彼方の空色Ⅰ
「面倒な子」
いつの間にそこに座っていたのか、カエデが足をぶらぶらとさせて椅子に座っていた。しかし、慣れとは怖いものでこんな超常的な状況でも俺は特に驚くことはなかった。
「お前のほうが何倍も面倒だろ」
「ここ風呂はないの?やっぱり向こうの部屋に帰ろうかしら」
カエデはまるで自分の話ではないかのように、茜屋の中を物色し始める。そのあまりの身勝手さには呆れるが、それにすら慣れてしまっている自分がいる。
「カエデ、お前の能力って瞬間移動であってるか」
しょうがないので、気になっていた質問を投げかける。これにも無視されるかと思ったが、意外にもカエデからは返答が帰ってきた。
「そうね。誰かさんのおかげで随分質素な能力になったけれど、大体それであってるわ」
「それで、その能力で俺の体に何をしたんだ」
「あら、思ったより鋭いのね」
平気な顔でそんな風に言うカエデは少しも悪びれた様子はない。一度殺す、などという馬鹿げた強硬策に出てまで果たさなければならなかったことが一体なんなのか。冗談ではなく命をかけて乗ったのだからそれを知る権利くらいは俺にもあるだろう。
「いまなら誰も聞いてないから教えてもらえるか?」
「本当は教えてやる気はなかったけど、噂の心眼がいなくなったことは確認できたから少しは教えてあげてもいい。そうしないと、あなた自分の体を大切にしそうにないから」
俺はカエデの腕が突き刺さった場所に手を触れた。もちろんそこにはもう何も残ってはいないが、カエデが俺になにか大切なものを預けたことだけは知っている。
「あの時、カエデは俺にとっても大切なものだと言ったな」
「そう。それがなんなのか、それが知りたいのよね」
俺は当然だとばかりに大きく頷いた。あの時は死ぬか、一度死んで生き返るかの二択しかなかった。しかし、カエデが俺の胸に手を当てる瞬間に言った言葉がどうしても頭から離れない。
俺にとって大事なものとは一体何か。どうして、それを初めて会った他人が持っているのか、信じられるだけの根拠があったわけではない。
ただなんとなく、本当に勘としか表現できない曖昧な考えでカエデの頼みを聞いてしまったのだ。
「先に謝っておくと、私はあなたにもう一つ隠していたことがある」
「もう一つ?」
カエデの隠し事など両手の指で数えられるかあやしいほどあるが、わざわざこのタイミングで話すこととはなんだ。
「私は主人のために行動している。だから、あなた自身がどうなってもかまわないと思っているわ」
「それは物騒だな」
カエデの言葉の端々から、何者かに対する忠誠心が感じられてはいたが、これは流石に狂気じみている。年はおそらく中学生くらいであるはずの少女が崇拝している人物が一体何者なのか。むしろ聞きたいことは増えていく一方だ。
「あのとき、本当のことを言えばあなたには死んでもらったほうが都合がよかった」
今度は流石に息を詰まらせた。軽い雰囲気からは考えられないほど突飛な内容に、俺は池の鯉のように口をぱくぱくとさせる。
「私は主人のことが大好き。主人も私のことを好きだって言ってくれる。でも、それは一番じゃない。一番はあなた。わたしの主人が一番好きなのは川﨑蒼あなたなの」
何を言っているのかわからない。たしかな敵意を向けられながらも俺はどうしていいかわからず目をおよがせていた。
「知らないぞ。俺は、お前の主人なんか」
「知ってる。知らない訳が無い。あなたも、あの人のことが大好きだったって」
俺が、その人のことを好き?ますます理解が追いつかず、ずっとおうむ返しのような返答を繰り返している。
「誰なんだそれは」
「この新世界を再建した唯一神アカネ。たしか、この店の名前は茜屋だったわね。さて、どういう理由でつけたのかは知らないけれど、偶然同じ名前・・なのかしら」
「なにを言ってるんだ。茜屋ってのは、俺の姉さんの名前から取ったんだ。俺がこの世で一番尊敬している人だけど、流石に神様なんかじゃないさ」
思った以上に言葉に力がこもる。
「私の口から言えるのはここまで、それじゃまた明日」
言い終わるが早いか、カエデは座敷に置いてあったブランケットをかぶってそれ以上は何も答えてくれなかった。