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キューブ

作者: あおいさかな

 帰ってくると、ヤナギが倒れていた。

 小さなボロアパートの、玄関前。冷たいコンクリートの上。壁に背を預けるようにして。両足がぞんざいに投げ出されて、狭い通路を封鎖していた。倒れていたというよりは、寝ていた、の方が正しいだろう。

 久々に会うヤナギは、以前と少しも変わっていなかった。もともとショートカットだったアッシュブラウンの髪が、更に短くなったくらいだ。

「……ヤナギ?」

 男性名とも、女性名ともつかない、不思議な名前を呼ぶ。

 大きな目と細い体躯のお陰で、外見はそれなりに女性らしい。けれど、内面は横着で大雑把で男勝り。総合的に判断すると、ヤナギはどこか中性的な人間だ、というのがオレの意見だ。

 どこか綺麗で、どこか飄々としていて、どこか冷たいような、温かいような。深い海のような、そんなイメージを勝手に抱いていた。

「おい、ヤナギってば」

 肩に食い込む重い荷物を降ろして、肩を揺すると、ヤナギはようやくとろんとした目を開けた。

「あっ、橘。おっかえりぃ」

 へらへらと無意味に笑って、ヤナギが呂律の回らない口調で言った。気分の悪くなりそうな、独特な匂いが辺りに漂う。

「うわ、臭っ。ヤナギ。おまえ、酔っ払ってねぇ?」

「へへへぇ。ちょっとだけぇ」

 語尾が間延びしたしまりのない口調で、ヤナギが答える。

「ちょっとだけ、ってレベルじゃないだろ。だいたい、何でオレのアパートの前で寝てるんだよ」

 酔っ払ったボーイッシュな女が、部屋の前で寝てました。ご近所さんに、どう説明をすればいいんだ。

 家族と喧嘩をした。友達と取っ組み合いになった。飼っていたネコが、いなくなってしまった。飄々と生きているように見せかけて、本当は小心者。意地っ張りなせいで人前では絶対に泣かないくせに、一度緩むと涙が止まるまで子供みたいにふさぎ込む。

 子供の頃からずっと、些細なことで泣き喚くヤナギを宥めるのはオレの役目だった。ヤナギに、物好きな彼氏ができるまで。

 そういえば、ヤナギがオレの前に姿を現すのは、一年と半年振りだな。十八ヶ月という数字が、ぼんやりと頭に浮かぶ。

「彼氏は、どうしたんだよ?」

 脈絡もない問いが口をついて出てきた理由は、ヤナギに言われた言葉がいつまでも頭の中に残っていたからだろう。

 これからはもう、橘に頼らなくても大丈夫、と。

「フラれたの~」

 冗談めいた調子で、ヤナギは口を尖らせた。

「あ、そ」

 ヤナギの言葉には驚いたけれど、平然を装う態度を見て、余計な反応を示すのはやめた。そっけない口調で、相槌をうつ。

 他人の不幸を喜んじゃいけないな。そうは思っても、心のどこかに、安堵に似た感情が生まれた。にやけてしまいそうな口元を必死で抑え、表情を崩さないまま、ポケットを探る。

 部屋の鍵を取り出すと、ヤナギはそれを奪い取って中に入った。

「うわ。埃っぽいし、油臭い」

 扉を開けた途端に、非難の声が上がる。二週間の間に、フローリングの床はうっすらと埃をかぶっていた。そこに微かに、油絵の具の匂いが混じっている。

「仕方ないだろ。日本にいなかったんだから」

「え。橘、どっか行ってたの?」

「オーストラリア、一人旅。おまえ、よく帰国する日がわかったな」

 昔から、タイミングだけは良かった。思い返してみても、行き違いになるなんてことは無かったように思う。

「一時間くらい前に来たんだけど、橘がいなかったから待っててあげたの」

 恩に着せるような言い方をして、ヤナギが小さなくしゃみをした。初冬。南半球から帰ってすぐに、風の冷たさを感じた。薄手のジャケットの袖を引っ張るヤナギを見て、慌ててエアコンを入れた。

「掃除するから、その辺で待ってろや」

 窓を開けて、フローリングの床にモップをかける。その間、ヤナギは部屋の中をうろうろと歩き回っていた。

 小さなガラステーブルと、画集ばかりが詰め込まれた本棚。乱雑に置かれたイーゼルや画材。埃よけの白い布に覆われた描きかけの絵。昔。テレビのないこの部屋を訪れるたびに、ヤナギは退屈しないのか、と聞いてきた。

