婚約するのは正真正銘これが初めてです
「数々の悪質な行為で私の愛しい人を苦しめたロザンナ、お前とは今この時を以て、婚約を解消する!」
声高らかに衆目の面前で十年ほど寄り添って来た婚約者を糾弾した王太子殿下に、キュカの視線の先に居る令嬢は冷静さを保っているものの、その顔は青白く、気を抜けば今にも倒れてしまいそう。
彼女は公爵令嬢で、王太子殿下の婚約者で、令嬢達にとっては手本にもなりそうな、非の打ちどころない貴族の娘。
艶やかな赤い巻き毛も、長い睫毛に縁取られた翠の瞳も、白くなめらかな肌も、凛とした佇まいも、言葉遣いから所作の一つひとつまで完璧、何もかもが綺麗で高貴な高嶺の花。ロザンナ嬢ほど立派な淑女はこの国に居ないだろうと、社交界でも評判の美しい人は、毅然と顔を上げて婚約者――だった王太子を見据えている。
キュカは騒ぎの中心人物達をもう一度見た。
いわれなき濡れ衣で糾弾されたロザンナ、真実の愛に目覚めたと宣う王太子のアレクサンダー、彼の腕の中でか弱く震える男爵令嬢リリアン、王太子のように彼女に魅了されたと噂される、宰相の息子、外交長官の息子、魔術師長の息子、騎士団長の息子。
(マティアス…)
その中の一人、騎士団長の次男マティアスは、伯爵令嬢キュカの幼馴染である。
元々親同士の仲が良く、その縁で幼い頃からマティアスとは姉弟のように共に過ごした。年齢も同じだし家格も伯爵家同士釣り合っているからと、正式な婚約はまだ結んでいないが、親の口約束で何となく婚約関係にあるようなないような、というあやふやな関係性。
王太子を筆頭に、宰相の息子も、外交長官の息子も、魔術師長の息子も、証拠らしい証拠もなしに、リリアンの証言のみでロザンナを悪と決め付ける。
けれど、その中の一人、マティアスだけは無言で居る。キュカには――キュカだけは、その理由が判っていた。
何も言わずに佇むマティアスを不思議に思ったのか、訝しげにアレクサンダーが「お前も何か言う事はないのか」とマティアスを振り向く。
「……では、一つだけ。アレク殿下に確認したい事があります」
「? 何だ」
「先ほど、ロザンナ嬢と婚約を解消すると仰っていましたが、そのお言葉に二言は」
「ある訳ないだろう! 私にはリリアンが居るんだ。大体、私はロザンナを好きだと思った事など、一度もないのだからな。いつも端然として、表情も崩さず、鉄のような心で、気の休まる時がない。息が詰まりそうで、ずっと窮屈だったんだ!」
(なんて酷い事を仰るの。たとえ恋心が芽生えなかったとしても、今まで長年寄り添うように関係を築いて来た婚約者を公衆の面前で辱めるなんて……)
リリアンに夢中になってからの王太子は見るに堪えない。尊敬すべき面も多々あっただけに、今のアレクサンダーにはただただガッカリする。
「では…。一言、ロザンナ嬢に告げたき事が御座います」
「あぁ。存分に言ってやれ。リリアンは随分と悲しい思いをしたのだからな」
「そ、そんな……、アレク様、私がアレク様と親しくなってしまったのが悪いのです。ロザンナ様が私を目障りに思うのは、当然の事で…」
「君の謙虚なところは好ましいと思うが、悪行には罰が必要なんだよ」
アレクサンダーとリリアンのやり取りを無視し、ス、と体躯に似合わず軽い身のこなしでマティアスは前に出る。
(…あぁ、とうとう言うのね。マティ、頑張って)
キュカは弟のような幼馴染の凛々しい横顔をハラハラ見つめ、胸の前で両手を組み、祈る心地で成功を願う。
短い銀髪に碧の瞳も美しい幼馴染は、ロザンナの前に恭しく跪いた。
「ロザンナ嬢」
「……ッ、……? はい…」
彼からも糾弾されるかと身構えていただろうロザンナは、何故か跪かれてしまい、困惑している。
「貴女が殿下の婚約者であった時から、俺はずっと貴女の事を恋い慕ってきました。……たった今婚約を解消なされた貴女は、現在特定の男性が居ない状態です。…その、俺より貴女に相応しい令息はきっとたくさん居ると承知していますが……どうか、俺の手を。取って頂けないでしょうか?」
「――――――――!?」
「えっ…?」
ロザンナは元より、キュカ以外の誰もが跪いて、はにかみながら唐突な求愛をしたマティアスに瞠目し、シンと静まり返った卒業式後の正門前は、数秒の静けさの後、怒涛の騒ぎとなった。
(…あぁ。良かった。マティ、ちゃんと言えたわね。偉いわ)
正式な婚約を結んでいないだけで、ほぼ婚約者同然だと思われていたキュカ本人だけが、マティアスの告白をハラハラ見守っていた為、取り敢えず無事に言えて良かった、とギャラリーの中で一人ホッと胸を撫で下ろす。
「ど、どういう事だマティアス! 貴様、ロザンナはリリアンを苛めていた女だぞ!?」
「そうだ! ロザンナ嬢は僕達の女神に酷い嫌がらせばかりしてきたんだぞ!? そんな彼女に求愛!? 一体どうしたんだマティアス!」
「リリへのロザンナ様の数々の悪質な行為は、君も私達と共に行動していた以上、知っているはずだ! なのに何故、そんな血迷った事を!? 君、どうかしてしまったんじゃないか?」
「嫌がらせと言っても、リリアン嬢が一人でそう喚いているだけでしょう。彼女以外の第三者による客観的な証言もなく、物的証拠は彼女自身が用立て出来るものばかり。確たる証拠もなく、このような人前でか弱い女性を男数人が冤罪を被せ糾弾する方が、よほどどうかしていると思いますが」
「なっ…! 貴様、リリアンが私に嘘を吐いていると!?」
「幼馴染のキュカが、彼女が自分で自分に嫌がらせしているように見える裏工作しているのを、何度か目撃しているので」
「なっ…!?」
「俺もキュカと一緒に、彼女がロザンナ嬢のペンを盗んで自分の持ち物に汚い言葉の落書きしたり、ノートを破いてその紙片をロザンナ嬢のポケットに忍ばせようとしたり、まぁ色々とこの目で見せてもらいました。――物的証拠と仰るなら、一応、映像記録の魔道具で一部始終撮影したので、そちらは既に父を通して、各々の部署を介し、陛下に提出してあります」
「「「「……!!」」」」
リリアンと取り巻きの青年達は、先ほどまでの勝利を確信した顔から一転、窮地に追いやられた顔になった。
マティアスの言に、場はまたもや騒然となる。
「そ、そんな、嘘よ! 嘘です! 私、そのような事は…信じてアレク様!」
「何故キュカが度々そういった場面を目撃しておきながらリリアン嬢には気取られなかったと申しますと、……キュカはその、ちょっと、存在感が…埋没、いえ、薄いので……」
(存在感が薄いのは私の取り柄みたいなものだから、そんな申し訳なさそうな顔で言わなくても良いのよ)
キュカはマティアスのフォロー下手っぷりに苦笑した。
青黒髪をポニーテールにした蒼い瞳の伯爵令嬢は、よく見れば可憐だし性格も決して暗くなく社交的ではあるのだが、少しばかり地味な為、時々存在感が薄い。
一方、ちゃちな小細工を暴露されたリリアンは動揺も露わに「嘘です、マティ様もキュカ様も私を陥れようとしてるんだわ!」と喚き、アレクサンダー達はリリアンを信じるべきか、映像という証拠を国王に提出したマティアスとキュカを信じれば良いのか、その場合自分達の立場はどうなるのかという点で、既に大きな過ちを犯してしまった事を今更自覚し、蒼白になっている。
「――王太子殿下。並びに、リリアン嬢とその取り巻きの子息達。国王陛下より、今すぐ登城するように、とのお言葉です。貴方方の周辺で何があったのか、既に陛下も王妃様も把握なさっておいでです。言い逃れなど出来ないものとお心得下さい」
「! そ、そんな…」
王太子を含む卒業式とはいえ、アレクサンダーの親である国王と王妃は内政に外交にと日々多忙である。式には参列出来ないが、乳母であった侯爵夫人と、教育係を務めていた王弟の公爵が代わりに参列していた。
アレクサンダーにとっては、両親の次に頭が上がらない二人とも言える。連行も辞さないというように、王弟と夫人の背後には、いずれマティアスも着用するだろう軍装に身を包んだ騎士達が十名ほど控えていた。
「暫く見ない内に大きくご立派になられたと思いきや、人前でか弱いご令嬢――それも幼少のみぎりから支えてくれた婚約者様を謂れなき冤罪で糾弾するなどと……私は悲しいですよ。馬車はこちらです、殿下」
「リリアン嬢と言ったか。ふむ、可憐な娘だが、裏を返せばそれだけにしか見えないな。夢中になるほどの何かを備えているようには見えないが」
蒼褪める彼らの腕をグイグイ引き摺っていく頼もしい保護者と騎士達を見送ると、もうその場は、まだ跪いたままのマティアスとロザンナを囲うギャラリーだけが残る。
「マティアス様もてっきり、リリアンさんがお好きなのかと思ってたわ…」
「ずっと殿下達と行動してたものな。まさかロザンナ様を恋い慕っていたとは…」
「でも、マティには幼馴染が居ただろう。先ほども名が挙がった、キュカとかいう…」
「キュカさんねぇ。悪い噂は聞かないわ。それどころか親切で良い人よ。明るくて優しいし。それなのに、時々存在を見失うのよね。どうしてかしら…」
周囲からはマティアスもリリアンの魅力に落ちた青年だと思われているが、実は違う。
マティアスはリリアンに落ちていない。リリアンと、彼女の虜になった彼らを見張る為に、行動を共にしていただけ。
