食事中はお静かにⅠ
体が軽い。一度は生死の境を彷徨ったが、怪我したことすら夢だったかのように今は快活そのものだ。服こそ穴が空いてしまい格好悪いことになっているが、これはあとでどうにか修復しようと思う。それ以外は取り立てて問題もなかった。
前髪をかき上げバンダナを頭に巻き付ける。料理をする前の染み付いた行動はどの世界にいても変わらない。
だというのに、俺の回復を快く思っていないのか、先ほどから刺すような視線を感じる。1人は制服を着た長く美しいストレート髪の女の子。彼女は先ほどの戦闘で湖に落ちたので水浸しだが、それ以外に傷を負っている様子もない。そしてもう1人が、俺とアイに攻撃を仕掛けた張本人。名前をカエデといった、黒尽くめの格好をしたアイよりも幼く中学生くらいに見える女の子。
2人ともアイが点けた焚き火の前に座っているが、その視線は細めたまま俺に注がれている。しかし、俺はそれ以上気にすることもなく調理にかかる。
とは言っても、ここには大した食材はなく、なんとか無事だった卵くらいだ。いくつかは倒れた衝撃で割れてしまったが、それでも何パックかは無事だった。
「それじゃ、1人2つずつかな。アイ、フライパンを1つ作ってくれ」
「・・私のことなんだと思ってるの。まあいいけど」
包丁よりも生成するのは簡単なのか、アイの手には一瞬で鉄製のフライパンが出現した。それを受け取ろうと手を出すが、何か気に障ったのかアイはそれを乱暴に投げて渡してきた。
「危ないな」
「何に使うのよ。それ」
「何って、そりゃ料理に決まってるだろ」
そういうことを言いたいのではないと2人の顔にはかいてあるようだが、俺としてはそれ以上の理由はないとしか言えない。俺の一挙手一投足を訝しげに見る彼女らのことはひとまず考えないことにしよう。
俺は、受け取ったフライパンに薄く膜が張るように油を引く。コンロの上とは勝手が違うが、皮膚が強くなったのかそれほど熱さを苦痛とは思わない。立ち上る香気の煙が鼻と目を刺激する。油を引いて、焼いてを数度繰り返すことで、鉄製のフライパンでも焦げ付きにくくなる。
「よし、もうよさそうだな」
油の馴染んだフライパンに卵を落とす。日曜の売れ残りにしては鮮度もよく、ピンポン玉のようにぷっくりと卵黄が浮き上がっている。透明だった卵白に火が入って白くなっていく。焚き火での火加減は難しいが、この料理なら小さな火でも十分だろう。
卵黄と卵白は熱で固まる温度が違う。火が強すぎると、両方の温度を超えてしまって卵黄まで固まってしまう。それでも十分おいしいが、これだけ元気な卵黄ならそれは少し勿体無い。
それに、身についた能力を試してみたいという気持ちもある。
目が覚めた瞬間から俺はその力の存在に気がついている。正直、アイの能力と比べると戦闘力では敵わないが、汎用性という面ではかなり使い勝手がいいと思う。
そんなことを考えているうちに、フライパンの上の卵に程よく火が入りそろそろ食べ頃のようだ。つるりとフライパンの上を滑り、アイが作ってくれていたアルミの皿に卵が着地する。テンポ良く残りの卵も焼いてしまい、3人分の皿が出来上がった。
「お待たせ。フライドエッグ、目玉焼きの完成だ」
3人の目の前には綺麗なオレンジ色の目玉焼き。添え物が何もないのは少し寂しいが、この先他にも食べられるものはいくらでも手に入るだろう。
2人とも目玉焼きを見るのは初めてなのか、いろんな角度から皿の上に乗るそれを興味深そうにみている。
「本当に食べられるの、これ」
「まあ、川崎が作ったのなら食べられないことはないはずだけど」
アイは一度焼き芋を食べさせている。その分カエデよりは拒否感が薄いようだが、それでも未知の食べ物に対する恐怖はそれなりに感じるだろう。俺も、初めてウニを食べる時は似たような反応をした。
「オレンジ色の黄身を割ってから食べるんだ」
なかなか手をつけない2人に代わり、卵黄にフォークを入れる。程よく火の入った卵黄がとろりと解けて卵白に流れていく。俺にとっては日常的な料理で、好みの焼き加減にするために結構練習もした。焚き火でどこまでできるか自信がなかったが、ほとんど完璧と言っていい仕上がりだ。
何もかけないままでも卵黄の旨味のおかげで満足のいく一品になっている。
「食べてみてくれ。話したいこともあるだろうけど、アイももう体力は限界だろ」
ずっと顔を顰めっ面だったアイが目を大きく見開いた。気付かれないと思われていたのなら、それは流石に俺を甘く見過ぎだ。
「食べれば少しは力も戻るんだろ?」
「たぶん」
