卵焼きI
「蒼、まだ練習してるのか?」
厨房の灯りに気が付き、誘われるように暖簾をくぐる。呆れたことにそこにいたのは、朝からずっとコンロの前に立っていた蒼の姿がそこにはあった。
「あれ?吉野さん、帰ったんじゃなかったんですか」
確かに、一度は家路についた吉野だったが、どうしても確認しておかなければいけない在庫があったことを思い出したのだ。電車通いの蒼を呼びつけるのも悪いと思い、こうして来てみたのだが、これならば電話をかけた方が早かったようだ。
蒼の手元を見ると、銅製の四角く平たい鍋が握られている。中ではふつふつとした卵液が、コンロの熱で白っぽく火が通っていく。何百回とみたその手順に、多少のもたつきを感じつつも、とりあえず傍で見守ることにした。
こんな時間になってまで練習とは関心するが、彼の性格からして別に苦ということもないのだろう。コンロの熱で手は真っ赤になり、跳ねた油で真っ白だったはずのコックコートは腹部がどろどろになっている。
それでも、蒼は手を止めることなく、一心不乱に卵焼きを焼いていく。
油を敷き、丁寧にペーパーで塗り広げてから卵液を流す。卵が固まってしまわないように、布団を畳むように箸で慎重にくるりくるりと巻いていく。最後の一巻きまで細心の注意を払い、巻き簾に巻くその瞬間まで少しも気を抜かない。すでに何10本と巻いたはずなのに、手を抜く様子は少しもなかった。
もはや、関心はなく呆れてものも言えない。
「何が不満なんだ。もう十分客にだせる味だろう」
「まだまだ、吉野さんの卵焼きには遠く及ばないよ」
「当たり前だ、バカ」
蒼の作ったそれは、最近和食に触れ始めたにしては良くできていると思う。しかし、それでも何10年も和食の世界にいた自分とは比べられない。
「前向きなのはいいことだが、オープンまでに体力使い切って開店休業なんて勘弁だからな」
「うん。あと3本やったら俺も帰るよ」
「いい加減にしろ!」
案内されたのは、建物内の最奥にあった小さな部屋。自分の店にあったようなガスコンロを期待していたわけではないが、熱源は薪を使う原始的な窯。作業台は少し手狭だが、1人で扱うには十分すぎるスペースがあるだろう。
「ここにあるものは何を使っても構わないわ」
「ありがとうございます。ええと、」
「リンドウよ」
案内してくれたのは、長たちの中で唯一、蒼たちを擁護しようとしてくれた女性。物静かそうな見た目で、俺たちに対する敵対心は薄いように見えるが、彼女はつまるところ見張りだ。加えて、講堂にはカエデとアイを置いていくことになり、万が一にも逃げ出そうとしないようにと警戒してのことだ。
「あなたたちの言っていることが本当なら、私としてもぜひ川﨑さんを兵団に迎え入れるつもりです。結果を楽しみにしています」
会話の内容だけ聞けば、多少なりとも期待してくれているようだが、その淡々とした口調がむしろ緊張感を強める。成功したら、という話をすることで失敗した時はどうなるかを暗に示している。
「任せてください。こっちにもちゃんと策はありますから」
「・・全然緊張してないみたいね」
「緊張は・・たしかにないですね」
これまでも、失敗のできない状況は何度もあったが、どんな時でも変わらぬ調子でバンダナを頭に巻いてきた。
視界の数パーセントを支配していた前髪をかき上げ、100パーセント視界が開ける。頭がほどよく締め付けられ、面倒なしがらみは全て切り離される。
「料理するときは、できたあとのこと考えるので精一杯なので」
「そう。楽しみにしてるわ」
アイに頼んで作ってもらった特製の鍋。俺のイメージをなんとか理解してもらい、アイは見事見たこともない日本の調理器具を再現して見せてくれた。
銅でできた四角のフライパンのような形。たった一品の和食のために作られた、機能性度外視の職人の道具。触り慣れた新品のそれにふれほんの一瞬だけ感動に胸が躍る。
異世界といえば、剣と魔法の幻想郷をイメージしていたが、結局、俺の武器はこの世界でもフライパンと調味料。店で客を相手にしていた時と何1つ変わらず、なにも考える必要なんてない。
焚き火を使ったコンロを使ったことがないわけではない。キャンプで学んだ着火が思わぬ形で役に立った。風の吹かない屋内では、ふいごがあれば楽なのだが、扇ぐことができればなんでも代用できる。そもそも、普段から炊事に必要だったためか、薪やおがくずなども備蓄がいくらか残っていたため、火付けにはそれほど苦労しなかった。
ぱちぱちと音をたて、乾いた薪が爆ぜていく。上の火口までオレンジ色の火が届き、火入はこれで十分に可能になった。薪の数を適当に調整する火加減が心配だったが、コンロの作りは予想以上に便利にできていて、杞憂だった。火さえ起こせれば、手元のつまみで出力の調整ができてしまい、ほとんど元いた世界のコンロと使い方が変わらない。
「俺もこれ欲しいな」
つまみを何度も捻り、着火と鎮火を繰り返す。下の薪を絶やさないようにしなければいけないという若干の不便はあるものの、これ一つとアイさえいればほとんどの料理は再現できるだろう。
食い入るようにコンロを眺める蒼にリンドウは訝しげな目を向けているが、本人はそれに気づくことはない。
「そろそろ、調理に取り掛かられてはどうですか」
痺れを切らしたリンドウが声をかける。料理をしていることすら忘れてしまうほど、コンロの衝撃は凄まじかった。
気を取り直し、ようやく材料に手をかける。俺の手持ちの材料は卵とさつまいものみ。さつまいもはあと一本しかないが、卵にはまだ余裕がある。少し試したいことがあるので、全部は使えないがこれから作る料理に使うには3個で十分だ。
「さあ、やるか」
器に卵を3つ、砂糖、塩を入れ、卵白を切るように箸で混ぜていく。卵黄と卵白がしっかり混ざらないと焦げついて上手く巻けないのでしっかりまぜる。熱した鍋に、油を満遍なく塗り、煙が出たら卵液を流す。一瞬で凝固し、液体だった卵がふわふわの膜のように変化する。箸を上手く使い、奥から手前に向かってぱたり、ぱたりと一巻きずつ神経を注いで巻いていく。
「よし」