73-そば
ナギさんの声だった。姿はない。恐ろしい。
今日はシモン君とアント退治を真面目にしてきたのだ。後ろめたいことは何一つない。はずだ。
自分の部屋に入り、装備を外す。いつかもこんなだった気がする。そのときはフルコースをいただいた。関節技の。
対物ライフルやリュックサック、ハーネスが自分の部屋の床に並んだ。少し対物ライフルの角度を直す。戦闘機が装備できる武装を並べているような絵面に見えなくもない。かっこいい。
いかん、いかん。切り替え、切り替え。
また、重苦しい雰囲気に戻す。
走馬灯が出てきて教えてくれたりもしない。俺は何をしたのだろうか?
ひょっとしてシモン君を女の子と勘違いされて通報された?いや、たとえそうだとしても。別にいいじゃん。俺は悪いことなんかしてないぞ… たぶん。
自分の部屋を出て扉を閉める。逃げたい。
そして、深呼吸をして居間へ。
居間へ。
居間へ。
「えーと、みなさんは何をしていらっしゃるのでしょうか?」
「さぁ、あなたもこちらに来て食べてください」
「シグレ、蕎麦よ。美味しいわよ」
「シグレさん、ナギお姉様からいただきました。早く」
マユミさん、アオイちゃん、それにナギさんが居間で蕎麦を食べていた。全くタイミングがいい。俺の分はちゃんと残っているようだ。
いや、そうじゃない。なぜ、蕎麦を食べているのかだった。な、なんとなく嫌な予感が…
さっきまでの重苦しい雰囲気は霧散していた。
「それで、なぜ蕎麦を?」
「ナギお姉様が引っ越しで、それを手伝って一段落したの。お腹も空いていたし、ちょうど蕎麦もいただいたことだし。それでね」
アオイちゃんが手をパンパンしているところへ座る。
俺の分の箸や蕎麦猪口が出てきた。薬味もある。用意がいいことだ。まずは薬味なしで蕎麦を食べる。
いい。
相変わらずこのゲームの食へのこだわりが半端ない。しかも、これは日本だけではないらしい。ある場所を除いて。
しかし、開発のことを考えるのはよそう。蕎麦がまずくなる。
「美味しいですね」
「でしょ?」
「流石お姉様です」
「アオイちゃん、さっきも言ったでしょ。ナギだけで構いませんよ。私は3番目ですから」
うん?それって言葉の綾みたいなものだったのでは。
「いえいえ、ナギさんって呼ぶのは何か…」
自分だってアオイちゃんって呼んでもらってるくせに。
「戦闘のときも長い言い回しは、身を危険に晒す可能性が高くなりますからね」
「わ、わかりました。き、気を付けてみます」
「それにしても、シグレは凄いわね。ナギさんを捕まえるなんて」
え?マユミさん。その話聞いちゃったの?あの戦いは無我夢中だったというか、あれしか思いつかなくて。
「捕まえるだなんて。あのときはあれしか思いつかなかっただけです」
「シグレさん。ナギさんはいい人です。私の女神様もそう言っています。幸せにしてあげてください」
アオイちゃんは何を言っているのかな?何かおかしい。
「あなた、手が止まっていますよ。さぁ、さぁ、どんどん食べてください」
忘れてた。美味しい蕎麦のことを。今度は薬味を入れて蕎麦を楽しむ。
いい。
この蕎麦は確かに美味しいのでありがたいのだが、それを取り囲む周りの状況がおかしかった。
何だかどんどん深みにハマっていくような。蟻地獄に落ちていることに気づいていない蟻のような。この感じはいったい。
蕎麦を取ってきてすする。蕎麦が何かを和らげてくれている気もしてきた。
「センパイがグズグズしてるから先を越されちゃいましたね」
「アオイちゃん、何を言ってるの?先とか後とかないの」
(それにリアルなら、まだ…)
「それで、この蕎麦はナギさんが引っ越した祝いなんですよね?どこに引っ越したんですか?この近く?」
マユミさんとアオイちゃんが同時に凄い目でこちらを見てきた。目から出ているであろう光線を心のなかで避ける。
そして、ナギさんはというと。いつものように閉じているのか開いているのか判断のつかない目でお茶を飲んでいた。
「マユミさん。シグレには教えていません。面白いので」
「そうなんですね。ナギさん」
「あなた。私、フクタニ ナギは、ここに引っ越してきました。あなたと同じ部屋を希望したのですがマユミさんにダメだと言われまして、代わりに空き部屋を私の部屋として使わせてもらうことにしました。これから、末永くよろしくお願いいたします」
「よ、よろしくお願いします」
うん?ツッコミどころ満載でリアクションに困ってしまう。
「さ、流石にシグレが夜いないとしても同じ部屋は、ま、まだ早い、でしょ」
「センパイ、夫婦なら早くなんてないと思いますけど。それとも嫉―」
アオイちゃんの首に手が回っていた。アオイちゃんがすぐにマユミさんの腕をパンパンしている。
「お姉ちゃん。ホントだけどウソです」
「夫婦?」
「あなた、夫婦を知らないのですか?私は3番目ですがあなたの妻になりますので。アナザーの世界ではどういう言葉なのか知りませんが夫としてきちんと理解してください」
あれぇ?