自身への嫌がらせをロザンナの指示だと取り巻き達に涙目で訴えていたらしいリリアンだが、キュカはそれが狂言だと知っている。偶然だが、何度か目撃してしまったのだ。彼女がロザンナに罪を着せる為、裏工作している場面を。
一度くらいなら気のせいとか目の錯覚だと思うだろうが、四回も見てしまえば、流石にリリアンがロザンナをハメようとしている事に気付く。
キュカはすぐさまマティアスに相談した。マティアスの近辺にもちょろちょろとリリアンがうろつくようになっていたので、用心するに越した事はないと考えたのもある。
マティアスは騎士団長の次男なだけあって知名度は高い。本人も、武張った肉体と爽やかな笑顔にサッパリと気持ちの良い性格。男らしく頼れる逞しい雰囲気に、弟属性の可愛げも持ち合わせ、男女問わず友人が多い。
そんな彼が、ずっと高嶺の花であるロザンナを密かに想っている事を、キュカも知っていた。
だって、判り易いのだから気付くなと言う方が無理な話で。本人は上手く隠しているつもりのようだったし、周囲の人間も意外と気付いていなかったようだが、キュカはマティアスの幼馴染で、姉のような存在でもある。
「歳も同じですし、将来、マティアスとキュカを結婚させても良さそうですな~」といったノリで、幼馴染なのだが婚約者のような気もする、と言う微妙な関係性であったけれど、二人は親や周囲からどう思われているか把握した上で、ずっと仲の良い姉弟のような幼馴染で居続けた。
「え…あ…、私の事を…?」
鈴のような声は戸惑いに満ちている。当然だと思う。
婚約者だったアレクサンダーから記憶にない嫌がらせをしたとして断罪され、一方的に婚約破棄され、かと思えば王太子に横恋慕したリリアンの取り巻きだと思っていた騎士団長の息子から求愛されて。
常に泰然とした淑女であれと己に課しているようなロザンナであっても、怒涛の展開である事は間違いない。
「はい。…アレク殿下の婚約者でしたから。この想いはずっと胸に秘めていようと思っていました。…ですが、目の前で貴女が婚約破棄されて、チャンスだと思ってしまった。……貴女は今、とても傷付いておられるのに。どうしても今、言わなければ、と…」
「…で、ですが、マティアスさんには、キュカさんが、」
「キュカもずっと知ってますよ。それに、俺とキュカはあくまでも親同士が軽い気持ちで交わした口約束と言いますか…、そういう訳で、実のところ、この歳になっても未だに正式な婚約を結んでいないので、実情は幼馴染なだけなのです」
「!」
それを聞いたロザンナは、戸惑った顔で視線を泳がせる。ギャラリーの中に存在感の薄いキュカを意外と早く見付けた彼女と、必然的に目が合った。
キュカは「そうです、ただの幼馴染です」というように、笑顔で強く頷いてみせると、ロザンナはその新緑のような双眸を丸く見開き、次いで泣きそうに唇や眉を僅かに歪めた。
(どうか。応えてあげて下さい。ロザンナ様、マティは殿下と違って浮気なんてしないわ。良い子ですもの)
「…っわ、私、私で、宜しければ……是非」
「……!」
ずっと跪いていたマティアスは、頭上からの恥じらいを含んでか細い、けれど芯の通った声での返答を聞くや否や、バッと顔を上げ、ロザンナを見上げた。
「今のは…本当、ですか……」
「は、はい。…殿下に捨てられた女など、腫れ物のような存在です。きっと誰も貰ってくれないだろうと覚悟を決めたばかりでしたのに……」
「そんな事はありません。きっと貴女は引く手数多だ。だからいの一番に、貴女に求婚出来るチャンスが欲しかった。……たとえ貴女に選ばれなくても、貴女の心に少しは俺という存在を残せると…」
「そんな…」
裏表のない真っ直ぐな好意を向けられた事がないのか、ロザンナは普段の優雅さも霞むほど愛らしく照れているものの、その表情には羞恥だけではなく憂いも滲んでいる。――アレクサンダーに一方的に婚約破棄を告げられた事にではなく、キュカへの申し訳なさで。
口約束だとしても、一度は両家で婚約の話題が上がり、周囲からも幼馴染なだけではなく婚約者でもあると思われていたキュカとマティアス。
返答を急かされていた訳ではないけれど、あまりにも真摯に恋情を告げられて、早く応えたくなってしまった。彼と婚約していると周囲から思われていたキュカもこの場に居るという事実を、一瞬だけ忘れてしまった。
――パチパチパチパチ!
「マティ、やったわね! おめでとう! ロザンナ様、どうかマティとお幸せに!」
そんなロザンナの葛藤と後ろめたさを瞬時に察したから、キュカは真っ先に拍手した。曇りなき笑顔で二人を祝福し、「自分とマティアスは何もないですよ、二人の恋を心から応援しますよ」と己の全てで表現する。ロザンナの僅かな憂いや躊躇を吹っ飛ばしたくて。
「っあ…、キュカ、さん……」
完璧な令嬢と評判のロザンナが、アレクサンダーに婚約破棄を告げられた時でさえ表情を崩さなかったロザンナが、キュカの思いを汲み取って、泣き笑いのような顔をする。
いつもの優雅で何事にも動じない麗顔とは比較にならないけれど、そんな素の表情のロザンナもとても美しい。
「キュカ! 有難う、キュカ! 君が背中を押してくれたから、俺はロザンナ嬢に告白出来た! 大好きだ、俺の幼馴染、俺の姉。――俺は今、世界で一番幸せだ!!」
恋が叶ったマティアスときたら子供みたいで、晴れ晴れとした笑顔と真っ直ぐな言葉が、何よりも嬉しかった。
……そんな卒業式から、一ヶ月後。キュカは今、王城に召集されている。
あれからマティアスは、伯爵家の次男でありながら、公爵令嬢のロザンナの両親とも話をし、正式に両家でちゃんとした婚約を結んだ。
ロザンナに落ち度は何もなかったが、王太子から婚約を破棄されたという事実はやはり大きい。そのアレクサンダーは王位継承権剝奪の上に、現在は謹慎処分となっているから、ロザンナの名誉は既に回復しているけれど。
王籍は今のところまだ外される予定はなさそうだが、卒業したというのに国務に何一つ携われず、日がな閉じ込められた塔の中で粛々と浅はかな己を反省し、高貴な罪人としての生活を送っているらしい。他の取り巻きの令息も同様に、同じ虜囚の為の塔に投獄された。
アレクサンダーの処遇については、「刑罰が軽い」という意見も勿論ある。卒業式の一件は、本来ならば廃太子どころか子をなせない身体にされた後に義絶、或いは生涯幽閉の憂き目に遭ってもおかしくないほどの所業と言動であった。
しかし、アレクサンダーは十八年間、国内で最高水準の教育を施した男子でもある。王太子としての能力に申し分はなかったし、廃嫡にするのは簡単だが、彼を育てる為に費やした時間と国税を考えれば、簡単にそれを実行するのは惜しいとも言える。
失態は覆せない以上、王位継承権を剥奪し、アレクサンダーは高貴な虜囚を閉じ込める塔に閉じ込められ、清貧を求められる生活に身を置いている。贅沢に慣れた身にはさぞかし堪えるだろうが、自業自得なので何の弁解もせず、粛々と塔に入ったそうだ。
己を省みて心から反省したなら、今後は立太子した弟王子の補佐をし、生涯臣下として彼に尽くす事で、国民と王家と婚約者を愚かな恋で裏切った汚名を一生掛けて返上せよ、という訳だ。それがアレクサンダーへの最後の温情、ラストチャンスという事だろう。
リリアンはあの後、王太子のみならず複数の婚約者持ちの貴族令息を篭絡して混乱をもたらしたとして、極寒と戒律の厳しさで有名な修道院に送られた。婚外子の彼女を引き取った男爵も厳罰処分を受け、財産と領地の半分以上を剥奪され、家督を長男に譲って早々に隠居するよう命じられた。
そしてキュカは何と、この度立太子された第二王子――アルフレートの婚約者候補に選ばれてしまった。
あくまでも候補だが、王族の伴侶になれるのはよほどの例外がない限り公爵家から王都に本邸を構えた伯爵家の娘までと定められているので、キュカは候補者の中でも下位の家格の娘という事になる。
(どうして私も選ばれたのかしら)
マティアスと半婚約者状態だったのは認める。幼馴染の延長線上で婚約しているようなしていないような、というあやふや加減だったが、世間から見ればキュカはマティアスの婚約者も同然だった為、「婚約者に捨てられた女」という図式は、内実はどうあれ、キュカも当て嵌まっている。
そんな女に求婚してくれる男は、確かにあまり居ない。実際はただの幼馴染でも、「婚約していた男に捨てられた女」の手を取るのは、よほどその家の旨みが欲しいか、貴族令嬢なら誰でも良いと切羽詰まった男のどちらかだろう。
そういう意味では、アルフレートの婚約者候補に選ばれた令嬢の顔触れを見るに、宰相の息子と外交長官の息子の婚約者達も含まれているので、振られた立場の令嬢に差し伸べられた救済措置とも言える。
魔術師長の息子にはまだ婚約者が居なかったので、自分含め三人の令嬢が招集された訳だ。
(うーん。まぁ、有難いと言えば有難いのかしら。王太子の婚約者候補に選ばれた、と言う箔が付くだけで、随分違うもの。たとえ王太子の婚約者になれなかったとしても、「婚約していた男に捨てられた女」という悪い印象を払拭するどころか、「王太子の婚約者候補に選ばれるほどの令嬢」という価値で上書きして下さるもの。お兄様の尻ぬぐいも大変ねぇ…)
アルフレートはアレクサンダーの同母弟なので、顔立ちはよく似ている。けれど受ける印象はやはり少し違う。
