夜明けI
「宴会だ。飲み直すぞ」
シゲヤスは豪快に笑うと、脈絡もなくそう言った。
「おー!」
それに応えたのは蒼だけ。盛り上がっている2人をよそに、何が起こっているのか理解できないという疑問符がこの場を埋め尽くしている。
「2人はお知り合いだったんですか?」
我に帰ったリンドウが2人に割って入る。10年もの間、このコロニーを守り続けた兵団の長にして団を最強たらしめた男と、かたや突如現れた正体不明の第三段階のべレスの青年。この2人の間に割り込むだけでも脳のキャパシティは限界を越える。
「ああ、懐かしい。本当に・・なあ」
どこか感傷的なシゲヤスの表情にリュウゲンは渋い顔をしている。危うく、最も敬愛する団長の旧友を殺めるところだった。それに対し、リンドウは納得したように和やかな2人を見て微笑みを浮かべている。1人、矛の吐口を失ったカエデだけが所在なさげに不貞腐れている。
「おおげさだな」
蒼ももう何年も会っていないかのような懐かしい気持ちが確かにあった。しかし、それは錯覚であり、実際にはまだI日も経っていない。
今まで生きてきた常識の通じない世界に放り込まれ、全く異なる常識に打ちのめされた。
「でも、吉野さんは本当に老けたみたいだね」
「っははは!人のこと言えるのか。ぼろぼろじゃねえか」
よく見てみると蒼の服はここにきてからあっという間にぼろ布とかしていた。途中から腰に巻いていたおかげで無事だったが、ユニクロ製のシャツは数々の襲撃によって再び袖を通すのも難しい状態になっている。
「風呂にでも入ってこい。この時間ならもう誰も使ってないだろ」
スマホの時計をみると、9時を回ろうとしていた。今すぐにでもこの砂っぽい衣類を脱ぎ捨てたいところだが、ほかほかと湯気を立てている卵焼きをみるとどうしても迷ってしまう。
「それなら、私にお任せください。検証の方はこちらで済ませておきますから」
視線から察してくれたのかリンドウがそう申し出る。調理中ずっと蒼の姿を見ていたリンドウはすでに、蒼への疑いなど少しもないようだ。
「ありがとう。それならお言葉に甘えさせてもらおうかな」
「ああ。その間に、宴会の準備でも済ませておくさ」
「楽しみにしとくよ。あ、そこにあるの適当に使っていいから」
蒼は普段と何も変わらない口調で机の上に置いてあったビニール袋を差した。
「それでは、案内しますね」
リンドウの案内に従い、蒼は厨房を出る。それに続いてカエデも蒼の後ろをついてきた。
「なんでカエデも来てるんだ?」
「1人だけお風呂入ろうなんてずるい」
「ここです。私は着替えを取りに一度戻りますね」
「ありがとうございます」
無理やり付いて来ようとしていたカエデをアイに引き渡し、案内された浴場へと足を踏み入れる。ようやく砂に塗れた服を脱ぎ捨てると一気に体が軽くなる。ふと、胸の傷が気になり手を当ててみるが、それが今日ついた傷とは思えないほどに綺麗に塞がっている。火傷あとのような浅い傷跡が残っているだけで、それが夢ではなかったということだけを物語っている。
浴槽は思っていたよりも広かった。岩を組んで湯を張ったそれは、温泉のような作りで期待をいい意味で裏切られた。
お湯に自分の中の全てが溶け出していくようだ。緊張していた体が弛緩し、空腹さえなければこのまま眠ってしまいそうだった。
たったI日で俺の人生は、大きな分岐を迎えた。どこへ続いているのか全くわからない、未知の道のりに対し、恐怖よりも好奇の感情のほうが優っていることに我ながら呆れる。
「まあ、死ぬまで生きてればそういうこともあるだろ」
初めは何度も死を覚悟したが、いま肌で感じている湯の暖かさは今日を生き抜いた証だ。蒼の場合、恐怖や悲しみといった感情が壊れてしまっている感は否めないが、それでもそんな感情をいつまでも引きずっているよりはずっといいと思う。
「着替え持ってきたよ」
すりガラス越しに映る人影に、全開だったそこを慌てて閉じる。
「ありがとう。その声はアイか?」
その澄んだよく通る声は、聞き間違いようもない。