だいたい、マユミさんとアオイちゃんの1番とか2番は俺達が言っていたのではない。ナギさんが勝手に3番から始めたのだ。
「そもそも、マユミさんやアオイちゃんが1番や2番っていうのは、ただのノリでしょ?あれって本当だったの?」
「ナギさんにそれを言っても信じてもらえなかったから。諦めなさい、シグレ」
「シグレさんだって、嬉しいくせに」
嬉しいって。
「アオイちゃん。ナギさんがどんな人か知ってて言ってるの?」
「え?見ての通り美人だし、戦っても凄いらしいしで、シグレさんにはもったいないです」
「なら、アオイちゃんがナギさんをもらってください」
「それは… 本人の意思というものがありますから」
「じゃ、俺の意思―」
「あなた。あなたは私の手をこんなにも強く握ってくれました。これは私をあなたのものにするという、あなたの気持ちだと判断しました。間違っていませんね?」
ナギさんが俺が握ったであろう手首をみんなに見えるように前に出した。細い手首だった。どこか芝居がかっているような気がしないでもない。
しかし、あれは、【心眼】先生の助言通りにやっただけで。自分の命を守るためで。
まさか、あそこは死ぬのが正解だった?
「シグレ。ナギさんの手首に跡が残るほど強く握ったんでしょ。決まりね」
決まらねぇって。どんな展開だよ。しかも、跡なんかほとんど残ってないじゃん。言われたら跡なのかな?ってぐらいじゃん。きれいな手首じゃん。
「確かにナギさんの手首を強く握りました。それは命―」
「あなた、間違っていませんね?」
「考える時間とかは…」
「シグレさん、何を考えるんですか?時間なんて必要ありません」
くっそ。重大な決断をこんな簡単に決めていいのだろうか?
いいのだろうか?
いいのかな?
いいか。
もう、言うだけならタダだ。言ってしまえ。
「はい、間違っていません」
言っちゃった。
「それでは、ここに署名と捺印を―」
婚姻届だった。最終兵器が用意されていた。準備が良すぎる。どうしてポンチョの中に。
でも、これゲームだよね。本当にゲームだよね?こんなの必要なの?ゲームなのに。
「流石に、これは」
婚姻届には俺の名前以外全てが記入済みだった。俺が書くべきところはほとんどアナザーと書かれていた。こんなおかしなものが受理されるわけがない。
「あなた、手が止まっていますよ」
大丈夫だ。この場を乗り切るためにも。この用意された印鑑を押すくらい何てことは。
マユミさん、アオイちゃん、ナギさんが見守る中、”シグレ”と書いて―
「やっぱり、押せません」
ナギさんの顔を窺う。目が、目が開きそうだ。まずい。苦無を受けるものがない。素手しか。
と思うと目が閉じていき口角が上がっていく。
「しょうがないですね。無理にしてもらっても意味がありませんから」
「ナギさん、いいんですか?」
「私が、コブラツイストでもかけましょうか?」
「コブラツイストが何かはわかりませんが大丈夫です。私にはまだ奥の手がありますから」
奥の手だとぉ… そんなもの俺の強固な意思の前では。でもでも、コブラツイストは体験しておいた方がいいかもしれないかなぁ。
「どうせ、苦無で背中を刺すとかそんなんでしょ。俺にはまだポーションが少しありますからね。ポーション使うまで頑張って我慢しますから」
「そんな力ずくでやらせるわけないでしょ。あなたが自分からやるんです。それでは、行きます」