(…でも、アルフレート殿下も気の毒だわ。クローネ様が行方不明になられて三年……、立太子なさったからと、急いで新しい婚約者を選ばなくてはいけないなんて…)
アルフレートには一つ年下の婚約者が居た。……ではなく、「居る」。
彼女とアルフレートは仲睦まじく、微笑ましいカップルで。アレクサンダーとロザンナが華やかなダリアならば、アルフレートとクローネは愛らしいチューリップといったところか。
口元の小さな黒子が、可愛らしいあどけなさの残る顔立ちに一筋の色気を滲ませて、将来は妖艶な美女になりそうな公爵令嬢。けれど皆の記憶の中に居る彼女は、ロザンナとは違う方向性で繊細で可憐な顔立ちの、刺繍が大変に上手いと評判の美少女だった。
けれどおよそ三年前の夏、避暑の為に領地に向かったクローネは海で遭難し、そのまま行方知れずになっている。
遺体が見付かっておらず死亡も判明していないので、喪に服す事も出来ず、公爵家は勿論、アルフレートも捜索隊を度々編成して派遣し、自身も学業や公務の合間を縫って彼女が姿を消した避暑地の海へ出向いては捜していると聞く。
兄王子と違って婚約者とは心の底から良い関係も築いて仲が良かったから、今でも諦めきれないのだろう。遺体を確認するまでは決して喪に服すまいと、礼装でさえも黒い衣装を一切着用しなくなったアルフレートの心意気を、キュカは痛ましくも応援していたのだけど。
「ごきげんよう、キュカさん」
「貴女も呼ばれていたのね。卒業式以来かしら」
「ごきげんよう、サーシャ様、エルダ様」
宰相の息子の元婚約者サーシャと、外交長官の息子の元婚約者エルダ。どちらも侯爵令嬢で、どちらもそれぞれの魅力を持つ美人だ。
ハッキリとした目鼻立ちを際立たせる黄金の髪が、いつ見ても圧倒されるほどに眩いサーシャ。
新雪の如き純白の髪を結い上げ、切れ長のアイスブルーの瞳が涼やかな知的美女のエルダ。
「今回、私達は畏れ多くもアル殿下の婚約者候補に選ばれたようですね」
「それ自体は有難い処置なのですけど…正直、あまり気乗りしませんわ」
「アルフレート殿下とクローネ様の睦まじさを覚えていると、馬に蹴られる気分ですものね」
「えぇ、そうなの! そうなのよ!」
「私も、アル殿下とクローネさんのお二人の事は、幼くとも理想的な恋人達だとうっとり憧れていたくらいなのに…。まさかこんな事になるなんて」
「それはそうと、お二人は、あの……、私の事を、恨んでいますか?」
友好的に接してくれるけれど、二人の婚約者にそれぞれ処罰を下す切っ掛けを作ったのは、キュカのようなものだ。
「そんな訳ないわ! 寧ろキュカさんには感謝してるのよ?」
「えぇ。あの方は家柄も身分もお顔もとても魅力的な貴公子で、婚約を結んだ頃は私も夢中になっていたけれど…、あの方とあのまま結婚する事にならなくて良かった、と思ってるわ」
「そ、そうなのですか」
「確かに家同士が決めた婚約だったけど、だからこそ両家の利害が一致した婚約者を蔑ろにして、違う女性に目の前で堂々とアプローチするのは、両家の顔に泥を塗る行為よ」
「サーシャの言う通りだわ。…寧ろ私は、キュカさんがマティアスさんと婚約してない事に驚いて、正直、元婚約者の事は大してショックを受けていないのよ」
「殆どの方は、やっぱりそう信じてたみたいですね…。実際、私とマティも、半分くらいは何となく「結婚するのかな~」とお互いに対して思ってたので、当たらずとも遠からず、と言った感じですけど。……でも、マティはずっとロザンナ様を思い染めてましたので、やっぱりマティの恋を応援したかったのです」
「アレにはビックリしたわ。…でも、素敵だったわね。ロザンナ様も、あんな事があったけれど、すかさず求愛されたからこそ、評判やお心に瑕疵が付く事もなく、今は幸せそうに笑ってらっしゃるから、本当に良かった…」
「えぇ。直前にアレク殿下達のやらかしがあった分、マティアスさんの行動は余計にロマンティックで一途な求愛に見えて、私感動したもの」
「マティは普段可愛いですけれど、やる時はやる子なので、ちゃんとカッコ良く決められるんですよ!」
ここぞとばかりにキュカは自慢の幼馴染の素敵さを誇ったが、そんなキュカの言葉に二人は顔を見合わせた。
「かわいい…」
「あの逞しく凛々しいマティアスさんをそのように言える時点で、キュカさんは本当にマティアスさんを弟としてしか見てないのね」
「え、だって…。マティはマティなので……」
招集された客室ですっかり寛いでいた三人だが、やがて王妃とアルフレートが部屋に姿を現すと、背筋をピンと伸ばして令嬢らしく粛々と椅子から立ち、優雅にカーテシーを執る。
「こうして集まって貰ったのは他でもない。理由は既に告知済みだが、先日、正式に立太子した僕の婚約者候補として、今日から三人には励んでもらいたい」
「畏まりました」
この中で侯爵令嬢はサーシャとエルダの二人だが、父親の立場を加味すればサーシャの実家が僅かに上回っている。代表してサーシャがそう答えれば、アルフレートは微苦笑した。
「母上。…お願いします」
「サーシャ嬢、エルダ嬢、キュカ嬢。急な呼び出しにも拘らず、よく来ましたね。――アルが言った通り、貴女方三人は、今日からアルの婚約者候補となって頂き、今後は私の指揮下の元、各自妃教育を受けてもらう手筈になっています。大変だとは思いますが、もし王太子妃に選ばれなかったとしても、厳しい妃教育は必ず、将来貴女達の役に立つでしょう」
「はい」
「今日は顔合わせと挨拶のみで終わりです。スケジュールの都合が付き次第、三人は各々自邸で学べる事は自邸で、王城で学ぶべき事は登城してもらうかたちになります。――何か質問は?」
「スケジュールの都合と仰いましたが、具体的に、期間は如何ほど設けられておりますか?」
「教材などはどういったものを用意すれば宜しいでしょうか」
すかさず質問が出てくる辺り、やはり私とは素地からして違う侯爵令嬢だわ、とキュカは感心しつつ、自分も遅まきながら挙手をした。
「婚約者候補という事ですが、婚約者を正式に決めるのは、いつ頃でしょうか。…その、選ばれなかった令嬢は、嫁き遅れる前に婚活を始めないといけないかと…」
アルフレートと同世代のキュカとマティアスはまだ卒業していないけれど、サーシャとエルダはアレクサンダーやロザンナと同じく、卒業生だった。本来なら卒業した時点で婚約者と結婚式の準備を進めているか、もしくはとっくに結婚して夫人になっていてもおかしくなかったのである。
それなのに、今からロザンナが何年も受けていた王妃になる為の教育を受けるのだ。ロザンナと同じ期間を設ける訳にはいかないから詰め込み式で過酷な授業になろう事は説明されずとも判っているので、三人共覚悟している。それでも、もし選ばれたならまだ良い。けれど選ばれなかった場合、その頃には嫁き遅れと称される年齢に達しているはず。
「それなら心配ない、キュカ嬢。君達の中で僕の未来の妻に選ばれなかった令嬢にも、父上や母上、そして僕自身、輝かしい若さや貴重な時間を王家に費やしてくれた貴女達の美しい盛りを決して無為にしない為に、責任を持って良縁や出会いの場を用意する算段だ。今度は君達が選ぶ番になるという訳だ」
「私達が…?」
「選ぶ側…?」
「良縁や出会いの場を用意すると言っても、強制ではない。気に入らなければ袖にしてくれて構わない。王家が用意した縁談だからと、自分の心を押し殺して受け入れる事だけはしないで欲しい。君達には、自分の隣に立つ男を自分で選んで欲しいという事だ」
「「「――――――――!?」」」
そんな事を言われるなんて。
貴族の令息も令嬢も結婚相手を自分で選べない。大抵親が選んだ相手と結婚するのが暗黙の了解になっており、マティアスとロザンナは例外だ。例外と言っても、後日ちゃんと両家で話を通し、正式な婚約を結んでいるので、貴族の求婚として手順をしっかり踏んでいるけれど。
「それと、スケジュールに関してだが、君達の都合もあるだろう。近日に予定が入っていれば、なるべく早めに済ませて欲しい。妃教育は来月初めからスタートする予定だが、異論は?」
「わ、私は、登城する日が前以って決まっているのでしたら、来月に入れたその日に被る予定を今月に変更する事は可能です」
「私も、来月は幾つか社交パーティーに誘われたくらいなので、もしその日に被った場合は、先方にお断りの手紙を書きますわ」
「私は、お二人と違ってまだ学院生なので、授業のある日は登城が難しいのですが…」
「キュカ嬢には勿論、学院の勉強に専念してもらいたい。故に、登城しての王妃教育は放課後の時間を使ってほしい。勿論、二人にも。何せ母上も多忙なのでね。マンツーマンで教えるのは効率が悪い」
「つまり、昼下がりから夕方までという事ですね。それでしたら、用事も昼までに済ませてしまえば良いですし、私としても時間を有意義に使えるので有難いですわ」
「私も、そういう事でしたら」
「お気遣い、感謝致します」
「否、こちらが無理を言っている。なるべく君達の生活リズムを乱したくはない。――それと、教材に関してだが、こちらで用意出来るものは全て用意するので、登城の際に持って来るものは使い慣れた筆記具くらいで構わない。自邸で行う学習については、後ほど母上や女官長から説明があるだろう」
アルフレートは凪いだ瞳でそう告げる。クローネの事を諦めてはいないだろう彼の、穏やかな表情と口調にはこちらへの労わりと気遣いが感じられたが、彼の心境はどうなのだろう。
