92-朝現れる魔物
一日はエイトイレブンに行くことから始まる。
今日も行ってきましたエイトイレブン。そして、俺に買われるのを待っていたはずのあの納豆を買う。最後の一つだった。部屋の冷蔵庫であの納豆がダブつき始めていたのにだ。
一度買えなくなったことを体験してしまうと、つい、見つけると買ってしまう。残り一つとなるとなおさらだ。まずい。いや、美味い。
納豆カレーを食べながら数時間前のアースのことを思い出す。まだ少し眠い。当然か。
ヒロコさんがちょいちょい俺を睨んできていた。メイさんやアユミさんのように脇目も振らずにヤドカリを食べていればいいのに。
そして、そのヤドカリだ。たくさん持って帰ってきたつもりだったが、ヒロコさん達に振る舞った分でなくなってしまったようだ。
最後の味噌汁を食べたあとに、やはりというか当然のように睨まれた。今度はヒロコさんだけでなく、そこにいた全員からだ。俺一人の力だけで倒したわけじゃないのに。ちゃんとマユミさんもヤドカリの気を逸してくれたし。ナギさんだって。
納豆カレーがなくなった。締めのほうじ茶を飲む。
さて、時間は… 8時18分。もう、ログインした方がいいだろう。ヒロコさんのことだからすでにチームハウスに来てくつろいでいるかもしれない。いたら今日もあの廃病院だろうな。
トイレを済ませてベッドに寝転がりVRギアを装着。ゲームを起動した。
世界が白くなったかと思うとそれが次第にアースの俺の部屋の光景へと変わっていく。
安心感のある狭い俺の部屋の床には数々の装備と対物ライフルが転がっていた。
しかし、その対物ライフルの隣に大きな女性も転がっている。布団もないのにスヤスヤだ。眼鏡が対物ライフルのバレルにかけられている。もう少し安定した場所に置くのがベストだろう。今にも落ちそうだった。
それに、よく接触せずにこの位置に立つことができたものだ。これはわざと際どい位置に置かれていると考えることもできる。アースの神様は意地悪のようだ。
(サービスが良いと言って欲しい)
まずい。俺の部屋であれこれ考える前に、このヒロコさんから避難しなくては。
こんなとき霧の世界であるアースは助かる。物音立てずに歩くことが簡単だった。
そっと、右足を扉の方へ向けて前に出す。よし、問題なし。次は左足だ。未だスヤスヤだ。寝顔だけならずっと眺めていられるのだが、これは魔物の擬態である。騙されたりはしない。
そっと、左足を扉の方へ向けて前に出す。これも、問題なし。次は右足だな。ゴールはすぐそこだ。
そっと、右足を扉の方へ向けて前に出す。出す。出ない。右足がびくともしなかった。
恐る恐る右足を見ると足首をがっちり掴まれている。これは、終わったかもしれない。
蟻地獄に落ちる蟻の気分はこんななのだろうか?
待て待て待て、この蟻地獄とは言葉が交わせるのだ。話せば解放してくれるかもしれない。
「ヒ、ヒロコさん。朝、ですよ。それに、ここは俺の部屋です。起きてください」
何か独り言をムニャムニャ言っているようだが聞き取れない。するといきなり右足を引っ張られこかされた。一瞬にして頭の隣に床があることに超、驚かされる。
そして、蟻地獄の二つの手が俺の体をもの凄い力で掴み引き寄せていく。全く抵抗なんてできない。力の差が歴然だった。
みるみる引き寄せられて蟻地獄、ヒロコさんの体に接触したところで動きが止まった。背中に豊満な何かの感触が伝わってくる。これは、始まったかもしれない。
いやぁ、本当にあったんだなぁ。人は見かけによらないなぁ。ゲヘヘヘヘヘ。
地獄から天国へ見事な生還を楽しんでいると、ふと何かの視線に気づいた。
扉を少し開けてナギさんが閉じているのか開いているのか判断のつかない目ではなく目を少し開いて半目の状態でこちらをジッと窺っていた。こわっ。
「あっ」
「ごゆっくり」
