プロローグ
異世界転生。学生の頃はそういう物語ばかり読んでいたせいもあって、こことは違う別の世界で魔法や剣を駆使し、なにものでもない自分でも英雄になれる物語を妄想したものだ。
俺が読んでいた物語の中の主人公は、転生する前は自分のような普通の学生。けれど、転生するときにもらった特別な能力で、その世界では唯一無二の存在へと成長していく。その世界にいるときだけは、目を覆いたくなるような現実は一つも残らず排除され、登場人物に都合のいいように世界が構築されているのだ。
俺は、確かにあの世界に行ってみたいと思っていた。
「ありがとうございました!」
本日最後のお客様が退店され、今日の1日の予約はすべて完了だ。帰り際のお客様の顔をみて、今日の料理も満足のいく出来だったと安堵する。
日曜日の午後11時過ぎ。店内はお客がいらした時間とは打って変わって、波が引いた安堵で皆肩から力が抜けているのが一眼でわかる。
会社勤めのサラリーマンたちは夕方のラッシュで一杯飲んで帰ってしまったのだが、今日に限って団体の予約が入って、いつもなら穏やかな日曜夜が予想外に慌ただしかったのだ。
食事処かわさき、まもなく閉店。
「みんな、お疲れ様。いつも遅くまでごめんね」
先ほどまでお客が座っていた席をアルバイトの鈴村くんと諏訪さんがテキパキとなれた手つきで片付けていく。
「いいですよ。明日は二限目からですから」
諏訪さんは今年で大学2年生になった。うちの店ではまだ若い方だけれど、アルバイト歴5年目のベテランでお客からの人気もある活発な子だ。
「俺も、今日は5時に起きたのでまだまだ寝るには早いです」
諏訪さんの隣でメニューを消毒していた鈴村くんはたしか今年で25歳になるはずだ。諏訪さんよりも後にはいってくれた子で、夢を追いかけて今はアルバイトを掛け持ちして頑張ってくれている。
「日曜にはいってくれて本当に助かったよ。吉野さんもお疲れ様でした」
「昨日に比べれば全然マシだったよ」
そんな軽口を叩く吉野さんもさすがに連日のラッシュが応えたらしく、いつもより包丁にこめる力が弱い気がする。吉野さんは自分よりも比べ物にならないほど経験が厚く、まだまだ若い俺は彼に本当に助けられている。彼は60を過ぎ一度は現役を退いたが、縁あって開業以前からアドバイスをもらい、今でも店の柱として活躍してもらっている。
孫を甘やかしてやりたいからな。と、こういうところでお金を理由にできるところが大人だと思うし、こうありたいという尊敬の念も抱くものだ。
1日の締めに転倒にかかった暖簾と、OPENの札をひっくり返してCLOSEDに切り替える。昼間は活気のあった通りも、この時間になるとチェーン店かコンビニくらいしか灯りが灯っていない。灯の消えた街並みは寂しげではあるが、星空の冷たさと暖簾越しの店内の暖かさが好きでこの作業だけは絶対に人には譲らないようにしている。
今日はいつもより風が冷たいな。
「サキさん!寒いから早く閉めてください」
「お待ちどうさま」
宅に着いて休憩していた2人の前に、丼とお茶を置く。彼らが本当の1日の最後のお客で、彼らほど味にうるさいお客もいない。うちのメニューはかなり豊富な方だと思うが、さすがに何年もこればかり食べてきている彼らからすればどれもほとんど変わらないだろう。
「親子丼っすか。なんとなく今日はうどんの気分なんですが」
「おいおい。そういうことは先に言ってくれよ。毎日メニュー選ぶの意外と大変なんだぞ」
机に頬を張り付かせた鈴村が理不尽なタイミングでオーダーをしてくる。ただ、これはもう見慣れた光景で、昔は気を使って宥めてくれていた諏訪さんも今は笑って静観している。
鈴村のわがままを聞き入れることはなく、そもそも半分冗談で言っている彼もそれ以上は何も言わず丼に手をつけた。
「いただきます」
丼の蓋を開けると灯油切れで暖房の熱が切れかけている店内に湯気が霧散していく。今日は寒いからうどんの気分だと言った彼の発言も嘘ではないだろうが、この親子丼も体を温めるには十分だ。
一口大に切った地鶏は小さくてもしっかりとした身でボリュームがある。卵も少し硬めに火入れをしているから卵と鶏肉がバランスよく口に運ばれていく。鶏肉だけ、卵だけになってしまっては少し味気ない。
「今回の鶏肉はぷりぷりしてて美味いですね。なんかいつもと違うんですか?」
「九州の地鶏だよ。実家から送られてきたから、せっかくだし使ってみたんだけど、どう?」
「私、これ好きです。前のふわふわ卵もよかったけど、この食感がたまらない」
いつも使っている鶏肉も国産のもので決して悪い食材じゃないけれど、親子丼なら地鶏という人も少なくない。特別手を加えなくても食材の活かし方次第で味は無限に変化させることができるのだ。
「おそまつさま。それじゃ、俺はちょっと買い出しに出てくるから、食べ終わったら先にあがっててよ」
後ろで結んでいた前掛けの紐を解き、デニム製の前掛けを丁寧に畳んでカウンターの上に置く。これを脱ぐとようやく1日が終わったという実感が湧く。
「いまからですか?」
「明日の朝使う卵が足りなくて。朝でもよかったんだけど、寝坊でもしたら大変だから。それじゃ、お疲れ様」