兄と同じく、王妃譲りの栗色の髪と、国王と同じ紫の瞳。国中の少女が憧れるような造形美と物腰の柔らかさ。
少年から青年へと緩やかに変貌を遂げている彼の隣に粛々と寄り添っていた、黒髪の令嬢を思い浮かべる。三年前の彼女は十三歳。あの頃は可愛らしくも稚さがあったけれど、もしどこかで生きていたなら、今頃とびきりの麗しい少女に成長しているに違いない。
「――王妃教育を受けるようになってそろそろ一ヶ月ですね…。如何でしょうか」
「とても厳しいし覚える事や学ぶ事が多岐に渡るので、難しくて大変ですわ…」
学院の勉強も並行しているので、単純に勉学量が増えたキュカが一番大変な事になっている。
サーシャもエルダもキュカの大変さを同情して、王城で一緒に学ぶ日は、勉強後にお茶に誘ってくれたり何かしら差し入れてくれたりする。年下と言うのもあって、構いたくなるらしい。
本日は王城に通う日ではないので、学院から直帰した。マティアス経由で、ロザンナが一度キュカと話をしたい、と伝言があり、都合を付けたのが本日。
落ち合う場所はどちらかの邸になると思ったが、何故かマティアスの家になった。妥当と言えば妥当かもしれない。
「マティから伺いました。キュカさんが彼の背中を押してくれたのだと…」
(まぁ。愛称で呼んでるわ。二人の仲は順調みたいね)
「えぇ。私、マティがずっとロザンナ様を恋い慕っていたのを間近で見てきたものだから。いじらしくて、「叶わぬ想いでもそれは素敵な気持ちなのだから大事にしましょう」と、励ましていたのです。…ですが、王族とご婚約されていらっしゃるほどの方ですもの、普通はそう簡単に婚約が白紙になるような事態など起きないでしょう? マティもずっと胸に秘めているつもりだったのですが、「雲行きが怪しいな」と思ったのは、リリアン嬢がアレク殿下と距離を縮めた頃です」
「えぇ。……私はアレク殿下に恋愛感情こそありませんでしたけど、性格に少々の瑕はあっても、王太子として努力も研鑽も凄まじい意欲でこなしていらして、厳しい英才教育に弱音も吐かず、そういう姿勢を尊敬していました。だから…リリアンさんとの事は、最初は気の迷いだと思ったのです」
いつ見ても素晴らしい赤毛に白銀のリボンを結んだロザンナもティーカップを持ち上げ、優雅に一口飲んだ。
「ですが…、今思えば、アレクでん、…いえ、アレクサンダー殿下も初めての恋に、色々振り回されたのでしょうね。私への暴言も後から心からの謝罪を受け取りました。ですが、あの時の感情任せの言葉は、多少なりとも私への本音であった事は窺えます。アレクサンダー殿下の言う通り、王太子の婚約者として常に完璧でいなくてはと気を張っていて、随分と可愛げのない女だったと思いますもの」
「! そんな事、」
「いいえ。これは後から自分の姿を思い返してそう反省した私の意見ではあるけれど、大丈夫です。キュカさんが否定なさらずとも、マティにはもう、否定されてしまったの。……「王太子に相応しくあるよう、いつも毅然と隙を見せないようにしている姿が綺麗過ぎて、手が届かない人だと言い聞かせていたけれど、安心した時や可愛いものを見た時に気が抜けたように微笑む顔が、凄く可愛くていつも見惚れてた」……ですって」
恥ずかしそうに、だけどとびきり嬉しそうに照れている顔が可愛くて、キュカもほっこりした。
「えぇ。私も、何度も聴かされました。マティはね、ロザンナ様のそういう素顔が可愛くて仕方ないんです。もっとあの子に甘えて、可愛がられて下さいね。マティも喜ぶと思います」
「わ、私の方が年上なのに……」
そう言いながら、益々火照った頬に両手を当てて照れるロザンナを、マティアスがどれだけ甘やかして可愛がっているのかが透けて見えるようだった。
こんなに隙だらけで安心しきったロザンナの可愛い姿を、きっとアレクサンダーは長年共に過ごしながら一度も見た事がないのだろう。
「アレクサンダー殿下のお心がリリアン嬢に向き、ロザンナ様から離れていくのを、私、黙って見ていました。そういう意味では、私、ロザンナ様に感謝されるどころか、詰られても仕方ないと思ってましたが…」
「いいえ。…マティが私を好きだなんて思ってもみませんでしたけど、キュカさんはきっと、私の気持ちも見抜いていたのでしょう? だからマティの背中を押せたのでしょう?」
「……はい」
キュカにとって可愛い弟のような幼馴染が、叶わないと思いながらずっと恋い慕っていたから、キュカもただ令嬢の手本としてと言うより、もっと深くロザンナに注目するようになった。
だから、すぐに気付いてしまった。ロザンナが時折、マティアスの横顔や後ろ姿を切なげに見つめている事。快活なマティアスを見てほんの少し柔らかく微笑む事。
「ロザンナ様もマティを想っているのだと気付いていました。…だから、あの子の背中を押せたのです」
「やっぱり…。キュカさんには敵いませんね。私、誰にも気付かれないようにしていたつもりだったのに…」
「ロザンナ様はマティよりずっと上手に隠しておられましたよ? 私もよく気付けたと、当時は自分の観察力を褒めましたもの」
「ふふっ。…キュカさんにも、本当にお礼を申し上げたいと思っていて…。お忙しいのに時間を割いて頂いて有難う。……本当は、私や私の実家が持つコネや伝手で、キュカさんには身分も地位も申し分ない、能力もある未婚男性との出会いの場を多く設けて少しでも恩返ししたかったのですが、アルフレート殿下に先を越されてしまいました」
「有難う御座います。お気持ちだけ頂いておきますね」
「マティからも、「そういう気遣いは無用だ」と釘を刺されてしまって。キュカさんを姉のように大事にしていると豪語しているなら、そこは寧ろ協力するべきでは? と思うのですけど」
ロザンナは首を傾げた。
「ですが、本当に感謝して頂くような事はしていません。それどころか、私が双方の気持ちを知っていたからと言って、マティの背中を押す為にロザンナ様の心身や評判に負担を掛ける手段を採ってしまったのは事実です。マティは悪くありません、私がそうしなさいとアドバイスを、」
「キュカさんは、隠し事や諜報は向いているのかもしれませんが、嘘はあまり得意ではないのね」
「えっ」
「キュカさんの人となりを直接知るのは今日が初めてですが、キュカさんの事をマティは本当に慕っているし、周りからの評判から見て、貴女がどんな人なのかは、多少推し量れますよ」
「……」
「マティはあのプロポーズの後、二人きりになった時、私に謝罪しました。…私を、酷い方法で手に入れてしまった。申し訳ない、と」
ロザンナはそう言いながら、女神のように笑った。
愛されていると自信を持っているが故の、誇らしげにも見える美しさで。
「……ロザンナ様は、許しているのですか。マティがロザンナ様を手に入れる為に、ロザンナ様を窮地に追いやるアレクサンダー殿下達をあえて強く止めなかった事を」
「キュカさん。私も、女ですのよ。…女だから、許さないより、許す方が、ずっとマティの幸福の底に一欠片の罪悪感を残せるの。添い遂げる相手と一生過ごすのに、幸せの比重は多い方が良いに決まっています」
「……!」
思った以上に、ロザンナがマティアスに恋する女である事に、キュカは驚けば良いのか喜んで良いのか判らない。
少なくとも、アレクサンダーに対して恋愛感情はないと言い切ったし、これほどまでに女としての一面を見せた事はなさそうだ。
「ロザンナ様が、マティの罪悪感を限りなく最小限に留めて管理する、という事であれば、私からはもう何も、言う事はありませんけれど…」
男が支配したがる生き物ならば、女は管理したがる生き物だ。
初めからマティアスが父の騎士団長を通して上に提出する前に、アレクサンダー達に証拠としてリリアンが自作自演していた映像を見せていれば、流石に彼らも目を覚ましたかもしれない。
けれど、マティアスはそれをしなかった。
リリアンが急接近してあっという間にアレクサンダー達の心を奪った頃、「婚約者を蔑ろにするのは良くない」と苦言を呈した事はあるようだが、彼女の男心をくすぐる手練手管に彼らはすっかり虜になっていて、聞く耳を持たなかった。
それどころか苦言を申すマティアスに、「そんな事を言って、私からリリアンを引き剥がして、自分が彼女の夫になるつもりなんだろう」と言いがかりを付ける始末。
そんなアレクサンダー達に呆れたマティアスは、彼のロザンナへの態度を長年近くで見ていたのもあり、正しくない事だと判っていながら、恋しい人を手に入れられるかもしれないという誘惑に抗えなかった。ズルくて卑怯な手段だと後で詰られるかもしれなくても、ロザンナを手に入れられるかもしれないと一度でも考えてしまえば、その可能性ばかりが頭を占める。要は魔が差した。
ロザンナに直接危害が及ばないよう、リリアンの取り巻きという体を取って傍観に徹した。ロザンナの心が傷付いているかもしれないと知りながら……。
「それから、あの…、これから先、何があるか判りませんが、私、キュカさんに何かあったら、真っ先に助力したいと思っています。それと…、これは個人的なお願いなのですが、今後もこうしてお話ししたり、お茶したり、そういう関係になりたいのです。……如何でしょうか?」
「え、宜しいのですか? 私で良ければ、是非」