少し開いていた扉が閉じていく。と同時くらいだった。天国の様子がおかしい。ヒロコさんがなぜか腕に力を込め始めていた。
「ちょ、ちょっと待ってください。ナギさん。た、助けてくれないんですか?」
既に背中の感触を楽しむ段階は過ぎている。力強く両手で抱きしめられ、これに足でも加わろうものなら朝から大量のポーションのお世話になる可能性が大だった。
「私にも加われというのですか?」
閉じかけていた扉の動きが止まりその隙間からナギさんが閉じているのか開いているのか判断のつかない目で覗いてきた。
そういうことじゃなくて、普通に助けて欲しい。
「加わるとかじゃなくて、助けて欲しいんです。じゃないと、朝からポーションですけど」
「あなたは、ポーションを使ってまでヒロコさんと楽しみたいと」
前提がおかしいようだ。朝から話が通じない。既にヒロコさんの腕は万力のようで俺の体がミシミシと悲鳴を上げていてもおかしくなかった。
「ナギさんは俺の自称妻なんでしょ?夫がポーションの危険にさらされているというのに助けないんですか?」
「あなたの正式な普通の妻ですが、ヒロコさんのその状態の危険性を知らないからそういうことが言えるのです。あなたは、妻までポーションの危険にさらすのですか?」
そ、そういうことだったのか。普通では開かないナギさんの目が開いていたのも俺を断腸の思いで見ていたのかも… って、まずい。ヒロコさんの左足が俺の左足の上に。
「もう、あまり時間がないような気がします。いつもヒロコさんをどうやって起こしていたんですか?付き合いが長ければ知ってるでしょ?」
「ヒロコさんが寝ているところには誰も近づきません。自然に起きてくるのを待ちます。起こしに行って五体満足で帰ってきた者を私は知りません」
「え?ナギさんも一度くらい起こしに行ったこと、あるでしょ?」
「私も最初知らずに捕まったことがあります。ポーションがなければ、あなたに会うことはできなかったでしょう」
俺の右足と部屋の床の間からヒロコさんの右足と思われるものが生えてきた。そして、それが俺の左足の上にのっかっているヒロコさんの左足とがっつりと組み合わさる。
もう残されている時間は本当に、本当にほとんどないようだ。ヒロコさんを何とかして起こさないと。
「ヒ、ヒロコさん。ヤドカリを倒しに行きますよ。もう、みんな支度は終わってます。置いて行きますよ」
「何、ヤドカリ!私を置いて行かせるわけないだろ!!」
「や、やったか? あっ」
なぜか、目覚めたヒロコさんが手足に力を込めたようだ。意識が遠くなっていく中で、この体の無事だけを祈った…
「ヒロコさん、おはようございます」
「おはよう、ナギ。今日は凄く良く眠れた。この抱き枕最高だね。ナギの差し入れかな?」
「そういうわけでは」
「それにシグレの声がしたけど何処なのかな?おかしなことを言ってたようだから、おしおきをしてあげないと」
「シグレなら、そこに。ヒロコさんの腕の中で、ぐったりしてます」
「え?これが、シグレ。抱き枕の才能もあるとか、流石便利アイテムじゃないか。でも、動かないねぇ」
「ヒロコさんの癖でもう少しで壊れるところでした。壊したら絶交ですから」
「寝ている私に近づくから」
「だったら、シグレの部屋で寝るのはやめてください」
「ナギが、いい抱き枕があるって…」
「間違ったことは言っていません。ただ、私の大事な抱き枕ですからヒロコさんも使うのなら大事にしてくださいと言っているのです」
「わ、わかったって。そんなに怒らなくても。つ、次はできるだけ気を付けてみるから。無理かもだけど」
「私は怒ってなどいません。無理なら、ここでは寝かせません」
「わかった。わかった。ナギもこれ抱きたいんだろ?半分貸してあげようか?」
「それは、ヒロコさんのじゃありません。私のです。ですが、今は半分借りることにします」
「はい、どうぞ」
