初恋はレモンよりもかぼす味Ⅳ
朝食を食べることもなく、俺はシゲヤスに連れられ兵団本部を出た。入るときは暗かったので気がつかなかったが、石造の建築はまるで砦のような頑強さがある。24年という月日は決して短くはないが、それでも旧世界の文明が何千年もの時間をかけて作り上げたものが、こうして少しずつ人の手で再生されていく。
それを自分だけが知らないことが、少しだけ疎外感を覚えるが誰が意図したわけでもないことなので仕方がない。
「どうだ。まだまだ活気は足りないが、形だけはしっかりしてるだろ?」
「うん。すごい」
大通りには花屋や雑貨屋が軒を連ね、まだ午前中だというのに人で溢れていた。おもちゃを買ってもらってはしゃぐ子供、噴水に腰掛けて談笑する女性たちなど、旧世界の日常と変わらぬ光景がそこにはあった。
なにもかも元通りとはいかないだろうけれど、それでも前に進もうとしている人たちがいる。
「俺だけ、置いてかれてるね」
「当時2歳の赤ん坊と同い年だ。リンも今年で26になる。お前が人形みたいと言ったあの子がもうそんな歳だ」
「リンドウさん?そんな名前の子、知り合いにいたっけな」
リンドウとは確か花の名前で可愛らしい名前だと思う。しかし、そんな名前の子に会った覚えはない。
「まあ、わからんでもしょうがないか。今朝の様子からなんとなく気づいておった。リンは俺の孫だ」
そこで足がぴたりと止まる。思考も急激に鈍くなり、シゲヤスの放った一言を長い時間をかけて咀嚼する。
「えっ!嘘だ。こんなイカつい男からあんな美人が生まれるわけがない」
シゲヤスとリンドウの顔に似ている部分などいまさら確認を取るまでもない。強いてあげるとすれば、この刺すような目の鋭さぐらいで、容姿から血縁であることを見抜けるものはいないだろう。
「失礼なやつだな」
「だって、年取ってさらに凶悪犯みたいな顔になってるし、同じ血が通ってるとは思えない」
「おい気をつけろ。ここでは俺に法律は通用しない。どうなっても知らんぞ」
殺気を帯びた眼光が一瞬だけこちらを向く。その仕草は昔と変わらない、本気で怒る前の前兆のような笑み。ほんの一瞬だけではあったが、シゲヤスが本気の感情を俺に向けていた。
「そんな顔してたら、26の孫でも泣いちゃうよ」
「・・怖くはないのか?」
険しい顔をしたままシゲヤスが問う。しかし、質問の意味がわからず、俺は首を傾げるしかなかった。
「確かに凶悪な顔だなと思うけど・・怖いのは顔だけだから」
もちろん、初対面の時はインパクトのある強面に怯えもしたが、それは小学生の頃の話だ。そんな昔の第一印象などかすれてしまってほとんど覚えていない。
「お前だけだ。この世界で、俺を恐れていないのは、お前だけだ」
賑やかな通りにあって、シゲヤス1人だけが寂しそうだった。
「敵も味方もない。望んで手に入れた力だが、あまりに強大すぎるせいで誰も近寄ってこん。リュウゲンやリンでさえ、今では顔色みて言葉を選びやがる」
シゲヤスの背中は筋肉で盛り上がり、老人とは思えないほど大きい。最強と呼ばれる人間の苦悩など俺には理解できない。
しかし、店を出すから手伝ってくれ、なんて突拍子もない頼みを聞いてくれるお人好しを俺は他に知らない。縮こまっていた背中をぽんと叩く。
「変わらないよ。たぶん、鈴村くんがいたらおんなじこと言うんじゃないかな」
「あいつはただ馬鹿なだけだ」
声を上げて笑うシゲヤスに、お返しとばかりに背中を叩かれる。80代の平手とは思えない重みに、顔から地面に叩きつけられそうになる。
「変わらないのはお前の方だ。呑気で楽観的。外に出たら、こりゃ1日と経たずに死ぬな」
「はは、それなら吉野さんの後ろに隠れてるよ」
「そうしろ。俺が前にいる限り、後ろにいる奴らが命の心配をする必要はない」
シゲヤスの背中に乗っているものの重さは計り知れない。そのおもりを10年も背負ってきた男が何を思い、何を捨ててきたかの道程もなにもかも俺はしらない。
それでも、いつも蒼の前を行く彼を恐ることはない。これ以上、頼もしい背中はないのだから。
「さあ、着いたぞ。腕っ節もない、学もないお前の、戦場だ」
そこは、大通りから脇道にそれてすぐの建物。一階建で、周りの建物のほとんどが石造なのに対し、その一角だけが木造建築で異彩を放っている。
『茜屋』と書かれたのれんを見た瞬間、俺は言葉を失った。