「良かった…。王妃教育に関しても、何か困った事、判らない事がありましたら、私で良ければお教えしますね」
キュカにとって心強い申し出をした彼女は、マカロンを一つ手に取り、上品に口に運んだ。
王妃教育を受けるようになってから、早十ヶ月。
自分達の卒業式を間近に控え、キュカは風通しの良いガゼボでマティアスと今夏をどう過ごすか相談していた。
「今年で卒業だし、騎士として正式に叙任されるから、騎士団に就職するのは決定。その前に結婚式を挙げるけど」
「ロザンナさんのウェディングドレス、もう仕上がってるんでしょう?」
「うん。兄上に相談して良かったよ。ローザが凄く素敵なドレスだってはしゃいでて。俺はまだ見せてもらってないけど」
「新郎だもの。ドレスは当日までのお楽しみだと思って、ワクワクしてれば良いのよ」
「そうする。――あ、そうだ。キュカは俺の友人列と親族列、どっちに並びたい?」
「もう。友人に決まってるでしょ。姉だの弟だの言っても、実際は親族でも何でもないんだから」
「でもさ、キュカはやっぱり、俺の姉的存在というか…姉だと思ってるんだよ、ずっと」
「……」
「それで、キュカは? 俺とローザの結婚式に出席してくれた後は、やっぱりひたすら勉強?」
「そうなるわね」
キュカは妃教育を受けているものの、やはりサーシャやエルダに今一歩追い付けていない。ロザンナにも度々マンツーマンで特訓してもらったり講義してもらっているが、詰め込む分野も量も半端ではないので、無理を重ねると体調を崩してしまう。
王太子の婚約者候補なので他に求婚者が現れる訳もなく、卒業後は学院に通わなくなるだけで、ひたすら教養を深め勉強漬けの毎日になるだろう。
「兄上の元へは遊びに行かないのか?」
「お仕事の邪魔してはいけないでしょう?」
次男でありながらマティアスが跡を継ぐ事になってるのは、長男が騎士になりたくないと家を出て、半絶縁状態だからである。
「兄上、キュカに似合う夏用のドレス、今年も作ったって言ってたけど」
「そうねぇ。今や王都でも評判のメゾン、新作ドレスは常にファッションプレートに載るほどの有名なデザイナーにシーズンごとに新しいドレスを作ってもらうなんて、贅沢の極みだわ。注文待ちだけで半年以上って言われてるのに…」
「兄上はキュカが可愛いから」
「マティの事だって可愛い可愛いと猫可愛がりしてるじゃない。――このお邸に居た頃から、遊びに来る私を妹のように可愛がって下さって…。お邸を出られた今も、ずっと。……有難い事だわ」
静かに微笑むキュカの顔を、マティアスは真正面から静かに見据える。
「…王妃教育を受けるようになって、もうすぐ一年。正式な婚約者はいつ決まりそう?」
「ん? うーん…。私は多分、選ばれないと思うのよ。サーシャさんもエルダさんも、頭が良くて落ち着いてて、どちらもアルフレート殿下のお隣に立っても見劣りしない美貌だし、それぞれ内面も魅力的な令嬢よ。このまま何事もなければ、恐らくどちらかが選ばれると思うのだけど…」
「キュカが選ばれたら?」
「私? それはないと、」
「でも…、クローネ嬢の雰囲気は、キュカに少し似てる」
「……そうかしら? 自分ではよく判らないわ」
キュカは困惑した。ロザンナと同等の公爵家であるクローネとは家格の差もあるし、一つ年下だし、何より会話した事も、社交場で二、三回くらいしかない。それも当たり障りのない挨拶程度。
一年経ってもアルフレートは三人に分け隔てなく、平等に接してくれる。誰か一人を少しでも贔屓しないよう、細心の注意を払っているのが窺えて。
「…君が選ばれたら、俺はどうしたら良いかな」
「なぁに。あり得ない心配ばかりしちゃって。……もし万が一そうなったら、畏れ多くも光栄な事よ。謹んでお受けするに決まってるでしょう?」
そもそも、断れる訳がない。
だからこそ断言するキュカを、マティアスは少しだけ複雑な心境で見つめた。
卒業し、結婚式に参列し、避暑の為に領地へ移動して四日ばかり経った頃。
長閑な土地柄故に、領民もほのぼのとした者が大半で、キュカもツバ広の帽子に軽やかなワンピース一枚で供を付けずに歩いても平気なくらい、穏やかな領地。
高貴な女性は肌の白さを好まれるので、日焼けするのは眉を顰められる。帽子や日傘でちゃんと陽射しを避け、海沿いの道を散歩するのが避暑地で過ごす朝の日課になっているキュカは、今日は街まで歩く予定だ。
この街にもテーラーは居るし衣服店はあるが、貴族の衣装を仕立てるほどの規模ではなく、庶民の衣服を取り扱う一般的なメゾン。そこに、去年まで知らなかったが数年前から針の上手い隣村の娘が働きに来ているらしい。その娘がハッとするほど綺麗なお嬢さんという事で。
どんな娘さんだろう、と少し興味が湧いたキュカは、その針子が雇われている仕立て屋まで行ってみる事にした。街の男達がこぞって窓の外から一目見られないかと何度も意味なく店前を通りすがるほどの美少女。キュカの兄と弟も噂を聞いて気になっているらしいが、如何せん二人共、騎士団長の指導の下、マティアスと共に軍事訓練に参加している。毎年の事だから今年も同じで、こちらに来られるのは二週間後だ。
一足早く避暑を求めて領地に移ったキュカが件の店に赴く途中、海岸で麦わらを被った少女の後ろ姿を捉えた。
貝殻でも探しているのだろうか。簡素なサンダルで砂浜にしゃがみ込んだ少女は三つ編みの毛先に砂が付くのも構わず、砂の起伏を手で崩している。
その後ろ姿が微笑ましく、キュカは編み上げサンダルを砂浜へ向けた。
「お嬢さん、こんにちは」
「えっ? こんにちは…?」
「貝殻を拾ってらっしゃ――……、」
振り向いた彼女の顔を捉えたキュカは、そこで息を呑んだ。
夏の夜空のような美しい黒髪に、飴色のような琥珀の瞳。日焼けを知らなかったあの頃よりも少し焼けた肌は健康的で、小動物めいた愛らしさを醸し出している。
すんなりと伸びた手足や背丈、顔立ちも多少大人びているけれど、可憐な声も口元にポツンとある小さな黒子も、四年前の十三歳を想起させるには充分で。
「クローネ様…!?」
「くろー、ね?」
瞠目したキュカの様子に、彼女は困惑しながらもキョトンとしている。
着ているものは安っぽいが刺繍が細やかな木綿のワンピースで、かつて纏っていた高貴な雰囲気よりも、素朴な田舎娘の健やかさが先立っている。全てが馴染んでいて、演技には見えない。
「あの…、済みません。知人によく似ていたものですから」
「知人に…」
「お名前は何て仰るの? あ、私は領主の娘でキュカと申します」
「えっ、領主様の…!? こ、これは失礼致しました。私、こちらの街のメゾンに針子として雇われている、隣村のリルカと申します」
「リルカさん…」
よく似た別人かと思ったが、しかし唇の右下にある黒子の位置まで似ている人なんて、早々居ないと思われる。
「隣の村と言うと…漁村だったかしら」
「はい。…実は私、漂流して村に流れ着いたところを親切な老夫婦に助けられた身なのですが、それまでの記憶が全くなく…。心か身体に大きな衝撃を受けたのだろうと、村医に言われまして…。……あの、知人に似ていると仰いましたが、もしかして、その知人とは…」
「…四年ほど前に、海に出たところ急な嵐に襲われ、行方知れずになっております。…リルカさんのご容姿の何もかもが、その方にそっくりなのです。顔かたち、口元の黒子まで」
「あ……」
思わずだろう、リルカは砂だらけの指で口元を覆った。
「あの、…良ければ少し、お話が出来たら嬉しいのだけど」
「私は、私も…。あ、ですが私、そろそろ出勤しないといけない時間で」
街に一つしかないメゾンで働いている美少女の針子とは、十中八九彼女に違いない。
「そうね。…でしたら、仕事が終わるのは何時頃かしら。私の邸にいらして。もし、都合が悪いという事でしたら、休日にお会いしたいわ。…ただ、記憶がないという事でしたら、信じられない事を話すかもしれませんが」
「い、いえ…。私も、この四年あまり、ずっと不安で…。老夫婦の二人は、「こんな磯臭い村で一生を終えるのは嫌だ」と出て行った実の娘以外に子供が居なくて、ずっと二人で娘さんを案じながら生きていたそうで、浜辺で拾った私の事を、本物の娘の代わりのように可愛がって下さるのです。有難い事ですし、少しでも恩を返せたらと得意な針仕事で出稼ぎを始めましたが、自分の事が何も判らないというのは、やっぱり怖くて…」
「……それは、さぞかし辛かったでしょうね…」
自分が何者かも判らない中、四年の月日を過ごすのは、決して心身が本当の意味で安らぐ事はなかっただろう。
「安心なさって。私は記憶を失う前の貴女の事を直接はよく知りませんけれど、少なくとも後ろ指を指されるような事は一切何もしていない、出来ないお人柄であった事は疑いようもありません」
「ほ、本当ですか?」
「それどころか、素敵なお嬢さんだと皆から言われるような、素晴らしい人でしたよ」
「そ、そんな…」
リルカは狼狽えながら、砂だらけの指先を払った。
「そういえば、何をしていらしたの?」
「綺麗な貝殻が欲しくて…。私の住む村も漁村なので貝殻は拾えるのですが、こちらの浜に落ちている貝の方が種類が多いのです。何故かは判りませんが、潮の流れが関係しているのかと。貝殻の模様や内側の光沢の色合いを、刺繍の参考にしたかったのです。縫い物はともかく、刺繍は何故か得意でしたので、これならお金を稼ぐ事が出来るのではないかと…。私、申し訳ない事に、村ではあまりお役に立てなくて」