(シグレは、本当に好かれてるね。なかなか珍しいんだけど)
(私もあそこに行きたいんですが)
(…)
目を開けると見知らぬ天井があった。頭を横に向けてみると対物ライフルが… 俺の部屋じゃん。
時間は9時24分。ヒロコさんはいない。
立ち上がってみる。どうやら体は無事のようだ。もしかしたらポーションのお世話になったのかもしれない。だとしたら、ヒロコさんのポーションだから大丈夫じゃないけど大丈夫だ。
うーん。自分の部屋なのに自分の部屋でログアウトをすることは罠かもしれない。自ら墓穴を掘っていたとは。普通に気づかなかった。
切り替え、切り替え。
居間に移動しよう。ヒロコさんの予定を確認しないと、こちらの予定が組めない。ヒロコさんが暇ならヤドカリに行かないといけないからだ。
居間に移動すると台所に近いダイニングテーブルにいつもの服のヒロコさんと受付姿のメイさんがいた。テーブルには朝食とおぼしき料理が並んでいる。
「シグレさん、おはようございます。朝から私を仲間外れとは、いい御身分だことですね。ね」
「君のおかげで二度寝が捗ったよ。抱き枕として家に来るかい?」
そこにナギさんが台所から現れた。手には料理が見える。
「ヒロコさん、シグレは私のですから。勝手に持ち出したりしないでください。貸し出しもしておりません」
「ヒロコさんの気持ちはわかります。シグレさんの側で寝ると安心感が違うんですよ。落ち着くし」
「ナギ、随分言うようになったね。少し前とは大違いだよ。変わるもんだね」
「ええ、私は変わりました。あなた、朝食を用意しました。どうぞ」
「あ、はい」
勝手に話が進み勝手に朝食がやってきた。ヒロコさんに文句の一つでも言ってやろうかと思ったが文句がいつの間にか霧散していた。今日のところはこれくらいで許してあげよう。
ヒロコさんとメイさんの熱い視線が降り注ぐ中、と、とりあえずヒロコさんの隣に座る。
「ちっ」
どこかで女性からはあまりしないはずの音がした。虫の音かもしれない。
すると、メイさんが自分の朝食を俺の隣に持ってこようとしていた。
しかし、ナギさんがそれを華麗にインターセプトし、俺の隣にはナギさんが座っている。
「ちっ」
また、音がした。今日は虫が多いのかもしれない。このアースにもいろんな虫が再現されているようだ。
「「「「いただきます」」」」
「「「「ごちそうさまでした」」」」
朝食は静かに始まり静かに終わった。なぜか、今日はみなさん行儀がよろしい。
「それで、ヒロコさん。今日は暇なんですか?」
「暇というか、ヤドカリの日だね。君は暇なんだろ?一緒にヤドカリの日だね」
「そうですね。じゃ、今日はヤドカリの日ということで。ナギさんはヤドカリの日ですか?それとも、秘密の日ですか?」
「ヒロコさんだけでは、心配ですのでヤドカリの日にします」
「ナギ、言うねぇ」
「メイさんは、仕事っと。マユミさんとアオイちゃんは見ての通り今日、ひょっとしたら明日もいないと思います」
「シグレさんは、アナザーの方、大丈夫なんですか?」
「シグレは大丈夫なんだよなぁ。アースのために頑張ってくれるんだよなぁ」
期待されているのか、バカにされているのかわからないがアースというかアサヒ都市防衛に尽力しているつもりだ。寄り道が多い気がするが。
「今はまだ、大丈夫です。大丈夫じゃなくなったら来れないだけです」
突然三人の視線が俺に集まる。あれ?おかしなこと言ったかな。当たり前のことを言っただけだと思うんだけど。あれ?
「わかりました。私が神様にお願いします。あなたが、ちゃんとこちらに毎日来れるように」
「あ、私も。シグレさんがいないと困るんで」
「神様ねぇ。良い酒でもお供えすれば何とかしてくれるんだろ?用意しとくよ」
(僕はお酒なんていらないけど)
(私もお酒よりシグレの方が)
(…)
(あなた、シグレはどうするんですか?)
