食べる命と食べられる命Ⅳ
カエデから完全に視線を外し、倒れている川﨑の顔をじっと見つめる。胸には致命傷と見える傷を負っているが、唇は微かに震えているように見えた。
安心で全てを放り出して駆け寄りたい衝動に駆られるが、その犯人への怒りの感情がそれをなんとか踏みとどまらせた。
差し出されたそれは傷のひとつもなく傾き始めた太陽の光を受け燦々と輝いているように見える。しかし、それが幻想の光であり、わたしたちを惑わし続けてきた元凶そのものだ。どこかの世間知らずはこれを美味そうだと言っていたけれど、これが人間にとってどれだけの災厄をもたらすかを知らないからそんなことが言えるのだろう。
そして、もちろんこれを差し出している当人はそれを理解しているはずだった。
「私がこれを彼に食べさせろですって」
「その通り。それができないならあれはじきに死ぬでしょ」
軽い口ぶりでそれを肯定する。漆黒の髪を持ち、その瞳には主人の命令を遂行すること以外になにもない。それを実行するためであれば、人の1人や2人は簡単に手に掛けてしまうだろう。
しかし、私にはまだそれに従わないという選択肢もあった。このまま、感情に任せて目の前の少女の喉をかき切ることになんの躊躇いもない。カエデを睨む目は火が出そうなほど熱い。心臓は恐ろしいほどに加速し、全身を血液が激流のように巡っている。
「それがあなたたちの目的なのね」
「それ、というのが何を指しているのかわからないけれど、私は主人の目的には興味はない」
カエデの発言の一言ずつが鎮まり掛けていた感情を逆撫でする。そんな曖昧な意思で川崎の命は今天秤にかけられているのかと思うと、怒りなどでは形容し難い猛烈な感情に支配されそうになる。
『今度は丸々1本食べれるといいな』
不意に川崎との会話が蘇る。よく考えてみれば私の川崎を守りたいという理由も案外大したことないことに思い当たる。こんな自分に明日が訪れるかも不確かな世界で、そんな呑気なことを言う彼に呆れ果て、涙が出た。
「わかった。あなたの言うことをとりあえずは聞き入れる。ただし・・」
綻びかけた口を引き締め、視線をカエデの心臓に据える。
「もし、川崎が助からなかったら・・わかってるわね」
カエデの瞳に映った自分の姿は外見こそほとんど変わっていなかったけれど、それは確かに変化していた。元々黒髪だったアイの髪はその美しい光沢と艶を失い、墨で書いた滝のようだ。
カエデの思惑はわからないままだけれど、今なら武力でも十分に対抗できる。カエデは自分は手を出さないという意思表示なのか数歩下がり両手の平をこちらに向けている。
手の中には先ほど潰したものと同じオランジュの実が握られている。しっかりとした重みと張った外皮からまだ捥がれてから時間は経っていないように思える。
私たちからすればこれは食べるものではないという認識だけれど、自暴自棄になった住民が食べてしまったと言う報告を聞いたことがある。味はコロニーにある食材では到底及ばぬほど豊かなものらしいが、好き好んでこれを口にするものは少なかった。
「おねがい・・」
いまはこれだけが残された希望なのだ。カエデの言っていることが本当なのだすれば、これで川崎の傷は回復する。私は、カエデの目的がなんなのかなんとなく予想ができたけれど、もはやそれは見過ごすしかない状況だ。
オランジュの外皮を剥き、中から出てきたそれを一房指でつまむ。白い柔らかな膜のようなものを丁寧に剥がし、水々しいオレンジ色の果肉が顔をだす。
呆けたように空いた口にそっと、実を近づける。意識を失っているようだけれど、唇に触れた瞬間ピクリと微かな反応を見せた。肌の色は青色に近く、通常なら手の施しようがない状況だ。
「・・ちゃんと守ってあげられなくてごめんなさい」
私は、自ら彼に禁じた実を、自らの手で口の中に押し込んだ。
変化はすぐに現れた。
血の気の引いた真っ青な顔は一瞬でその暖かさを取り戻す。胸に穿たれた傷も時間が加速したように、血液は凝固し、皮膚は痕も残さず修復されていく。
拍子抜けするほどの回復を見せ、川崎は壮健な体を取り戻した。
