初恋はレモンよりもかぼす味Ⅴ
ポケットに手を入れると、丸い感触がすぐに見つかる。小学生の頃、旅行で行った大分土産のかぼすのキャラクターのキーホルダーとくすんだ銀色の鍵がだらりと顔を出す。
「いつ帰ってきてもいいように、鍵はそのままにしてある」
鍵を差し込み、回転させるとかちゃりと解錠された感覚が手に伝わってくる。
引き戸を開けると、営業していた頃とほとんど変わらない茜屋があった。日当たりは悪いが、一日中薄暗い店内を暖色の灯りが照らしている。
「どうだ。あの頃の茜屋のまんまだろ」
「うん」
まだ実感がない。茜屋に入った瞬間から夢の中にいるような感覚だ。ここだけが不自然なほどにもとの世界のままで、正直違和感しかない。
シゲヤスはまっすぐに右端のカウンター席に座り、どこから取り出したのかミックスナッツをつまみだす。
「昨日もここで飲んでたんだ」
「光武みたいな品のいい酒はないがな」
このまま昼から酒を煽りそうな勢いのシゲヤス。
いつものように厨房に入り、台の下に置いていたスツールを引っ張り出す。カウンター席を挟んで、座敷席、卓席が見渡せる特等席。あまりにも馴染んだ厨房からの眺めが、なぜか今は目に沁みる。
納得のいかないサプライズに困惑していると、ようやくシゲヤスが口を開いた。
「10年前、邪悪な調理《マッドクック》より6年ほど前、まだべレスの能力が希少だった頃にここを建てた。あの時は、お前の墓を立てるつもりだったわ」
まさか、死んだと思った人間が24年も経ってから現れるなんて思いもしなかっただろう。シゲヤスは本当に愉快そうに笑っていた。
「よくそんな馬鹿な考えに乗ったよね。もしかして、リュウゲンさんたちも?」
「いや、そのときは俺もただの人間だった。残念ながら再建を言い出したのも俺じゃない」
「吉野さんじゃないの?」
そういえば、シゲヤスの話では旧世界から生き残った人の中に鈴村と諏訪もいたようだ。もしかすると、その2人のどちらかが言い出してくれたのだろうか。
「もしかして、諏訪さん?」
一部期待を込めてシゲヤスに問いかける。諏訪か鈴村、どちらであっても茜屋にそれだけ入れ込んでくれていたというだけで嬉しい。鈴村は現実主義なところがあったので、より人間味のある諏訪の提案だと予想した。
「・・ああ、そうだ。先に聞いておくが、蒼。失恋の経験はあるか?」
「ん?ないけど」
あまりに突拍子もない質問に、反射的に答えた。残念ながら、自分の20数年の人生の中で、そんな青く浮いた話は皆無と言ってもよかった。小中学校はまだまだ子供で、高校生の頃はほとんどの期間が感情が死んでいた記憶しかない。異性の顔で思い浮かぶ人間がいなくもないが、実の姉などカウントされないだろう。
「やっぱりか。ふむ・・」
黙ってしまったシゲヤス。その間に、冷蔵庫の電源を確認する。一応電気は通っているようで、扉を開けると冷気が脛を撫でる。丸一日ビニール袋の中に入ったままだった食材を冷蔵庫に片付けていく。最後に卵のパックを最上段に片付け終わっても、シゲヤスは顔をしかめたままだった。
「なんで急に黙っちゃうの」
「うむ、今更ながら当人がいない場で話していいものかと思ってな」
「当人?それって、諏訪さんのこと?」
「俺に気を遣ってるんでしょ」
聞きなれない声が店の中に響く。いつの間にか開いていた入り口に立っているのは、40代くらいの細身の男。腰に剣を帯びた男は、シゲヤスやリュウゲンと同じ、旧世界の人間にはなかった迫力がある。
「なんだ、帰ってきてたのか」
「娘が見つかったなら、あんな獣臭い場所で寝るのに耐える必要もないですから」
「もしかして、アイのお父さんですか?」
たしか、兵団の副団長ヘイジといっただろうか。たしかに、頼りになりそうな逞しい男だ。
目が合い、とっさにこくりと会釈をする。すると、なぜかヘイジは肩をすくめ、薄く笑った。
「本当にだったな。さすがに冗談かと思ったが、こんな鈍いやつはほかにいねえ」
シゲヤスに視線で助けを求めるが、なぜか視線が合わず逸されてしまう。
明らかになにかを知っている様子だが、言いかけていた言葉を続ける気はなさそうだ。
「いままでどこにいた」
「外ですよ。カラスが湧いてたんでついでに何羽か落としてきました」
「それで、ルール違反を見過ごせと?」
一瞬、場が静まり返る。大気が震えたような圧に、ただ見ているだけの俺まで息をのんだ。
そんな緊張の漂う中、ヘイジは笑った。
「見過ごしてくださいよ。愛娘のとこに飛んでいきたいところを、野郎に会う方を優先したんだから。ねえ、店長」
店長。その響きに聞き覚えがあった。というか、この世界に俺のことを店長と呼ぶ人間は3人しか存在しない。
「また会えて嬉しいよ。あの頃は歳上だったから大人に見えてたけど、こうして見るとまだまだ子供だな」
「・・鈴村くんなのか?」
にやりと笑った顔が、あの日の彼の顔と重なる。変わってしまったようで、全く変わっていないヘイジに、俺は驚きよりも安心した。
まだ、あの頃の茜屋は取り戻せる。そう確信した瞬間だった。