おつかれさまです、という思ったよりも元気な返事を閉める玄関越しに見ながら店をでた。
買い物は難なく終わり俺は帰路に着いた。日曜の夜だったことを忘れていて在庫が残りわずかだったが、幸いなことに必要数は確保できた。
やはり今日は風が冷たい。アウトドア用品店で買ったアウター越しでも冷えた風が皮膚に届いている。早く帰ってついでに買ったハイボールでも飲むとしよう。
買い物袋の中には、卵が6パックとさつまいも、売れ残りで半額になっていたアジが詰め込まれている。ぎりぎりまで詰め込んでみたが、ハイボールの缶は入り切らなかったのでアウターの両ポケットに一本ずつ突き刺さっている。
俺、川﨑蒼は5年前に一念発起して飲食店を開業した。当時21歳だった俺は、ただ会社勤めで疲れ切り、借金してまで店を開いたのだ。会社から帰り、玄関で一夜を過ごした時に限界を悟ったのだ。
だから、調理経験はたった3年という昔の職人では考えられない修行期間での開業となった。
我ながら、追い詰められていたとはいえ思い切った行動を取ったと思う。おそらく、俺の人生の中で比較するものはないほど大きな決断だ。もちろん、会社勤めよりも楽かと言われれば決して楽ではないが、残業や有給といった誰かに自分の時間を使われているという感覚がない分自由に生きられている気がするのだ。
俺は今の生活が気に入っている。もともと料理くらいしか取り柄がなかった俺にとって、定食屋経営はこれ以上なにも望まないほど完璧な城だ。幸いなことに従業員にも恵まれ、今までトラブルなくこれたのはあの三人のおかげだろう。
5年経っても不意に、1人になる瞬間に訪れるこの充足感に胸を踊らせる。包丁を握る手が震えていた会社員時代には絶対になかった感覚だ。
「あの頃とは、もう違う」
俺は、変わったんだと確信している。
『ギイイイイィィィィ』
突然、鼓膜に直に届くような不快な電子音が鳴り響く。
驚いて手に持っていた袋から手を離しそうになるが、中に入っているものが卵だったことを思い出し、庇うように身を投げ出した。コンクリートの壁に背中を強か打ちつけたが、なんとか卵は無事だったようだ。しかし、その間も奇怪なアラートは鳴り続けている。
なんだ。頭に浮かんだ疑問を口出しても、ここには自分以外誰もおらず、いい知れぬ恐怖は一層深さを増していく。背中の痛みと孤独の恐怖で、意識すら薄れていくように感じる。スマホの画面を見てみると、そこには『禁忌』とまるで何かを警告しているようだ。
直後、凄まじい震動と轟音に襲われ、途絶えかけていた意識は一気に刈り取られた。
地面から伝わる冷たさで目が覚めた。意識がはっきりとせず、自分が一体どこで眠っているのかさえ定かではない。会社員時代に一度だけ、土間で眠ってしまったことがあったが、それに近い感覚がある。
眩しさで目が開けられない。どうやらすでに日が登っているらしく、瞼越しにも眼球に陽光が刺さる。朝になっているということを知覚した瞬間、一気に微睡が爆竹のように爆ぜる。
「卵焼き!」
間抜けな悲鳴で跳ね起き、手に握りしめられたままのスマホに目をやった。時間は7時を少し過ぎた頃で、思っていたよりも遅い時間ではなくほっとした。
まだ光に目が慣れず、かろうじてここが自分の部屋ではないことだけは理解できた。週末の疲れのせいもあるかもしれないが、我ながら道端で眠ってしまうとは予想もしなかった。恐る恐る、ポケットに手を入れ財布の所在を確認する。
「・・あった」
人通りの少ない裏道だったのが幸いし、持ち物はすべて手元にあった。
「そこで何をしているの」
やばい。通勤時間になる前に立ち去るべきだった。女性の声が頭上から投げかけられ、回らない頭も羞恥でさらに鈍化する。傍らには、ハイボールの缶が落ちているから間違いなく酔っ払いだと思われていることだろう。
「ごめんなさい。俺、もう大丈夫なのでお気になさらず」
「そういうわけにもいかない」
喋り方は淡々としているが、心配してくれているようだ。だが、この状況では自分の惨めさが増して顔を見せることすら憚られる。親切で声をかけてくれているところ申し訳ないが、ここはやり過ごすしかないだろう。
「ほんとに大丈夫ですから」
顔を上げると、そこには高校生くらいの女の子の顔がそこにあった。大きな目がこちらを覗き込み、俺という珍獣を観察している。
俳優のような大きくはっきりした目鼻立。太陽の光が反射してアメジスト色に光る艶やかな長髪は逸らしたくても、目が釘付けになってしまう。ただし、その格好はあまりに個性的で、まるで昔読んだラノベに出てくるエルフのような浮世離れした様相だ。
「あ、あんた」
やばい。ジロジロ見過ぎたと思い出したように目を逸らすが、どうやら間に合わなかったらしい。彼女は俺の襟首を掴み上げ、視界が360度回転して元の場所に戻ってくる。
「どうしてここに人間がいる」
俺の目の前にいるのは確かに10代半ばくらいの幼さの残る少女の顔がある。しかし、視界に映る彼女の姿は俺がよく知る人の形とは少し違っていた。
そして俺の知っている人間のなかに、アメジスト色の瞳を持ったものがいないことを思い出した