安堵で目の間が熱くなるのを感じる。しかし、まだ泣いている場合ではない。川﨑のこれから先の運命は、魔力の因子にどれだけ反応を見せるかによって決まってしまう。
カエデもやはり、実を食べさせるまでが目的ではないようで、ことのなりゆきを見守っている。
ここで反応が終わればなんの問題もない。しかし、そんな都合のいい結果になることはなく、予想通りの変化が川﨑の体には起こり始めた。
皮膚の色が抜け落ち、美しくも儚い白に変化する。
ついで、短く切りそえろえている髪を持ち上げるように両の耳が鋭く伸びていく。
「・・どういうこと」
あまりの変化の大きさに言葉を失う。たしかにオランジュの実の濃度は他の食材と比べてもかなり高い。それにしても、たった一口でここまで魔力因子に侵攻されるのは予想外だ。
アイの願いに反し、川﨑の体の変化はいまだ続いている。
気配を探ることも難しいほどに貧弱だった川﨑のエネルギーが加速度的に上昇していくのを感じる。先ほどから周りが静かだと思っていたけれど、周りに散在していたはずのヤドカリたちも距離をとってまったく襲ってくる気配がない。初めは私やカエデの力に気圧されているだけかと思っていたけれど、どうやら恐怖の原因は別にあったようだ。
最後の変化。川﨑の薄い茶色の髪から鮮やかと明るさが消失する。まっさらな半紙に一滴の墨が落ち、台無しになったような絶望が私の中に染み込んでくる。
体の回復は遠に終わり、ようやく川崎は目を覚ます。開かれた双眸はアイやカエデと同じ、宝石のように輝く藍色の瞳だった。
べレスへの変貌。もはやそれは疑いようもなく、彼の体は完全に魔人の肉体へと変化してしまった。
しかし、その姿はアイが予想しているものとは大きくかけ離れている。アメジストのような瞳孔に御伽噺の妖精のような尖った耳。そして、どんな光も飲み込んでしまいそうな漆黒の髪。
変身の最終段階となる瞳の変化をも超え、完全に人間の敵となる魔人《べレス》に変身してしまった。
「・・ありがとうな」
膝を折る私の感情など理解しようもない川崎は呑気に礼など言って頭をかいている。自分に起きた変化などまだ何も自覚していないようだった。
「ごめんなさい。私・・」
もう涙を堪えるのは限界だった。殺意で持たせていた気力も今、涙と共に砂浜に落ちてただのシミになって消えていく。狼狽える川崎に対し、申し訳なさでなにも言葉が浮かんでこない。
「なっ・・アイは泣いてばかりだな」
「泣いてない!」
こんな状況でも軽口を叩けてしまう川崎に対し、怒りと同時に羨ましく思う。私はこんなに苦しんでいるというのに、自分が人間じゃなくなっても平然としていられる。そんな楽観的な考えは今の私にはできそうもない。
「思った以上の魔力」
ここまで静観を通していたカエデが目的は達したとばかりに口を開く。しかし、そこにあるカエデの表情は任務を完遂できて満足という様子ではなさそうだ。
「流石に予想外。どう考えても雑種のべレスのエネルギー量じゃない。果たして、これを放置していいものなのか」
納めたはずの敵意を再び解放し、カエデは1歩また1歩と距離を詰める。
「今なら、まだ・・」
カエデの目が川﨑を捉える。べレスとして覚醒して間もない状況では能力すらまともに使うことができない。最悪の状況から、さらに一段階絶望に叩き落とされた気分だった。
「待て」
今にも飛びかかってきそうなカエデを制したのは、恐ろしいことに川﨑だった。自分を刺殺そうとした相手に対し、なんの恐怖も感じていないところをみると、人間としての欠陥なのではとすら思えてくる。
「何してるの、あなたは私の後ろに」
「アイも落ち着け。俺だって戦うつもりはない」
そう言いつつも1歩前に出る川﨑。身体能力は格段に上がっているとはいえ、カエデがその気ならば勝負ならない。アイも再び赤褐色の剣を装備し、臨戦体制に入る。
「カエデ・・お前も一緒にこれ食べないか」
剣を振れば余裕で首を刎ねられる間合い。そんな危険地帯に侵入した川崎が発した言葉に、アイも、カエデさえも間抜けな声を漏らした。