「ええ。川﨑、団長と知り合いだったんだね」
「この世で一番頼りになる人だと思ってる」
「みんな思ってる」
ガラス越しでもアイが笑っているのがわかった。外ではずっと気を張っていたのか、もしかするとこっちが素の姿なのかもしれない。影はすっと小さくなり、背中をガラスに預けた。
「ごめん」
「何を謝ってるんだ?」
謝られる理由がわからず問い返す。少し黙ったアイだったが、ぽつぽつと言葉を紡ぎ出す。
「守るって言ったのに、私はあの時動けなかった」
それは、リュウゲンが飛び出して行った直後のこと。後を追おうとするアイの前にジュンイチが立ち塞がり、ジュンイチの問いかけに対しアイは言葉を詰まらせた。
一度は捨てた故郷に戻ってくる理由をくれた人と、また1人になるかもしれないという恐怖を前にした時、アイの足は縫い付けられたようにその場に硬直した。
「カエデが能力を隠してなかったら、どうなってたかわからない」
川崎にもようやくアイが何を言わんとしているかが理解できた。しかし、それはまるで飲み込める内容ではなく、何度も首を捻ってしまうような些事だった。
「そんなことで落ち込んでるのか?」
「そんなことって」
「俺がそういうんだから、そんなことだろ」
実際、蒼は怪我をすることもなく、今は湯を堪能している。
「アイと出会えてなかったら、俺はあっという間にゴリラの餌だったからな。感謝以外出てこないよ」
バナナのように頭から齧られる様子を想像すると身震いがする。蒼1人で今日I日を生き抜くことなど不可能だっただろう。
「火がつけられなかったら焼き芋だって作れなかった。全部、アイがいてくれたおかげだよ」
聞こえているのかわからなかったが、それでも蒼は思ったことを彼女の背中に向かって投げかける。
「ありがとう、本当にアイがいてくれてよかった」
アイからの返答はない。ガラス越しに見える姿も動いてはいない。ただ少しだけ、肩を震わせているように見えたのは、浴場に立ち込める湯気のせいだろうか。
「焼き芋、美味しかった・・」
ようやく帰ってきたのは、そんな他愛のない感想。
「そうか」
「目玉焼きも、マヨネーズっていうのも、全部・・食べるってこんなに幸せなんだって、初めてだった」
言葉は震えている。齢16の少女が、1人で街を出ることを決断するほど彼女は何かに追い詰められていた。アイの過去に何があったのかは今は聞かない。それは多分、とても辛いことのように思えた。辛いことなんて思い出すだけで胃がもたれる。
「まだまだいっぱい美味いものはある。これからも一緒に美味いもの食べられたらいいな」
「うん。また、いっぱい食べたいな」
顔は見えなかったが、アイが笑ってくれたらしいことはなんとなくわかった。自然と蒼の表情も緩み、大きく一つ伸びをする。蒼は、なんとなくこの世界で生きる意味をアイからもらったような気がした。
バシャーン!
突然、蒼の目の前が水飛沫に溺れる。
何かが湯船の中に落下し、大きな水飛沫を上げた。それは、一度体験したことのある状況によく似ていた。
「何があったの!」
血相を変えて脱衣所のガラス戸を開けるアイ。その目は真っ赤になっていて、少し腫れぼったい。
しかし、アイの表情は浴槽内に出現したそれを見て、一気に白くなった。
それは、白銀の髪の少女の姿。全身を弛緩させ、悠々と湯を堪能している。その姿は、もちろん衣服など一切纏わぬ、裸体であった。
「なんでここに」
「遅い。もう我慢の限界」
ここに来る前、一刻も早く風呂に入りたいと駄々を捏ねるカエデをアイに任せて蒼は浴場へとやってきた。そうでもしないと、一緒に入ってきそうな勢いだったからだ。
それは、予想通りだったということだろう。我慢の限界を迎えたカエデは、隠していた能力を惜しげもなく発揮し、服だけは外に置いてくるという器用なことをやってのけてまで浴場へと侵入した。
当のカエデは羞恥心などどこかに落としてきてしまったのか、まったく恥じらう様子はない。
「なにやってるの、バカ!」
いつも冷静なアイの大声は反響し、講堂で宴の準備をしていたシゲヤスたちにまで届いていた。