漁村なら、海や浜や磯で行う雑用はたくさんある。縄を結ったり網を補修したり海産物を食用やアクセサリーに加工したり。
しかし、生粋の公爵令嬢として育った彼女に、そういった手作業はあまり向いてなかったのだ、多分。
(クローネ様は、まだお若いのに刺繍がとてもお上手だと有名でいらっしゃったわ…。私も作品を拝見した事があるけれど、十三歳が刺したとは到底思えない出来栄えだったものね)
アルフレートのタイやハンカチに、度々王室御用達のメゾンやテーラーではない手で刺繍が施されていて、それがクローネの作だと知られた時、世辞抜きで素晴らしい出来栄えだと評判だった。
「今日は、少し難しいと思います。でも明日はメゾンの定休日なので…」
「判りました。では、明日の朝、こちらから馬車を向かわせます。どうかそれに乗っていらして」
「ば、馬車!?」
「大丈夫です。リルカさんは、馬車に乗り慣れた人ですもの。きっと身体が覚えていますわ」
そこでリルカと別れると、キュカは急いで邸に戻り、手紙を書いた。
アルフレートの婚約者候補のキュカは、検閲は最小限でアルフレートに直接手紙を送る事が出来る。
急いで書いた手紙を転移魔法でアルフレート宛てに飛ばした。一々人の手と距離を経由していたら明日には間に合わない。
(アルフレート殿下はご多忙だけど、夜には毎日、手紙や報告書を自ら確認すると仰っていたから、今日中に読んで下さるはず)
キュカは明日何を置いても飛んで来るだろう王太子の為に、今度は客室の掃除を侍女に頼む。
元々汚れてはいないが、「もしかしたら王太子が泊まる可能性がある」と告げれば使用人一同張り切って調度品を運び、カーペットの隅々まで埃を取り、窓ガラスを磨き、飾る花を買いに行く。
数時間後。とっぷり夜も更けて、そろそろ寝るかという時間。手紙を読んだらしいアルフレートは何と、空間移動の魔方陣を使って深夜にやって来た。
「キュカ嬢、あの手紙は本当なのか!? ――こんばんは、お邪魔する!!」
「そ、そうなのです…。こんばんは、いらっしゃいませアルフレート殿下。――私よりも、アルフレート殿下の方がクローネ様についてはお詳しいはずなので、臣下の身でありながら尊い御身をこうしてお呼び立てしてしまい、本当に申し訳ありません」
「否、寧ろよく早急かつ重要と一目で判る封蝋を使ってまで直接知らせてくれた事、感謝する」
「ですが、手紙にも書きました通り、クローネ様…リルカさんは記憶を失っていらっしゃるようで、拾って頂いた漁村の老夫婦にも恩義を感じていらっしゃるようです。どうかくれぐれも、質問責めにしたり無理やり思い出させようとしたり強引に連れ帰ろうとするなどといった行為は、避けて下さいますよう、お願い申し上げます」
「……ッ…、あぁ。判った。判ってる。…強引な事は、しない」
本当は強引な事をしてでも王都に連れ帰りたいのだろう。けれど彼女の今暮らしている環境や情緒や状況を踏まえて、必死でその欲求を堪えるアルフレート。
「本当に…クローネ様だと思うのです。顔かたちだけではなく、口元の黒子の位置や声まで同じで…。他人の空似というには、あまりにも似過ぎていらっしゃいますから」
「…有難う、キュカ嬢。君は――君達は、僕の婚約者候補でありながら、僕が彼女を諦めていない事を、ずっと何も言わずに見守ってくれていた事を、知っている。君達の中から選ぶべきなのに、いつまでも選べない僕を決して非難せず……不実な態度で、本当に…済まない。申し訳ない」
「いいえ。いいえ…! ただ、記憶を喪失してらして、今の暮らしに不満はなさそうで、このまま記憶が戻らない場合は、公爵令嬢として育った素地を一切失った状態のリルカさんを王太子妃に据えるのは、流石に難しいと思います」
「…うん。…彼女の記憶が戻らなくても構わないと言えるのは、あくまでも僕個人の意見だからな。父上も、母上も、クローネ…リルカ嬢自身も、反対するだろう」
それでも、諦めきれない。――アルフレートはポツリと告げた。
翌朝、迎えに寄越した馬車に乗ってやって来たリルカは、昨日と同じく素朴な三つ編みにした髪に、これまた手製なのかシンプルな水色のワンピース――ただし裾に施された刺繍だけは細かくて凄い――を着ていた。
「こちらに。…あの、驚かないでほしいのだけど。記憶を失う前のリルカさんの事を私よりもよく知っている方が、この先の部屋にいらっしゃるの。何か思い出せたら良いですわね」
「そ、そうなんですか…。緊張します…」
貴族の邸と言っても、本来の彼女にとってはこの程度の邸、見慣れているはず。ガチガチに緊張しているリルカの為にドアを開けると、大人しく座っていられなかったのだろう、立って熊のようにウロウロしていたアルフレートが身体ごとこちらに向き直る。
「っあ…」
「……!」
アメジストの瞳と琥珀の瞳が合わさった瞬間、リルカは全身雷に打たれたように痙攣し、次いでポロリと涙を一粒落とす。
「クロ、…リルカ嬢?」
「わた、し…、どうして…? どうして…、アル様の事を…今まで忘れていられたの…?」
目が合った瞬間、記憶が蘇ったらしい。
ポロポロと止まらない涙に嗚咽。記憶が一気に戻った事で脳が混乱しているのか、頭痛がするらしく、こめかみの辺りに手のひらを宛がって頭を抱えて蹲る。
キュカは慌てて頭痛薬を取りに走った。
用意しておいた冷たいハーブティーで薬を呑ませ、説明するまでもなく思い出したリルカ――クローネは、ひっくひっくとしゃくり上げながらアルフレートに大人しく抱き締められている。
かつて見た、可愛らしい恋人達の姿を、四年ぶりに目の当たりにしてキュカも感動に目を潤ませた。
記憶を取り戻したクローネは、実家に戻った。
アルフレートと公爵家は、クローネを助け、保護して下さった礼にと、老夫婦及び漁村にたくさんの金品を用意した。記憶を取り戻したクローネは、長閑に漁村で生きる平穏な暮らしよりも、知らない間に王太子になった初恋の君を隣で支える将来の国母としての道を採った。
幼い頃から相思相愛で、自分が行方不明で生死不明であった間も、ずっと忘れずに喪にも服さず捜し続けていたと言われて、心動かない乙女は居ない。
婚約者候補は全員王太子妃に選ばれなかった訳だが、キュカは元より、サーシャもエルダもクローネの生還を素直に喜び、サーシャは何年も前から片想いしていた四十路の寡侯爵に押しかけ嫁入りし、結婚よりも身を立てたい勉強大好きなエルダはクローネの家庭教師となって、もう暫く優雅な独り身を満喫する方針らしい。
そしてキュカは――
「いらっしゃい、キュカ。相変わらず子リスのように可愛いわ」
「お招き有難う御座います。レナちゃん。マティの婚礼以来ですね」
キュカは目の前の長身を見上げた。
弟と同じ銀髪でも、スッキリ爽やかな短髪のマティアスと違い、緩やかに纏めて背に流した長髪は優美さが勝る。
「さぁ、入って。お茶とお菓子を用意してあるの。キュカの好きな桃のタルトも作ったのよ!」
「本当? レナちゃん、お菓子作りも上手だから楽しみ!」
「桃が一切れ余ったから、味見しちゃった。瑞々しくて美味しかったわ~」
んふふ、と悪戯っぽく微笑む顔もどこか女性的な美しさがある。父親に似て凛々しい男前のマティアス。母親に似て嫋やかな美貌のレナート。
騎士団長の長男として、家を継ぐ嫡男として、厳しく育てられたレナートが、本当は可愛いもの、美しいものが大好きで、レースやフリルをこよなく愛し、騎士になるより製菓職人やデザイナーの道に進みたいと、ある日突然父親に打ち明け、大喧嘩の末、勘当されるように家を出て行った。
レナートがレースやフリルといった女性的なものを好むのだと見抜いてしまったのは、幼い頃のキュカで。
七つ年上の綺麗で優しいお兄さん。マティアスと一緒に纏めて可愛がってくれた彼が、キュカの摘んだ菫を笑顔で受け取ってサッシュベルトに挿した時、とても似合っていた。
その頃はまだ今ほど長くなかった銀髪にも菫が映えると思ったキュカは、残りの菫をその髪に挿し、自分のリボンを解いて菫と括った。
『レナお兄さん、綺麗ねぇ。可愛いねぇ』
その時、レナートが浮かべた表情をキュカは忘れない。
いつものお兄さんでもなく、騎士見習いでもなく。驚いた後に泣きそうな顔をして、それでもどこか嬉しそうに微笑んだ事。
――あぁ、好きなのね。
幼いなりに、キュカは唐突に理解した。
その数週間後、レナートの誕生日に、キュカは手持ちの中で一番繊細で美しい、まだ一度しか髪に着けた事がないピオニーピンクのレースのリボンをウサギのぬいぐるみの耳に結んで渡した。
レナートが卒業を目前にして己の嗜好を暴露し、その結果両親に受け入れてもらえず卒業後すぐに実家を出てしまったので、マティアスとキュカはレナートがとあるメゾンのオーナーに弟子入りして独り立ちして自分の店を構えるまで、どこで何をしているか全くわからずヤキモキしたけれど。
メゾンを構えたと知ったのは、彼から手紙があったから。オーナー兼デザイナーとして駆け出しのレナートの店が少しでも繁盛してほしいと、キュカは早速ドレスを注文して、シーズンごとに新しいドレスを注文するようになった。