何が来るのか。
「シグレの何でもチケットを1枚行使します。あなたは婚姻届に署名と捺印を自ら進んで行うことでしょう」
そういえば、ヒロコさんにあげた何でもチケットがナギさんに渡っているんだった。しかし、そんな口約束みたいなもので俺の意思を曲げることなんて。
曲げることなんて。
あれ?あれあれあれ。体が勝手に動いてる。
(説明しよう。アナザーの何でもチケットは絶対である)
うん?耳もおかしい。変な声が聞こえた気がする。
「あなた、どうです?署名と捺印したくなったでしょ?」
マユミさんとアオイちゃんが凄く楽しそうだ。
俺の意思は曲がっていないのだが体と接続が切れていた。何でもチケットにこんな力があるとは、このゲームはアホだ。信じられないくらい、アホだった。
と考えているうちに体は婚姻届に署名をし”シグレ”としか書かれていないだろう謎の印鑑を押していた。
でも、大丈夫だ。こんなおかしな届けが受理されるはずがないからだ。
そして、体との接続が元に戻る。何でもチケットの発行は本当に最後のときだけにしようと誓った。口を滑らせたくらいで発行していては自分が自分でなくなってしまう。
「こ、これで、いいんですね?」
「あなた、ありがとうございます。これは私が役所に出しておきますから」
はい、はい。追い返されるだけだと思いますけどね。
ナギさんが一瞬だけ目を開いて婚姻届を見ていた。とてもいい表情だった。独りの世界で婚姻届を堪能していたのかもしれない。ナギさんが本当に喜んでいるのなら、アリな気もしてきた。
(採点は好評につき終了しました)
それにしても俺を執拗に殺そうとした人が進んでその相手との婚姻届を出すとか。ミステリーどころではないな。また、悪いことを企んでいなければいいのだが。
蕎麦を取ってきてすすった。俺の側に引っ越して来たとでもいうのか?
(…)
「これ他人のを見ていても何だかドキドキするわね」
「ホントです。ドキドキしました。私もいつか書くんだと思うとドキドキが止まりません」
俺は今ドキドキ始めました。
「これで、私も正式に3番目です。みなさん、よろしくお願いします」
そこの二人はただのチームメイトだから。
「シグレ。ナギさんが料理道具を持ってきてくれたから、とうとうついにこの家で料理ができるようになったわ。シグレがナギさんを捕まえたおかげよ。助かるわ」
そういう意味で捕まえたわけじゃないんだよなぁ。
「お姉ちゃん。肉じゃがをお願いします。それとメロンパンも」
「マユミさんは料理が得意みたいですね。私もそこそこ料理はできると思います。一緒に夫のためにつくしましょう」
「ナギさん、つくすなんて大袈裟な。シグレが調子にのるので適当にお願いします」
「調子にのせるくらいがいいんですよ」
リアルでも結婚していないのにゲームで先に結婚してしまうとは… 式なんてあげないからな。
でも、ゲームなら結婚なんて珍しくないな。ゲームの主人公が幼馴染と結婚して町娘を”ぐぬぬ”とさせるアレなイベントだ。
これもそういうのだ。気楽に行こう。気楽に。
「あなた、これを」
ナギさんがポンチョから出してきたのはポーションだった。あのときの補填だろう。それを丁寧に受け取る。俺の命を救うほどの効力だ。これからもお世話になることだろう。しかし、なぜ、今?
