視覚異常
上川層一は、スキージャンプの選手だった。
ジャンプ競技の盛んな北海道・上川町の生まれで、将来はオリンピック出場も有望視されとった、地元期待のジャンパーだった。
北京オリンピックを目指して挑んだ2021年シーズン、スウェーデン遠征中のある日——層一の身体に、異変が起きた。
「なんか、見え方おかしいな……ん? 二重に……見えてる?」
目の前の景色が、ぼやける。文字が二重に映る。
それが気のせいではないと気づいたのは、トレーニングを終えた夜のことだった。
遠征先のスウェーデン・ストックホルム市内の病院を受診し、精密検査を受けることになった。
CTスキャン、MRI、レントゲン……次々と検査が行われたが、結果が出るまでは入院せざるを得なかった。
ほかのスキー選手たちは、次々とワールドカップの試合を終えて帰国していく。
そのなかで層一ひとり、異国の病室に、ぽつんと取り残された。
「ちぇっ……ついてねぇな。検査、まだ出ねぇのかよ……」
コロナ禍もあり、面会も制限されていた。
日本から参戦していた他の選手たちとは、LINEやメールでやりとりを続けていた。
その晩、スマホに届いたメッセージ。
盟友・喜多見海斗からだった。
海斗:「そうちゃん、大丈夫け? 次の試合、またいっしょに飛ぼうや」
層一:「かいちゃんか……んー、なんも、ただモノが二重に見えてるだけでな。
たいしたこたぁねぇと思うんだけど、結果まだ出ねぇんさ」
海斗:「んだか。まぁ、心配だけども……とりあえず、ゆっくり休んでけ。
帰ったら、また焼肉でも行くべや。ビールも飲みてぇしな」
層一:「うん、ありがとな。おめぇもケガすんなよ。ジンギスカンも忘れんなよ」
ふたりは、ジュニア時代からの仲。
遠軽町出身の海斗は、層一と同い年で、昔からずっと切磋琢磨しながら高め合ってきた、よきライバルであり、大切な仲間だった。
スマホを置いた後、チームの監督からも連絡が入った。
監督:「調子どうじゃ? 今は不安かもしれんが、まずはしっかり休め。
連戦と遠征で、きっと疲れが出たんじゃろう。ちゃんと診てもらって、早う元気になれや。みんな、待っとるけぇの」
層一:「はい、ありがとうございます。また、検査の結果出たら連絡しますね」
そう答えて、層一はカーテン越しの薄暗い空を見上げた。
遠征の熱気も、仲間たちの声も、今はもう届かない。
無音の病室。ひとり、時が過ぎていく。
やがて数日が過ぎ、検査結果が出た。
「まぁ、過労だべな。そんな大したこと、ねぇべさ……」
そう自分に言い聞かせながら、層一はストックホルムの病院で主治医の前に座った。
しかし——
告げられた結果は、層一の想像をはるかに超えるものだった。
いや、想像すらできなかった。
それは、ジャンプどころか、自分の人生そのものを揺るがす診断だった。
「……うそだべ……」
声にならない声が、喉の奥で震えた。
夢も、未来も、まだ見えていた。
あの大空に、何度だって飛びたかった。
けれど、現実は静かに、それを奪っていった——。