「でも、本当に凄いですね。レナちゃんがメゾンを構えてまだ三年足らずなのに、ファッションプレートにドレスや帽子が載るどころか、ついこの間はとうとうクローネ様の嫁入りに持って行くドレスの幾つかをレナちゃんが手掛ける事になったんでしょう?」
「そうなの。クローネ様はいずれ王室に入る方だから、ビッグチャンスなのよね。畏れ多いけれど、身が引き締まる思いだわ」
レナートはずっと己の嗜好を隠して、騎士らしく、男らしくと意識していたけれど、キュカの菫の一件で好きなものを我慢するのはやめる事にしたのだと、後から知らされた。
マティアスから兄を奪ってしまったのは自分の迂闊な言動だったのかと思い悩んだが、マティアスからは「兄上がずっと我慢を強いられるよりは、全然良い」と言ってくれたので、今は良かったと思う事にしている。
昔は普通に男らしい口調だったのに、再会したレナートはすっかり女性的な物腰や口調に様変わりしていた。元々母親似の美人なので、違和感など何もないけれど。
彼を「レナちゃん」と呼ぶようになったのも再会してからだ。心が女性なら、こっちの方が喜んでくれると思って……。
「――でも、マティったら。ロザンナ様をお好きだったなんて…。アタシはてっきり、キュカと一緒になるものだと思っていたのに」
「マティの背中を押したのは私なので、そう怒らないで下さいな」
「アルフレート様もアルフレート様よ! 純愛を貫くのは結構な事だけど、キュカはこれで、二人の婚約者に振られた令嬢ってレッテルを貼られたのよ!? 許せないわ!!」
「でもね。マティとは実質、ただの幼馴染でしかなくて、正式に両家で婚約を結んではいなかったのも事実だし、アルフレート殿下にしても、婚約者候補ではあったけれど、婚約そのものはしてません。アルフレート殿下の御心には最初から、本来の婚約者であるクローネ様がずっといらしたんですもの。あるべきところに収まっただけです。どちらにせよ、マティともアルフレート殿下とも婚約未満だったから、そこまで深刻というほどでもないですし」
「キュカは良い子ね~。良い子過ぎない? …だからこそ、次の縁談こそ、上手く纏まってほしいと願ってたのに…」
「……。ゴメンなさい」
レナートの言葉に、キュカは思わず謝った。
キュカの次の縁談相手――アルフレートが「後数年もすれば王家御用達のメゾンになるだろう、新進気鋭のデザイナーで、家は出ているが貴族名鑑にまだ名が載っているから戸籍はそのままだろうし、彼は実に有望株だと思う」と勧めた縁談は、マティアスの兄、レナートだった。
嫌なら、気乗りしないなら、断っても良い。キュカ達はもはや、選ぶ側なのだから。
その上で、キュカはアルフレートの勧めに従い、今ここに来ている。その意味を、きっと目の前でタルトを切り分けている青年は知る由もないのだろう。
「やだ! 違うわよ、キュカに不満がある訳じゃないの! でも、アタシは、」
「レナちゃんにとって、私は七つも年下の、妹みたいな存在ですもの。レナちゃんは…とっても美人で、その辺の女性よりも女性らしくて、きっと素敵な恋人だって…」
「居ないわ!? 居ないわよそんなの!!」
「でも…、レナちゃんは、私より年上の、大人ですもの。好きな方くらいは…」
「……ッ、」
(あ。…いらっしゃるんだわ)
動揺したレナートの反応で察してしまえた。覚悟していた事だけど、胸が軋む。
上手くいった幼馴染の恋に比べ、自分の恋はいつまでも秘めたる一方通行のまま。
(それでも良いの)
それでも良いのだと、恋を自覚した幼い頃、そう思ったじゃないか。報われなくても、いつかマティアスと結婚して本当に彼の義妹になるのだとしても、心でひっそり想うだけなら自由だと……。
だから涙は出ない。少しだけ、目頭が熱くなって、鼻の奥がツンとしたけれど。気のせいだ、こんなもの。
「…ゴメンなさい。レナちゃんに好きな方が居るなら、私、今回の縁談はアルフレート殿下のご厚意でしたけれど、辞退を、」
「…だって。キュカはマティの…弟の婚約者だと思ってたのよ」
「……? レナちゃ、」
「こんな、男なのに、綺麗で可愛いものが好きで、レースやフリルに囲まれたいって毎日思ってて、騎士になりたくないとまだ幼かった弟に家の重圧を押し付けて…自分だけ好きな事を好き勝手にやってる無責任な男なんかに、キュカは勿体ないじゃない……」
眉根を寄せ、唇を噛み締めて苦し気に告げたレナートに、キュカは目を丸くする。
「キュカが大切じゃない訳、ないじゃないの。大好きじゃない訳、ないじゃないの。……初めてだったのよ。アタシが…俺が、何を好きなのか。好きなままで居て良いと、菫を差し出して笑ってくれた。一番お気に入りの綺麗なリボンと可愛いウサギを俺に贈ってくれるような、そんな子…貴女以外、世界中のどこ探したって、居る訳ない」
「レナちゃ、」
「ずっとお兄さんで…今はもしかしたらお姉さんで。男扱いされない事なんか、今更なのに。どうして家を出た俺に、爵位なんか持ってもいない俺に、アルフレート様直々にキュカとの結婚の打診が来るの。おかしいだろ。キュカならそれこそ、王太子妃にだって、」
「すき」
一生の胸の奥で飼い殺すはずだった想いが、気付けば口から出ていた。
「キュカ…?」
「レナちゃんが、レナお兄さんが、…レナート様が、好き」
目が潤む。耐えようとしているのに、涙腺が決壊する方が僅かに早かった。眦から溢れて頬を伝う。
「マティにずっとお姉さんぶってたのも、少しでも子供っぽく見られたくなかったの。少しでも、大人に見られたかったの。だって…私の大好きな人は、初恋の人は、今でも恋しい人は、七つも年上で、綺麗で可愛くてカッコ良くて、だけど私の事は妹みたいって、」
「キュカ…!」
「でも、レナート様は。心が女性なのだと、思って…。男性がお好きなのだと、思って…。だから、私、ずっと、」
「キュカ! 待ってキュカ! 泣かないで、否本当に待って!? 俺の事好きって言った!?」
「……幼馴染のお兄さんが、好きな人になった時の事、今でも覚えてる。……子供が摘んだ菫を笑顔で受け取って、サッシュベルトに挿してくれて…銀の髪にも菫が似合うと思ったの。私が持ってる中で、一番素敵なリボンで括ればもっと喜んでくれるかなって……その時の、顔が――――――――っ!?」
それ以上は言えなかった。包丁を手放した腕で強く抱き寄せられる。
かつて騎士として鍛えた身体は、デザイナーになっても健在なのか、細身に見えて意外と逞しい。厚い胸板に顔を押し付けられるくらい、意外と太い両腕が回された身体は身動ぎすら許さないほど、強く強く。
「…あぁもう! 俺の馬鹿! 年下の女の子に、ここまで言わせるなんて…!」
切り分けたタルトの匂いが仄かにする。甘い桃の香り。移り香まで愛らしく、どこもかしこも綺麗で可愛いのに、抱き締める身体は大人の男らしく、カッコいい人。
「…十歳の頃から、ずっと大好きなの…。報われなくて良いから、これが最後のチャンスだと思って、アルフレート様の勧めた縁談の中にレナート様のお名前もあって、それで、」
「もう良い。…もう良いから」
耳を擽る声音が変わった。不自然ではない程度に高くしたトーンから、本来の地声だろう、落ち着いた柔らかな低音。吐息ごと耳たぶに掛かって、ゾクリと背筋に甘い痺れが走る。
「俺だって、ずっと前からキュカが一番特別だよ。俺の、アタシの、世界一可愛くて優しい女の子。大好きな子」
「……!」
じわ…、とまた涙が溢れて来る。けれどこれは、嬉し涙で。
「爵位もない、継ぐ家もない。あるのはまだ売り上げがやっと伸びて来たメゾンと、騎士になりたくないと無責任に実家を出た俺しかないけれど」
「私には兄さまも、弟も居ます。…私、王妃教育を受けてる間、領地の運営や資産運用に関してもたくさん学びました。クローネ様のように刺繍が上手ではないからデザインも針子もお役に立てないかもしれないけど、メゾンの経営や経理なら、お役に立てると、」
「馬鹿ね。そんな事しなくても、キュカはアタシのお嫁さんとして、毎日アタシのドレスを着て隣で可愛くニコニコしてくれれば充分なのに。…でも、そうね。アルフレート様の為に学んだ事でも、俺の為に生かしてくれるというのなら、これほど嬉しい事はない」
腕の力が弱まった。見上げると、涙に滲んだ視界の先、愛しい人が真摯な表情でキュカを見下ろしている。
「細かいところまでよく見ていて、人の気付かないところまで見通す聡明で優しいキュカ。俺と、結婚してほしい」
「……はいっ…!」
初めてのキスは、涙と桃の味がした。
「マティにとってキュカさんが「俺の姉のようなもの」って、そういう意味…」
「そうだよ。キュカはずっと兄上が好きだったんだ。だから俺は、どうせならキュカの夫より、キュカの弟になりたかった。やっと本当の義弟になれるみたいで、嬉しいよ」
膝に乗せた新妻の薔薇のような髪で手遊びしながら頬にキスをして、マティアスはニッコリ笑う。
新婚ほやほやの騎士団長の次男とその妻は、卒業後に騎士団に就職した夫の休日である本日、ソファでイチャイチャを楽しんでいる。
優しく愛し気に髪を撫でている手が、夜になると優しいのはそのままに、不埒な動きで新妻を翻弄するのは、当のロザンナだけが知る秘密だ。
人気急上昇中のメゾンのオーナーでありデザイナーでありテーラーでもある騎士団長の長男レナートと、伯爵令嬢キュカの婚約はあっという間に調って、とうとう彼らの婚約披露パーティーが行われたその翌日。
