受け入れだった。


 雪は、少し躊躇ってから、意を決して言った。


「層ちゃん……あのね、あたしの、お腹に……あんたの子、居るんよ」


 層一の目が、ゆっくりと彼女に向けられる。その視線は驚きと喜び、そしてわずかな哀しみに揺れていた。


「……ほんまに?」


「うん。病院で診てもろうた。まだ小さいけど、確かに、おる」


 層一は、ふっと笑った。涙をこらえるように目を細めながら、雪の手に触れた。


「……命が、繋がったんじゃな……」


「うん。あんたの、命じゃ」


 二人のあいだに、冬の光が差し込んでいた。病室の静けさの中で、新しい命の鼓動が、確かにそこにあった。


 層一は、余命の短さを悟りながらも、その目に光を宿していた。夢の舞台には届かなかった。けれど、またひとつ、命を残せた。それは、風を飛ぶよりもずっと重く、尊いことだった。


 •


 深井監督は、病室の外でそっと目を閉じていた。


「跳べなくても、あの子は、誰よりも前を向いて生きた。あの二人なら、きっと未来を飛べる」


 そして彼女は、少しだけ涙を拭って、雪の未来に向けて一歩を踏み出した。


(雪のナレーション)

「層ちゃんの代わりに飛ぶ海斗くんの姿は、私には二人分の風に見えた。あの風を、私たちは絶対に忘れない。」


 風は、まだ続いている


 カナダ・カルガリー。白銀の競技場には、朝から張り詰めた空気が流れていた。北京五輪を占う重要な試合。そのスタートリストに、層一の名はなかった。


 その代わり、喜多見海斗――層一と幾度も競い合い、互いを高め合ってきた盟友の名前があった。


 **


 実況:「さあ、間もなく日本代表・喜多見海斗選手の出番です。今回、急遽“もう一人のエース”層一選手の欠場を受け、彼にかかる期待は大きい!」


 解説:「彼は層一選手の存在を誰よりも近くで感じてきました。今日はきっと、仲間の想いを背負ったジャンプになるでしょう」


 **


 風速は穏やか、条件は悪くない。喜多見は深く深呼吸し、スタートゲートに立つ。


 その目には、何かを見据えるような強い決意があった。


 ──「層一、お前が見てるなら、俺の跳びを…風で感じてくれ」


 身体を前傾させ、勢いよく踏み切った瞬間、スタジアムに静寂が走る。飛距離も、美しさも、完璧だった。


 **


 実況:「跳んだぁぁ!これは大ジャンプ!文句なしの飛距離です!喜多見海斗、魂のジャンプ!!」


 解説:「空中姿勢が非常に安定していました。そして、着地も完璧。今日の彼は違います。心が強い…!」


 **


 スコアボードに表示された得点は、自己ベストを大きく更新するものだった。表情を変えず、静かにガッツポーズをした喜多見。その目は、どこか遠くを見ていた。


 **


 実況:「喜多見選手、これで北京五輪の代表枠へ大きく前進です!そして…」


 画面には、ジャンプ直後のインタビューが映し出された。風で髪を乱したまま、マイクの前に立つ喜多見は、一瞬黙ったあと、ゆっくり言葉を選んだ。


 喜多見:「……今日のジャンプは、俺だけのじゃない。層一、お前と一緒に飛んだジャンプだ。


 お前が教えてくれた“風を信じる心”が、俺をここまで連れてきた」


 彼は一瞬目を伏せた。そして、カメラの向こうにいる雪に向けて、こう続けた。


「雪さん、層一は今、戦ってる。俺も戦ってる。だから、どうか一緒に、風を感じ続けてください。……命は、まだ、飛び続けてます」


 その声は震えていたが、確かに強く、そして優しかった。


 **


 その夜、病室のテレビでその中継を観ていた層一は、何も言わず、ただじっと画面を見つめていた。


 雪は層一の手を握りながら、囁く。


「層ちゃん、あんたのジャンプは、まだ続いとるよ。海斗くんが、ちゃんと風を運んでくれとる」


 層一の目に、ゆっくりと涙が滲んだ。悔しさではなかった。喜びと誇りと、そして「まだ終わっていない」という確かな手応えが、そこにあった。


 彼の夢は、仲間の背中で、いまも風に乗っていた。


(雪のナレーション)

「層ちゃんのジャンプは終わらない。私たちの心に、ずっと生きている。風はこれからも、ずっと吹き続けるんだ。」



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