食べる命と食べられる命Ⅲ
どこまで沈むのだろう。水面を切る石ころのように吹き飛ばされたあと、全身が硬直した私は水面を上にしてどんどん下へと降りていく。
戻らなければ。そうは思っても体が言うことを聞かず、光の揺らぐ水面は遠ざかっていく。人力を超えた限界超過の能力はオーバーヒート寸前で、支点のない水中ではそれだけの力では水面まで浮き上がることはできないかもしれない。
約束を守れなかった。私は、あの奇妙だが悪い人ではない、あの優男を守ることができなかった。
私はこんな姿になった自分のことが嫌で嫌でしょうがなかった。けれど、その代償に獲得した能力は自分以外の誰かを守ることができる特別な力だと、そう思い込んでいた。結局、丈夫になったのは自分の体ばかりで、あの時から何一つとして変われていないではないか。
母を失った、あの時から、何も。
私は、あの異世界から来たと言う男に希望の光を見た気がした。頼れるものもなく、右も左もわからない闇の中でもがいていた私にとって、同じ闇の中を彷徨う彼の存在はそれだけで十分すぎる光だった。
まだ、死なせない。
不意に死の冷たさが指先からじんわりと心を支配する。体温が奪われていく人間の、生物から物質に変わっていく冷たさはまだべったりと手に染み付いて取れそうもない。
限界超過《オーバーリミット》?そこが限界の臨界点なのだというのなら、私はここでその限界すらも超越してしまわなければ、もう2度と失いたくなかったものを再び失うことになる。
沈んでる場合じゃない。
「限界超過《オーバーリミット》鉄渦《グレイ・ストリーム》」
うまく動かない体を水銀の渦が無理やり押し上げていく。水中から出た時、まだあの怪物がそこにいたらと言う恐怖はもうなかった。
残る力を振り絞った能力の行使は手加減などできるはずもなく、水中から飛び出した私は崩れた体勢のまま砂浜に投げ出された。さっきは肩に降った砂すら嫌悪したけれど、いまはそんなことに構っている余裕はない。
「か、わさき・・」
能力の酷使で疲弊した体は、自分の体じゃないみたいに重い。起き上がるだけでも内臓がミキサーされたような吐き気と痛みが襲いかかる。視線は気を抜くと下へ向き、三つ編みを編むような奇妙な足取りで、おそらく前へと向かっている。
私の体はほとんど無傷だ。切り傷はいくつかあるものの血の一滴も流れず、スカートの裾や襟口が乱れる程度。ただ、空腹と能力を行使した反動が体を鉛のように重くする。揺らぐ視界のなか、先ほどまで2人がいたはずの場所を目指す。彼女が川崎に一体なにが目的で接触しているのかはわからない。
漆黒の髪の少女。あの闇を擬人化したような怪物を前にして、私は一瞬で死を覚悟した。記憶の奥底に押し込んだ記憶が10年越しに呼び起こされる。あの時とはおそらく別人だけれど、あの漆黒の様相は忘れるように努めても忘れることなどできなかった。
お願い、神様。
さっきから冷や汗が止まらない。最悪のイメージと過去の災厄が交互に脳内を侵食する。
膝から崩れ落ちる。遂に力尽きたわけではなく、そこに目的のものはあった。そこには力無く四肢を投げ出した川崎の姿があった。胸から血を流し、まっさらだった砂浜を真紅に染め上げている。
ここで私は、あることに気がついた。私は、すでに絶望の底にあり、これより下はないのだから大抵のことは些事だと目を逸らすことができるだろうと。
しかし、絶望にはそこなどなく、実際はどこまでも沈んでしまうものなのだと言うことを。
自分の声だと一瞬気がつかないほどの絶叫に鼓膜と喉が割れそうになる。ようやく届きそうだった光が、一瞬で闇に覆われてしまった気分だ。
「うるさい」
沸騰していた頭に冷水をかけられたような気分だった。冷ややかな声に顔を上げると、そこにはまだあの悪魔のような少女はそこに立っていた。
「殺されたいの」
猛禽類を思わせる、まるで人を小動物のような非捕食者としてしか捉えていない冷たい目。しかし、二度目に彼女を目にした時、私の中に生まれた感情はかなり異質なものだった。
「殺されたいか・・ですって。ふざけないでよ。彼は、私の最後の・・殺してやる」
アイの目から光が消える。弱肉強食の世。食われること自体は世の理であり、それを恨み節に言うのは間違っている。彼では生き残ることはできなかった。ただそれだけのことのはずなのに、案外冷静な頭でもそう割り切ることは難しかった。
血の登った頭で考えていたのは、そこまで。
思考する間も無く、赤銅色の剣が敵の眉間に投擲する。飛来する刃に目を覆うこともなく難なくカエデは回避する。
「馬鹿なの。無駄なこと・・」
武器は後方に去った刀剣だけ。そう思い込んでいたカエデは眼前に迫る鋒に言葉を失った。その完璧なまでの漆黒の髪が、はらりと1束千切れて宙を舞う。圧倒的と思っていた実力差が、突然暴走とも言えるアイの攻撃により一気に詰められる。
カエデは驚愕していた。ほとんど障害にすらならないと予想していた少女が、正気を失ったのか目を血走らせ必死の形相で向かってくる。それは格上であるはずの自分でさえも対応を制限されるほどで、反撃を入れる間もない。
赤銅の剣が一瞬きの間に目、喉、胸、腹と四薙、確実に急所を狙ってくる。彼女の超過の力なのか、剣は右手が降り終わるのと同時に、左手に瞬間移動し擬似的な二刀流を成立させている。時々、なにもせず右手から移動させないままに返す刃を入れてくるからさらに太刀筋が見切れない。
これだけ洗練された動き、先ほどまで虫の息だった人間の動きではない。まさか、この子も・・。
主人に出された命令には、べレスの子の駆除まではなかった。おそらく、これは主人にとってもイレギュラーな状況なのだろう。流石の私でも、今の彼女の相手は容易ではなさそうである。
「どういうことかわからないけれど、あなた突然強くなったね」
「黙れ」
返答するだけの意識は残っているようだけれど、殺意に支配されたような彼女の姿はもはや狂戦士だ。
彼女にとっての地雷が川崎という男だった。それならば、私としても都合が良くこれ以上戦う必要性も感じない。
「少し落ち着いて」
「黙れ!」
「あの人はまだ死んでない」
剣に篭った殺意に迷いが生まれる。それを見逃さずカエデは刃に触れないように剣を受け止めた。
「・・誰が、そんなこと信じるの」
「信じるか信じないかはあなた次第。私にはそんな嘘をつく必要はないけど、目的を言えば少しは頭も冷えるでしょう」
激昂していたアイの表情が少しだけ涙に滲む。まだ刃はカエデに突きつけられたままだが、ほんの少し見えた心が先に限界を迎えたようだ。
「人間とは、本当に脆い。同族の死如きでここまで狼狽えるなんて」
「・・うるさい」
カエデは懐に入れていた主人からの預かり物をアイに手渡す。
一瞬の逡巡があったけれど、アイは空いた手でそれを受け取る。それは、見覚えのあるものだった。鮮やかな色と爽やかな香り。どう見ても、オランジュの実だった。
「なにこれ」
「この世で最も魔力の密度が高い食材。オランジュの実」
そんなことは誰でも知っている。そう反論したかったが、それより先に続けるカエデの言葉で、彼女の言わんとしていることを理解した。
「それをあの男に食べさせて」