夜明けⅣ
西暦2023年、4月2日。
これが、人類にとって二度目の滅亡の日になった。
空は真っ白な光に覆われ、目を開けているのか閉じているのかさえ定かではない。ただ一つ、理解できることがあるとするならば、これが夢ではなく現実に起こっているということぐらいだろうか。
「こんばんわ。よかった、なんとか間に合ったみたいですね」
反響するよく通る声。耳に届いた声と同時に、視覚が回復し自分が今どこに立っているのかを理解する。
繁泰は、確かに自宅で晩酌をしていたはずが、いつの間にか東京の灯を下に見ている。驚きと恐怖で声をあげることはできないが、そこは間違いなく東京のはるか上空。しっかりとした地面があり、スカイツリーよりもさらに高い位置に存在する、天空の大地の上に繁泰は立っていた。
「なんだこれ・・」
「どうして私こんなところに」
「鈴村、それに諏訪も」
なぜこんなところにといいかけ言葉を詰まらせる。その理由を彼らが知っているようには見えないし、実際自分自身もその答えを持ち合わせてはいなかった。
ほんの1時間前まで同じ店にいた仲間の存在でほんのわずかに冷静さが戻ってくる。
「やあ。こんばんは。大変お待たせして申し訳ない」
その冷静さは再び訪れた眩いばかりの羽ばたきに吹き飛ばされた。
「これから、あなたたちには絶望をお見せすることになります」
慈愛の笑み。それが意味するところは慈しみなのか、愛おしさなのか。
「この度、この世界の主神になりました、アカネと言います。覚えておいてください」
再び視界は白い光に覆われる。繁泰ら約10000人を乗せた天空の土地を残し、天から注ぐ極光が地上を焼き尽くしていく。自分たちの世界が蹂躙されている現状を、この場の誰も現実と理解していない。
「あなたたちは、方舟の船員たち。この時代のノアの家族に選ばれた幸運な方々。あなたたちには進化を施し、1000年後に人類の息吹が完全になくなった頃に飛んでもらいます。楽しみにしてますよ」
「そして、俺たちは気づいた時には、荒れ果てた土地に放り出されていた。進化などといいつつ、無理やり与えられたのがこのべレスの魔力。24年経ち、初めは数人だけが持つ異能だったが、今となってはこの街の住人全員がべレスの魔力を保持している」
俺の思考は、おそらく途中で止まってしまっていた。あまりに大量の情報の波に、それら全てを受け入れるにはあまりに覚悟が足りていなかった。
「しかし、たかだか1000年程度で土地の形はそうそう変わらんものだ。あれを見れば、いやでもここがどこかはわかるだろう?」
シゲヤスの望む先に目をやる。早朝の霞がかった眺望のなかでも、シゲヤスの示しているものはすぐに見つけることができた。
白い頭を雲の上に出し、四方の山より頭抜けて高い山。藍色の空に高くそびえる、日本一の山の姿は1000年の月日を経てもその荘厳さにかげりはない。
「・・そっか」
世界終焉のシナリオを聞かされても不思議と心の中は穏やかだった。理解が及ばない部分が多いというのもあるが、今日1日で起こった出来事をまとめれば、俺の中の常識ではそれを押しはかることなどできない。
屋上テラスに設置されていたベンチに腰掛け、シゲヤスが酒を煽りながら問う。
「昨日だけじゃなかったっけ?」
「お天道様が出てないんだからいいんだよ」
都合のいい解釈に嘆息しつつ、夜明け前の水平線に視線を戻す。微かに赤みがかった水平線が夜の終わりと新しい1日の始まりを匂わせる。
蒼は大きく1つ伸びをした。
「やっぱり、朝イチの空気はいいね。世界が滅んでもこれはかわらないな」
冬場は朝が早いとまだ日が登っていないということもままある。だから、シゲヤスと男2人で日の出に立ち会うことも珍しくはなかった。
鼻に抜ける早朝の空気はひりついていて眠気を一瞬で奪い去ってしまう。
「冷静だな」
「そうでもないよ。」
