重曹を舐めるⅢ
「懐かしい匂いだ」
シゲヤスは穏やかな顔で言った。
たしかに、この匂いを懐かしいと思うほど母の記憶は薄れていなかった。厨房に立つ蒼の姿が、記憶の中の父と母の姿に重なり、胸が締め付けられる。
もう、絶対に無くしたりしない。
お茶を持つ手に力が入る。飲み口に映る自分の姿を見てようやく自分が泣きそうな顔になっていることに気がついた。
「そんな顔するな。カナエが泣くぞ」
「・・お母さんも川﨑と知り合いだったんですよね」
「ああ、茜屋で一緒に働いた仲だ」
茜屋が昔は料理を提供する店であったことは知っている。しかし、私にとって尊敬すべきあの3人が・・。
「熱っっ!!」
「なにやってんですか」
「おたまの取手が焼けてたみたいだ」
「気をつけてくださいよ」
厨房の中から悲鳴が聞こえる。急に騒がしくなったと思えば、どうやら調理中に蒼が火傷したらしい。
「・・本当にあの人が店長だったんですか?」
年齢に関しては、蒼と私たちとで歪みがあるらしいので若すぎるのは理解できる。しかし、それを差し引いたとしても、あの男に英雄的存在の3人を従える器量があるようには見えない。
シゲヤスも私が何を言わんとしているのか理解したらしく、苦笑を浮かべている。
「確かに、たよりなく見えるわな」
蒼が失敗して、それに振り回される様子は容易に想像できる。目の前で起こっている光景も、慌てているのが蒼だけで、後の2人は呆れていることから慣れた状況なのだろう。
「氷ってありましたっけ?」
「製氷機は動かしてないからな。まあ、水で流してれば十分だろう」
「私、氷買ってきます」
体が丈夫とはいえ、痛みやしびれは対処しなければ治りが遅い。手間ではあるが、確か通りの商店には氷屋があったはずだ。
シゲヤスはなにか言いたそうだったが、その時にはもう玄関をくぐって外に出ていた。
「まったく、母に似て世話焼きだな」
「お待たせ。あれ、アイはどこ行った?」
「どこかの阿呆が火傷で騒ぐから、氷を買いに飛び出していったわ」
「なんでアイが?」
蒼とアイの関係を知らないヘイジが疑問を呈す。警戒心を隠そうともせず、蒼に熱い視線を送る。
「助けてもらったんだよ。森で目が覚めたら、たまたまアイが通りかかってここに連れてこられたんだ」
今考えてみると、制服を着た姿は彼女の母親の学生時代によく似ている。
「・・そっか、確かによく似てる」
むしろ、気づくのが遅すぎるくらいだった。
「あれ、諏訪さんの制服だったんだね」
「・・アイが大人になる前に、着せるんだって大事にしてたものです。この店と一緒にたまたま再生できたらしいんですが、制服が唯一残ったカナエの形見です」
制服姿でバイトの応募に来た時の諏訪の姿が脳裏に蘇る。
思いがけず、再び湿っぽい空気が店の中に充満し、居心地が悪くなる。
焼きあがったばかりのカルメ焼きを一つ手に取り、口に運ぶ。甘い香気が口から鼻に抜け、さくさくの食感が口の中で崩れていく。もう一口齧ったところで、予想外の刺激に顔をしかめた。
「あら」
それは溶け切らなかった重曹のダマ。しょっぱいような酸っぱいような独特の刺激で、せっかくの甘味がかき消されてしまう。
「酸いも甘いも嚙み分けるってこういうことなのかな」