地球最後の日に食べたいものは?Ⅱ
今まで、鯛の活きシメなどは経験したことがあったが、まさか自分がシメられる側になることがあるとは思いもしなかった。
鉄の槍が突き刺さった衝撃は幹を伝わり5メートル上の梢にまで伝播している。オレンジ色の果実が一つ、その重みと衝撃に耐えきれず、俺の足元にごろりと落ちた。それを彼女は拾い上げ、手のひらで弄んだ。
そこで俺は、ようやく呼吸を思い出した。何秒くらいそうしていたのだろう。生命を諦めていた体から汗が吹き出し、全身が歓喜に震えているようだ。
「当たったところで死ぬわけじゃないんだし、何をそんなに焦ってるんだか」
当たったら死ぬだろ、と心の中で突っ込むがまだそれを口に出す余裕はない。
ちくりと耳に刺すような痛みを感じる。見てみるとぽたぽたと鮮血が流れ落ちるが、耳が落ちてこないだけいまは有難いと思う。大きく穿たれているのか、はたまたかすっただけなのかはわからない。
「これはオランジェの実。たしかに食べれるし、別に好き嫌いで言ってるわけじゃない。もし、本当にこの食べ物たちのことを知らないんだとしたら、私もこんな・・」
言葉が途切れる。空腹に耐えかね、そのオランジュの実に齧り付いたのかと思い顔を上げる。それを見て三度驚いた。彼女は手に持っていた実など放り投げ、俺の顔にそっと手を触れた。
その手には、憎悪も殺意もなく、宝物を見つけた子供のように潤み輝いていた。
「なんで・・ほんとに・・」
不覚だった。数秒前に殺されかけた相手に対し、俺は単純に可愛いと思ってしまった。
「あ、ありがとう」
俺は直後、特に質問なく拘束を解かれた。彼女の中でどういう解釈がなされたのかはわからなったが自由になったことを素直に喜ぶことにした。
「あなた、今までどこで生きてきたの」
「ええと、地名じゃわからないかもだけど、日本ってところ」
「ニホン・・」
やはり、ここでは日本も東京も通じないようだ。ただこれはなんとなく察していたことなので特別驚いたりもしなかった。
「そこには、あなたみたいな純粋な人間がたくさんいたの?」
「ああ」
「そう。それは、私もいつか行ってみたいわ」
「・・」
俺はこの異世界にきて、なんとなく察したことが二つある。一つ目は、やはりこの世界には物語のような魔法が存在していること。俺はそれを身をもって知り、それが思っている以上に強力で恐ろしいこと。そして二つ目は、どうやらこの世界の人間は俺のいた世界にように繁栄していないということだ。
不本意にも胸を締め付けられた彼女のあの表情が、珍獣に対する博愛心のようなものだと思うと、警戒心が強くなる。緊張のせいで口の中は水分がほとんど飲み込まれる。
「とりあえず、君が食べないならこの実は俺がもらうよ。もったいないし」
「それはやめた方がいいわ」
俺が実を口に運ぼうとすると、彼女がそれを制止する。
「やっぱり、これは食べられないものなのか?」
「本当にわからないわ。今まで奇跡的に食糧に恵まれていたにしても、邪悪の調理《マッドクック》のことすら知らないなんて」
「邪悪の調理《マッドクック》?」
「そう。教えとかないと危なっかしいけど、とりあえずコロニーを探しましょう。そうでないと、あなたは日が登り切る前に死んでしまいそう」
嘲りなのか、真実なのか彼女の笑みからは計り兼ねるが、俺もここに置き去りにされては溜まったものではない。
「そうだな。そうしてくれると助かるよ」
この子と一緒に行動するのも同じくらい危険か、という疑問が浮かんだが彼女は俺の返答を待つことなく、踵を返していた。もしかしたらこのまま見世物小屋にでも連れて行かれるんじゃないだろうか。
「さあ、こっち・・」
目の前の影がゆらりと頼りなく揺れる。目の前の彼女が突然、前のめりに倒れたのだ。
「おい!大丈夫か」
気を失ったのか、顔から落ちた彼女は抱き上げても返事がなかった。あまりに突然の出来事に、彼女への疑念など忘れてしまっていた。
「なんだ、これ・・」
寝ている人間は意識のある人間よりもかなり重く感じるものだ。酔っ払って眠ってしまった客なんかは、横にするだけでもかなりの体力が必要になる。
しかし、彼女の体はおよそ人間の体重が備わっているようには思えない。布漉しに伝わる肉体は骨に皮が張り付いているだけのようにか細く、こうしてみると顔色も血の気が引いている。
そして、俺は彼女が言っていたことを思い出した。一週間なにも食べていないというあの発言を。
彼女の目が覚めたのは、それから30分ほどたった頃だ。木陰に横たえ、上着をかけてあげたが思いのほか早く起きてしまった。
「私、どうしたんだっけ・・」
自分でも何が起こったか把握できていないらしく、打ち付けた額に触れなんとなく察したようだった。
「栄養失調だろう。一週間も食べてなければそうなるのも当然だ」
彼女の症状はどう考えてもそれしか思いつかなかった。エネルギー不足で意識が朦朧とするなど、日本ではあまり聞かない話だが、ここではそうもいかないのだろう。もはや、あの実の話など持ち出す必要はないように思えた。
「君、火はだせるか?」
「出せるけど、一体何を」
「そうか。なら、この枯葉に着火してくれ」
ほとんど有無を言わさなかったことで、起き抜けの彼女は案外すんなりと応じてくれた。しかし、その火の出し方が意外で、てっきりファイアボールみたいな魔法を使うかと思いきや、出てきたのは鉄の棒とマグネシウムの粉を生成し火花を散らして点火するという原始的な火付けだった。
「よし。しばらく待っててくれ、あとちょっとで簡単だが飯ができるから」
「めし・・?」
うまく発音すらできていない。やはり、彼女はすでに絶食の限界まできているようだ。俺はビニール袋に入っていたなかから2つを取り出し、焚き火の中に放り込んだ。
「そんなことしてる場合じゃない。今は明るいから安全だけど、日が落ちれば獣たちも襲ってくるかも」
「なら、余計にこのまま行動するのは危険だろ。心配しなくてもそんなに時間はかからないから」
どういうわけか、彼女はこの森の食べ物を口にしようとしない。ならば、俺がいた世界から持ち込んだ食べ物ならばどうだろう。いま、焚き火の中で燃えているのは昨夜購入したシルクスイート。本当は大学芋にして折り詰めのデザートにしようかと思っていたが、ここには他に材料もない。むしろ、焼くだけでも十分美味しいさつまいもで行幸だったとさえ言えるだろう。
「今のうちに、説明してくれないか。どうして、君はこんなに豊かな場所で一週間実の1つも食べようとしないんだ」
食べなければ生きられない。飢えの苦しみは痛みとは別の恐怖にも似た苦痛だ。気が狂いそうになる苦しみを我慢しなければいけない程の理由とは、一体なんなのか。それは魔法やエルフなんかよりもずっと知りたいことだ。
「・・いいわ。教えてあげる」
一瞬の逡巡があったが、彼女は首を縦に振った。
「あと、たぶん勘違いしてるみたいだからこれは初めに言っておくけど、私もあなたと同じ人間よ」
彼女の瞳が焚き火に照らされて光る。驚いたのは、その瞳の中にいる俺が予想以上に間抜けな顔をしていたことだ。