「ほとんどの奴は、現実を受け止め切れないで暴れ出すもんだ」
「そりゃあさ。もう、あの世界がどこにも存在しないって考えたら・・」
俺にとって、あの店は命をかけてでも守りたかったもの。そんな大袈裟な話ではないけれど、命と友達の次くらいには大切なものだった。
少なくともこんな失い方をして、納得がいくわけはない。
「もとの世界に戻る方法を探すのも、お決まりの展開なのかと思ってたけど、とことん俺の人生うまくいかないね」
何かを案じているのか、シゲヤスは口を閉ざしたまま、まだ俺に喋らせるつもりらしい。
「心配しないでいいよ。俺も、ここで生きていく理由もみつけたから」
下手くそな笑顔を作り、遊ばせた手からサラサラの白い塩を生み出す。風に流され、朝の街に流れていくそれは、ちょうどよく顔を出し始めた日に照らされてきらきらと光っている。
「アイがなんであの時あんなに怒ったのか。リンドウさんがどうしてあんなに喜んでくれたのか」
強制的な進化とはつまり、突然ヒレが生えたり、翼が生えたりするようなものだ。徐々に、人である自覚を失っていく感覚は言葉にし難い苦るしみがあったはずだ。
「俺は、できることならこの街の人みんなを人間に戻してやりたい。俺の料理にそんな力があるなら、何万人にだって腕を振るうよ」
再び手のひらに塩を生成する。今度は、手のひらにあの富士のように高々と山盛りの塩をこの街すべてにかけるつもりで思い切りよくぶちまけた。
「前向いて生きなきゃ、茜に顔向けできないしね」
青空を連れてくる茜の朝焼け。大切な人に教わった生き方が、今の俺にできる最善であるという確信がある。
「とりあえず、からあげが食べたいな」
「全く。いつまでも料理のことばかりしか頭にない。いい年なんだから浮いた話の一つくらいないと心配になるわ」
緊張感は一気に解け、シゲヤスの額の深いシワも笑い声と一緒に吹き飛ばしてしまった。
その手の話題からはずっと逃げていたから、シゲヤスもいい答えなど期待してはいなかった。しかし、俺から出たのはシゲヤスにとって予想外なものだった。
「そんなんじゃないないけど。1人にしておけない、放っておけない子はいるよ」
「おい、まさかリンのことを言ってるんじゃないだろうな」
思考が先走ったシゲヤスが激昂する。
「違うって」
「じゃあ、誰だ。今更俺に隠し事なんてしないだろうな」
詰め寄るシゲヤスには冗談などでは納得しない凄みがある。万が一にも、リンドウにわるい虫が寄らないようにという過保護が、迫力のある顔面と共にジリジリとにじり寄ってくる。
「わ、笑うないでよ」
早くしろ、と言わんばかりにシゲヤスはうなずく。面倒なことになったと思いつつも、物理的にも心理的にも逃げ場はない。
俺は観念して、その名前を呟くように白状した。
薄暗い階段をあと10段も登れば、この街で一番高い場所から最高の朝日を見ることができる。しかし、私はそれ以上一段たりとも階段を登ることができず、その場にうずくまっている。
弱くて頼りない。初めて会った時から、全く印象の変わらない。包丁ひとつで無邪気にはしゃぎ回る子供のような大人は、あいつが初めてだった。
生まれた頃から周りの大人は、まるで今いるこの世界を滅ぼそうとしているのではないかと思うくらい、この世界に対し激しい憎悪を抱いていた。
だから、あんなふうに素直な生き方ができるあいつを心のどこかで羨ましいと思っていたんだと思う。
今まで知ろうとしなかったものに興味が湧いた。一緒にご飯を食べることが温かいことを知った。自分以外の誰かのために、命を投げ出してもいいと初めて思えた。
「あいつの口から、他の女の名前が出るのがこんなに苦しいなんて思わなかった」
本当は、いますぐ飛び出して、私も川崎の手伝いがしたいと言ってやりたい。
けれど、鼻の奥にある熱く濁ったものがそれを邪魔している。
「なんなの・・これ」