「それで。おまえ、何しに来たって?」

 ようやく腰を落ち着けると、ヤナギは持ってきたコンビニの買い物袋を示した。薄いビニール越しに、ビールやチューハイのパッケージが見えた。

「お酒、付き合って」

「おまえは既に、酒臭い」

 にこにこと笑うヤナギの前に、淹れたばかりの日本茶を置いてやった。ヤナギは不服そうに音を立てて緑茶を啜った。

「じゃぁ、何か話して」

 テーブルに頬杖をついて、ヤナギが口の端を吊り上げる。

『何か、話して。元気が出る話』

 昔、よくせがまれたことを思い出す。残念ながら、元気の出る話なんて、そうそう無いんだ。

 だって。こんな事を言ったら、傷つけるかもしれない。それでも、言葉は口からこぼれた。

「ヤナギさ。オレと付き合わない?」

 一瞬の沈黙の後。ヤナギが思い切り吹き出した。緑茶の霧が宙を舞い、ひいひい笑いながら指の長い華奢な手がガラステーブルを叩く。

 結構、本気だったのに。遣る瀬無い思いに、拳を握り締める。

「橘、最っ高……」

 ヤナギは、腹を抱えて笑い続ける。それは、どこか辛そうな笑顔だった。

「あっ。ルービックキューブ!」

 不意に本棚に目を向けたヤナギが、棚の上に置いてあったおもちゃを見つけて、手を伸ばした。昔はやった、単純なおもちゃ。

 きれいに揃えてあった六つの色を、ヤナギの指先があっという間にばらばらにしていく。

「おい。戻すの、大変なんだぞ」

 慌てて止めようとしたが、遅かった。小さな立方体は、統一性のない、カラフルなものに変化していた。

「ルービックキューブって、嫌い」

 ヤナギがぽつりと呟いた。内部が壊れているのだろう。小さな六面体は、回す度に、きりきりと音を立てた。歯車が回る音に、似ていた。

「六色あるでしょ。これ、いくら回しても、混ざり合わないの。だから、嫌い」

 酔いが、醒めていないのだろう。いまいち意味の掴めない言葉を、ヤナギが発する。

「六色あって。青いのが表だとしたら、白いのは裏面になるでしょ。他にも、赤とか、黄色とか。好きな色とか、嫌いな色。六色も色があって、ほんの少し回しただけで、それが出てくるの」

 きりきり。きりきり。小さな手の中でキューブが回って、ばらばらな六色があちこちで個性を主張する。

「混ざらないから、隠せないの。それが、簡単に表に出てくる」

 完全にばらばらな状態のルービックキューブを、ヤナギが放る。戻してみなよ、という挑戦のように。

「一色だけだったら、嫌われなくて済んだのにね」

 カシャッ。軽快な音を立てて、キューブが回る。青は、青。白は、白。混ざらないけど、それでいい。オレは、そう思う。

「人も、いろんな面があるもんだろ」

 ヤナギ。おまえが何を言われたか、知らないけど。

 ばらばらな六色が、手元で徐々にまとまっていく。赤も、黄色も。

「それこそ、六面なんてもんじゃない。数え切れないくらい、色んな面がある。一色だけ。一面だけ。表だけ。そんな人間、いるわけない」

 いろんな面。いろんな、色。全部ひっくるめて、オレはオレ。おまえは、おまえだ。

「気にすんなよ」

 ヤナギが、笑う。乾いた笑い声が、静かな部屋に響いた。ヤナギらしくなかった。昔は、もっと楽しそうに笑う奴だった。腹の底からおかしくて、楽しくて。弾けるような、笑い方。あの笑い声を、いつかまた、聞けるのだろうか。できることなら、ヤナギの側で。隣で。

 無理して笑うな、とは言えなかった。無理してでも笑ってなきゃ、やりきれない時だってある。

「やっぱりさ。童話みたいには、いかないよね。完璧な王子様なんて、いるわけない」

 ……だから、オレが。

 そう言おうとして、やめた。黙って、完成した六面体を棚に戻す。

「橘。水、飲みたい。ミネラルウォーター、買ってきて」

「は?」

 いいから。そう言って、ヤナギが外を指差す。酒と一緒に買ってくればよかっただろ。呟きながらも、腰を上げる。アパートの前の自販機まで、わざとゆっくり歩いた。

 外は、夕暮れ時だった。いつの間にか、赤みを増した陽光が、静かに辺りを照らしている。自販機に小銭を押し込んだ時の、微かな音が耳に残った。

 部屋に戻ると、西日の中にヤナギが座り込んでいた。部屋の隅に置かれたイーゼル。描きかけの絵を覆っていた布が外されている。その絵を見ながら、ヤナギが泣いていた。

 藍。群青。瑠璃。コバルトブルー。ネイビーブルー。インディゴブルー。トルコブルー。いろんな青が混ざり合った、深い海の絵。もう大丈夫。そう言われてから、一年半。この色を出すために、かけた時間だった。

 でも、まだ足りない。未完成の、深い海。

 声を押し殺して泣くヤナギに、言葉をかけることができなくて、黙って部屋の外に座り込んだ。

「橘」

 いつものヤナギらしくない、か細い声が耳に届いた。

「私も、橘のことは、嫌いじゃないよ」

 でも。だから。

「今は、待ってて」

 オレンジ色の光が、部屋と、青いキャンバスを包み込んでいた。いつか完成する、海を。



(終)

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