(どうもしないけど)
(じゃ、私がどうにかしていいんですね)
(いや、ダメでしょ)
(では、私がどうにかしますから)
(だから、ダメだって。イヴは限度が。もう、僕が考えておくよ)
(それで、いいんですよ)
(…)
「あ、みなさん、ありがとうございます。それじゃ、今日は久しぶりの三人グループということで」
こっちの神様ってペンタ・ユニクスの人でしょ?ペンタ・ユニクスは、あまりいい噂を聞かないしなぁ。
前の会社を同じ時期に辞めた元同僚が確かペンタ・ユニクスに入れたって自慢のメールが来てたな。だが、自慢の後にはすぐ不満が続いていた。実際、黒いようだ。
業界はどこも同じなんだと再認識した。
しかし、ペンタ君は可愛い。
(あっ、面白いことを思いついた。フフフ)
「シグレさん、本当は私も行きたいんです。体も鈍ってきてるし、お腹の辺りとか。でも、ちょっとヤドカリのことが問題でシグレさんからもらった情報も整理して報告しないといけないので。ちゃんと情報料には色をつけさせていただきますよ」
「いや、あの、怒られるようなことはしなくていいです。普通にお願いします」
「大丈夫です。任せてください。ナギ、昨日の戦利品袋は私が換金して夜に分配するから。それで、いいでしょ?」
「私は構いません。シグレがそれでいいなら。マユミさんとアオイちゃんはいないので」
「俺もそれでいいですよ。4等分で換金お願いします。俺が少なくてもいいのでキリのいい感じで」
「いえ、私が少なくなるように」
「大丈夫です。4の倍数にしますから」
悪い人がおる。受付の皮を被った悪い人だ。善人の俺に悪事の片棒を担がせようとしている。こわっ。
「メ、メイさん、今日も夜来るんですね。俺達がいないと、このチームハウスに入れませんよね?」
「あ、大丈夫ですよ。合鍵ありますから」
「え?」
「あなた、メイも鍵が欲しいとゴネるのでつくってあげました。メイは役に立ちますから大目に見てやってください」
「大目に見るも何もマユミさんは何て?」
「シグレさんがいいならいいって言ってました。ということは良いんですね。ダメでも返しませんから」
「あ、はい」
「あと、クミコも呼んでいいですよね?遊びに来たいと言ってましたから」
「来て何するんですか?」
「さぁ?トランプとか?」
ここは、マユミさんとアオイちゃんと俺、三人のチームハウスだったのに雲行きが怪しくなってきたぞ。
「それじゃ、シグレ。私は家で準備するから行くときは寄っていくように。置いていったら―」
「だから、置いていきませんて。今日は、ヒロコさんに合わせてヤドカリの日にしてるでしょ」
「それならいいけど。君は往生際が悪いからね。逃げ出すかもしれないし」
信用ないなぁ。家族なんでしょ?
「私も、もうすぐ毎日お供できますから。喜んでください」
「ナギはとうとう決意したのか」
「ヒロコさんには以前話したと思うのですが、忘れたようですね」
「ナギは私に話すとき、前置きが長いんだよ」
「え?俺って一人で探索とかできなくなるんですか?」
「あなた、楽しみを独り占めするのは悪い癖です。そこは直していきましょう」
「そうだぞ、君。直せ、直せ」
「シグレさん、私も担当としてもう少し動けるように調整します」
流れがおかしい。一人で探索や実験したいことだってあるのに。
「俺が一人で何かしたいときはどうすれば…」
「あなた、許可を取ってください。私達から」
忘れていた許可制、キターーーッ。この流れだと許可は下りそうにない。
「でも指名依頼なら一人で行ってもいいんですよね?」
「シグレさん、お金が絡まないなら付き添いがいてもいいんですよ。依頼は」
終わった。俺はもう爆弾から逃げられないようだ。
「まぁ、まぁ、君だって一人で何かしたいことはあるだろうから。私の抱き枕をしてくれれば許可は出すよ。この娘達の分も」
「「ヒロコさん!」」
抱き枕かぁ。下手したら死ぬんだよなぁ。一番の年長者だからヒロコさんから許可をもらうのが良さそうなんだが。何か考えよう。
「ここは年長者の言うことを聞いておくんだね」
「行き遅れのくせに」
「メイ!どうやら結婚しないまま、この世を去りたいようだね」
ヒロコさんが掴もうとしたところを華麗に躱すメイさん。
「それじゃ、仕事に行きますから。また、今夜」
「メイの奴。まぁ、いい。私も家に戻るよ」
「あなた、弁当箱と水筒です。水筒にはお茶が入っています」
「ありがとうございます。それじゃ部屋で準備してきます」
弁当箱と水筒を持って自分の部屋に戻る。
部屋に入り弁当箱と水筒をリュックサックに入れる。外していた装備を確認しながら身につけていく。背中にリュックサックを装着し腰にバッグをつけた。
そして、対物ライフルを持てば準備完了だ。
俺は一人での冒険を諦めない。抜け道はあるはずだ。きっと…