最後に残った蕎麦を蕎麦猪口に取ってすする。蕎麦だけは美味しい。他は苦かった。
流れを無理矢理ずらしていく。
「マユミさんとアオイちゃんは、アントのこと聞いた?」
「え、ええ、さっきナギさんから。私もアントを見つけたら最優先で倒すようにするわ。前に砂浜で探したヤツよね?結局見つからなかったけど」
「シグレさん。ワタシも頑張ります。それより、砂浜って何ですか?」
「何でもありません。かなり大きい蟻なんだけど二人とも大丈夫?」
「うん?蟻なんて大きくても蟻でしょ。問題ないわ」
「ワタシは… センパイに頑張ってもらいます。そのセンパイの応援を頑張ります」
マユミさん、スゲー。アオイちゃんは、まぁ、そうだろうな。マユミさんがあっち側の人でアオイちゃんはこっち側の人だった。
「アオイちゃんも頑張ってください。アース人は子供でもスカウトアントを倒しますからね」
「は、はい。なるべく」
(お姉ちゃん、お願いね)
(最初はね。早く慣れなさいよ)
「それで、あなた。銃の方は…」
「今日は、シモン君とアント退治をしてたので銃の方に進展はありません。が、ナギさんは気にしなくてもいいです。自分で何とかしますから」
「それでは、これを」
すぐに大金を出す。金銭感覚がおかしいって。そして、そのポンチョも。アオイちゃんが目を丸くして大金を見つめている。
「それも、今は。ものが見つかってから相談しますから」
「シグレ。もう嫁にお金をたかってるの?」
「マユミさん。これは違います。さっきも謝罪したように、これは私が原因ですから」
あれぇ。謝罪って何の謝罪?俺にはなくてもいいの?
「あなた、銃がないせいで死んだりしないでください。もし、そんなことになったら見境なくアナザーを殺してしまうかもしれません」
こわっ。モンスターを殺してください。お願いします。
「シ、シグレ。軽率な行動は控えるように」
「シグレさん、ホントですよ。もう一人の体じゃないんですから」
アオイちゃん、表現なんとかして。
「大丈夫ですって。俺には対物ライフルもあります」
「そ、そう。私とアオイちゃんがいるときは私達で何とかしてあげるんだけど」
「ナギさん。ワタシとセンパイがいないときはお願いしますね」
流れがおかしくなってきたぞ。
「もちろんです。私は常に側にいたいのです。しかし、現在私はそこまで自由ではないのです。ただ、その辺りは結婚を理由に何とかするつもりです。それまでは、あなた。最大限の注意を」
「は、はい」
これは、一人で行動するのが難しくなったのか?いや、マユミさんとアオイちゃんはリアルがあるから大丈夫だ。問題ない。
問題はナギさんだな。この人から逃げるのは実質無理なのでうまく立ち回らないと。
「さてと、じゃ、アオイちゃんのためにメロンパンでもつくろうかな」
「流石、お姉ちゃん。こっちでもお姉ちゃんのメロンパンが食べられるとは。本当にこれは凄いゲー」
俺の最大のスピードでアオイちゃんの口を塞ぐ。アース人の、ナギさんの前でその言葉はまずい。
マユミさんも同じことをしようとしていたが、俺の方が少し早かったな。マユミさんは一瞬気づくのが遅れたようだ。
(アオイちゃん、それはダメ)
(あっ、そうでした。き、気を付けます)
「あなた、どうしたんですか?奥方とスキンシップですか?でしたら、次は私にも」
「ち、違います」
「それと、あなた。私の部屋には自由に出入りしてくれて構いません」
「なっ!」
マユミさんが凄い表情をしている。見ていて非常に面白い。
「センパイ、センパイもほら」
アオイちゃんがマユミさんを肘でつついている。
「わ、私達の部屋も、い、いいわよ。シグレが入りたいなら」
「大丈夫です。世の中には知らない方がいいことはたくさんありますから。それとメロンパン、俺も期待してます」
そう言って、自分の部屋へ戻った。
部屋に入り扉を背にしたまま立ちつくす。
え?俺って本当に結婚したの?ナギさんと。
いや、あれは受理されないし、ナギさんが言っていることも次の悪だくみへの布石のはずだ。
しかし、どうして、こうなったんだろうな。
そして、明日はあのアズマさんだ。あの人も悪いことしか考えていない側の人だ。
自分では石橋を叩き壊すくらい用心していたつもりが、橋を壊してしまうとは…
難しいな、世の中。
手にはナギさんからもらったポーションがあった。忘れないうちにスキットルに移しておこう。
よし、これでいいだろう。空き瓶を箱に戻す。これは、先代のポーションの箱の隣だな。
すると、扉がノックされたようだ。非常に元気のない音が部屋に響く。
扉は開かない。扉に近づいてみる。ナギさんなのか?
「あなた、指輪どうします?」
どうもしません。