曖昧な返事だが、それは肯定しているのとほぼ同義だった。躊躇していたアイも意を決し卵を口に入れる。アイが口に入れるのを確認してからカエデもそれを口に運んだ。
「なにこれ・・美味しい」
大声でのリアクションなどはなかったが、アイのその輝いた顔を見れば満足なのは十分にわかった。
「とろとろ」
カエデの方も初めて食べる俺渾身の目玉焼きに感情の薄い顔にかすかに綻びが見える。
「気に入ってくれたようでなによりだ。それより、もう1つの目玉焼きを食べるのは俺の能力を見てからにしてほしい」
目玉焼きに向いていた2人の意識が一瞬で俺に向けられる。俺は、頭の中に浮かんでいるイメージを吐き出すようにその能力を言葉に乗せる。
「調味《シーズニング》」
俺の言葉に呼応し、空間の一部が輝き出す。現れたものは小さな瓶で中には白い粒子がいっぱいに詰められている。俺の手にすっぽりと納まったそれを2人は瞬きすることもなく見つめている。
「それは?」
「これはな、塩だ」
手を差し出したアイの手のひらにさらさらと細やかな粒が流れる。塩を見るのは初めてではないようで、躊躇することなく指についた塩を舐めた。
「・・本当にただの塩ね」
「これが俺の能力。調味料を自由に扱うことができる。どうだ、これは便利だろ」
塩だけではない。砂糖、胡椒、マヨネーズやケチャップまで、調味のために必要な材料は能力を行使するだけで手に入ってしまう。
「ここにきて、料理はできても調味料までは作れないからな。本当に助かるよ」
本当に必要な能力が手に入ったと喜ぶ俺をよそに、2人は先ほどまでの警戒の目ではなく、まるで嘲るような微妙な笑みを向けていた。
「とりあえず、目玉焼きにこれを試してみてくれよ」
能力の説明を一通り終えたところで、再び調味《シーズニング》の力を使う。今度は胡椒、マヨネーズ、醤油、ソース、ケチャップと俺の世界での派閥を一通り用意してみせた。
ずっと緊張していた2人も俺の能力を知ってからは、無害であることを理解してくれたようで料理の話を真面目に聞いてくれている。
「多いわ。どれが一番美味しいのか教えてよ」
「好みの味を探すのが楽しいんだ。とりあえず、少しなめてみなよ」
そう言ってアイにはマヨネーズの入った瓶を差し出した。指の先でそれを掬い、今度は躊躇うことなく口に入れる。直後、電流が流れたようにアイの肩が震える。口に合わなかったのかと思ったが、どうやらそういうわけではなさそうだ。
「美味しい」
「目玉焼きには醤油かソースが王道だけど、このへんはフレンチって感じで美味いんだよ」
左手には醤油とソース。右手にはマヨネーズの瓶。どちらにもそれぞれの味わいがあり、どれが一番と決めてしまうのはもったいない。
「私はこれが好き」
カエデも醤油を試したようで、気に入った様子だ。口の周りに醤油をつけている辺りだけ見ると、本当に幼い子供にしか見えない。
そんな2人の表情に、俺はおそらく食べている彼女ら以上の満足感と多幸感を感じていた。
まだこの世界に来てから半日も経過していない。賑やかな卓を囲み、俺の料理を食べるお客たちの顔は今でも鮮明に思い出せるのだが、まるではるか昔のような感じもする。
全てを掛けていた店も今はもう戻ることのないものだと思うと、割り切ったはずの心にも疼きを感じてしまう。
「この世界で店を始めるのもあり、かもな」
俺はまだ、心のどこかであの世界に帰れるかもしれないという希望を捨てきれていない。あの世界は俺が生きてきた証であり、俺という存在を証明しなければならない道程だ。あの3人も俺のことを心配してくれたりしていないだろうか。ふと、かわさきの仲間たちの顔が脳裏をよぎる。あの3人に限ってそんなことはないか。
火に当たっていたせいか額に汗が滲んでいる。調理も終わり、外したバンダナで汗を拭った。
「あなた・・その髪」
顔からバンダナを外すと、アイが呆けた顔でこちらをみている。カエデに至っては食べ終わった皿を取り落とし、かなり狼狽しているように見えた。
「なんで、元に戻ってるの」
バンダナの下に隠れていた髪は、確かにオランジュの実を食べたせいで漆黒に染まっていた。それは人間から魔人に変身した証であり、不可逆の現実だった。
「ん?でも、お前らの髪も色が抜けて・・」
アイの漆黒に変化した髪の毛も、元の光沢のある綺麗なストレートに戻っている。しかし、カエデの方はさらに衝撃的な変化が起きた。
炭のような漆黒が抜け落ち、その下から現れたのは傾き始めた日の光でキラキラと輝いている。一切の曇りのない銀色の髪に俺は目を奪われた。