その披露目となった会場は、レナートの実家だったので、昨日まで女主人の義母の指示を仰ぎながら、嫁いで三ヶ月も経っていない若き伯爵令息夫人も差配を見事にこなした。
今日のマティアスは非番なのもあり、伯爵令息夫人として初めてホスト側の社交を過不足なくこなしてみせた新妻の仕事振りに感謝して、「ご苦労様」とめいっぱい甘やかすのだと昨夜から決めていた。そして今、現在進行形でそのまま実行しているだけの事。
「キュカさんにはお世話になったのだもの。今度こそ、キュカさんに恩返しするチャンス…!」
「ローザは何をするつもりなの? ドレスは無理だよ、きっと兄上が手ずから全部作ってコーディネートするに決まってる」
「実家の権力を最大限に使って、大聖堂を押さえます」
「うわ…。俺達の結婚式で使わせて頂いただけでも、特例みたいなものだったのに…」
「あの大聖堂で結婚式を挙げられるのは、王族か公爵家くらいですものね。どれほど寄付金を積んでも難しい大聖堂での結婚式……必ずキュカさんの為に押さえてみせます…!」
アレクサンダーの一存による一方的な婚約破棄は、ロザンナの名誉を甚く傷付ける行いだった。
すかさずマティアスが求愛してそれにロザンナが是と応えたのと、アレクサンダーに対してロザンナには一切非がない事は明らかだったので醜聞にはならなかったが、王太子から婚約破棄されたという事実のみを見れば、内実はどうあれ、ロザンナにも至らぬ点があった、と見做されてしまう。
国王と王妃は息子の非を詫びる意味もあって、伯爵家では先ず個人利用は不可能な大聖堂での結婚式という特別扱いを取り計らった。
これは王太子妃になるはずだったロザンナの新たな門出を祝うと同時に、「あんな息子に今まで寄り添ってくれて本当に有難う、そして大変申し訳ない」という、親としての謝罪でもあったのだろう。
何にせよ、伯爵家に嫁ぐ公爵令嬢の結婚式を大聖堂で行えたのは、王家の厚意によるところが大きく、例外と言っても良い。
だからこそ、同じように伯爵の息子と伯爵の娘が大聖堂で結婚式を挙げようと思ったら、相当の根回しとコネと金が必要になって来る。
「俺の奥さんは偶に凄くカッコいいなぁ。…でも、キュカに感謝してるのって、俺とローザだけじゃないと思うんだよね」
「……。アルフレート殿下とクローネさん…!」
「王族が結婚式を挙げる由緒正しい大聖堂を押さえられるのは、王族で王太子の、アル殿下も同じじゃない? それも、多分、伯爵令息夫人になっちゃったローザよりは、確実に」
「伯爵令息夫人には好きでなったのです。そんな卑下するような言い方、やめて下さる?」
「ゴメン。…後悔してないなら良いんだ。俺はもう、ローザを手放すなんて事、出来やしないんだから」
「……手放されたら、泣きますから」
一方、その頃。
王太子妃に選ばれた少女が、四年あまりという月日の遅れを取り戻すべく、学院の課題をこなしながら王妃教育も受けている。
アルフレートへの愛と貴族としての責務がそうさせるとは言え、焦る彼女が無理をして倒れでもしたら本末転倒だ。まだ両親が退位するには早いので、アルフレートはやっとこの手に戻って来た愛しい婚約者を、気晴らしにと王宮の見事な庭園に誘った。
薔薇をメインに、ジニア、セージ、サルビア、ガーデンマムなど、明るい春の花よりは少し落ち着いた、けれど色とりどりの秋の花が見栄え良く咲き誇っている。
白いティーセットに小さなケーキやマフィンをテーブルに運ばれれば、暫く勉強漬けで睡眠も削っていたクローネは、自分がどれだけ切羽詰まっていたのかをようやく自覚した。空気の温度も花の匂いも、夏から秋に変わったのだと気付けないまま過ごしていたから。
「キュカさんの想い人が、キュカさんの婚約者のお兄様だと、どうしてアル殿下がご存知でしたの?」
「マティアスは、別にキュカ嬢の婚約者ではなかったようだよ。親同士の軽い口約束だけで、正式な婚約は結んでいなかったようだし。…ただ、僕の婚約者候補ではあったから。キュカ嬢に限らず、サーシャ嬢もエルダ嬢も、僕は僕なりに観察していたんだ。あの年頃の女性なら、好きな人の一人くらいは居てもおかしくはないし。――もっとも、エルダ嬢は生身の男よりも学問に恋をしているような女性だったけれど」
「エルダさんには本当にお世話になっております。あの方が家庭教師をして下さるお陰で、どうにか学院の授業にも付いていけているようなものですから…」
クローネは丁寧に淹れられた温かな紅茶を飲んで、ほぅ、と軽く息を吐いた。
「マティアスにも一応、確認は取ったよ」
「レナート様との婚約が調ってからのキュカさんは、本当に幸せそうに笑っていらっしゃるもの。レナート様もキュカさんの事を妹みたいではなく、女性として好ましく思っておいでのようですし、良かったと思います」
「うん。僕としても、キュカ嬢には本当に感謝している。王太子妃になりたいなら、先ず君の事は見付けても絶対に僕に報告なんかしないだろうし、ましてや君の事も放置していただろう。けれど、彼女は正しい事をした。きっと彼女に想い人が居なかったとしても、同じ事をしたはずだ。キュカ嬢はそういう人だ」
「はい。……私、薄情ですね。記憶もない胡散臭い漂流者の私を、実の娘のように可愛がって下さったのに、結局、私はアル殿下を選んだのだもの」
「勿論、クローネを保護した漁村のご夫婦にも感謝している。クローネは可憐だから、きっと村の男達が放っておかなかったと思う。それでも君は、誰にも嫁いでいなかった。ご夫婦が本当にクローネ……否、リルカ嬢を幸せに出来る男を夫にしようと思っていたからこそ、クローネは清らかなまま、僕の元へ戻って来てくれた」
「はい。……求婚は、何度かされましたが。漁村では大した仕事も出来なかった私なので、迷惑が掛かっていたと思います。だからこそ、誰かの手を取って早く居場所を作るべきだと判っていましたが、どうしても、誰の手も取る気にはなれず……刺繍だけは我ながら自画自賛出来る腕前だったので、街のメゾンに働きに出る事にしたのですが、結果的に、そうして良かった…」
しみじみと語るクローネの琥珀には、仮初の故郷である漁村と老夫婦への哀愁こそあれど、アルフレートと共に歩む未来こそが人生だと、全く悔いが見当たらない。
「キュカさんには厚くお礼申し上げたのですが、それだけじゃ足りなくて。レナート様のメゾンに、実はお手紙を出したんです」
「手紙? 僕以外の男に手紙なんて、妬けるな」
そう言うくせに、アルフレートには嫉妬した様子などどこにも見受けられない。優しげな面立ちは、そのままニコニコと微笑んでいる。
「揶揄わないで。私がアル殿下一筋な事は、よく御存知でしょう? …針子として働いていた実績があるので、キュカさんのウェディングドレスの製作に、一口噛ませて頂けたら、と」
「刺繍かい?」
「刺繍もですけど、私、型紙から衣服を起こす事も出来るようになったんですよ。ご存知でしょう?」
リルカの時に得たスキルだ。両親よりも先にアルフレートに報告したので、彼が知らない訳がない。
「でも、レナート様ったら、キュカさんのドレスは全部自分だけで作りたいのですって。刺繍の一つも譲って下さりそうにないの」
珍しく拗ねた顔でスコーンを行儀よく食べる婚約者に、アルフレートはレナートの気持ちが判ると言いたげに頷いた。
「たった一人の女性に夢中な男なんて、皆似たり寄ったりだよ」
「アル殿下も?」
「僕も」
もしかしたら二度と再会出来ないかもしれないと、諦めずに捜しながらも心のどこかで喪失感を拭えず、この四年生きていた。
だからこそ、琥珀の瞳にまた自分が映っている。それだけで嬉しくなってしまう。
「…キュカ嬢には、本当に感謝しないといけない。クローネ、もう二度と、僕の前から居なくならないで……」
アルフレートに切なげに訴えられ、クローネは喉の奥でスコーンを詰まらせそうになった。
婚約者は元々美形ではあったけれど、この四年間でビックリするくらいカッコ良くなってしまった。少女のように愛くるしかった王子様は、もう過去の記憶と肖像画の中だけにしか居ない。
「しかし、クローネの刺繍も突っ撥ねられたとなると、キュカ嬢に感謝の気持ちを捧げるには、もう結婚式の日取りに合わせて大聖堂を押さえる事くらいしか思い付かないな」
「それは素敵ですね! 是非お願いします」
「ただ、同じような事を、伯爵令息夫人になられたが元公爵令嬢で実家の権力も王家の次に凄まじいロザンナ夫人と、その夫のマティアスも考えそうではある」
「! 急ぎましょう、アル殿下! 先を越されてしまいます!」
紅茶もまだ半分残っているのに慌てて席を立ったクローネは、かつての深窓のお嬢様らしい淑やかさを持ちながら、漁村で暮らした時に得た生命力や活発さも垣間見せるようになっている。
貴族令嬢――まして、王太子妃になろうという女性には致命的な欠点かもしれない。
けれど、自分が傍に居られなかった時にまっさらな彼女が身に付けた新たな面も、アルフレートには魅力的にしか映らない。
「もう、何を笑っていらっしゃるの? 早くしないと、負けてしまいます!」
いつから勝負になったのか。気持ちは判らなくもないけれど。
行方どころか生死も不明だった恋人が、今こうして目の前で生き生きとしている。その姿があまりにも鮮やかで愛おしいから、とうとうアルフレートは声を上げて笑った。