君に伝えたいことがある 夏の夜編
暗い夜の桟橋をを歩いて海の方に近づくと、漁船が波に揺られるタポタポという音が聞こえた。
夏の海から漂う潮風は、生暖かいだけであまり気持ちが良いものではない。
拓実の背中を汗がしたたり、拓実は短気を起こして家を飛び出したことを後悔した。
つまらないことで父親と喧嘩した。
正直に言うと原因はよく分からない。
むしろ親子喧嘩の末に拓実が家を飛び出すことは、我が家のルーティーンとなっている。
大学生にもなって大人げないのは自覚している。
しかし、酒に酔いテレビに向かって自分の不遇を嘆き、社会に怨嗟の声をあげる父を見ていると、拓実は無性に腹が立った。
政治家だの、知識人だの、そんなテレビに映し出される会ったこともない人間を責めるなら、自分でできることを考えろ。
拓実はいつもそう思う。
具体的な内容は別として大体そういった憎まれ口を拓実が父親にぶつけ、そして口論が始まる。
父親の言うことも大体同じだ。
親のすねをかじって生きている奴が生意気を言うなと、最後にはいつもそう言われる。
そして、それを聞いた拓実は家を飛び出す。
いつもその繰り返し。
しかし、特に今日は少しひどいことを言ってしまったかもしれない。
拓実は少し後悔していた。
「そんなに、ここに居るのが不幸なら、会社の近くでひとり暮らしでもすれば良いのに。」
自分は、父親に出て行けと言ってしまったのだろうか。
そう思うと、少し心が痛んだ。
漁港を抜けた拓実は、いつの間にか砂浜に出ていた。
キャンプをしている観光客だろうか、22時を過ぎようというのに砂浜には、ちらほら人影があった。
砂浜まで歩いて6分。子供の頃は随分重宝した。
夏休みになると、ほぼ毎日友人たちと砂浜に集合した。
海といってもこの辺りは防波堤の中なので、波は穏やかで深さも大したことがない。
ここは、そんな子ども向けの砂浜だ。
また、砂浜を管理しているのは地元の漁協であり、監視員の多くはクラスメートの親達だった。
だから拓実の町では、砂浜は夏期限定の託児所だった。
夏になればいつも、砂浜には地元の子ども達が集まっており、海の家や駐車場、ライフセーバーなど、そこで生計を立てる多くの大人たちに育まれた。
都会の子どもたちから見れば、拓実たちのそんな生活環境は羨ましいものかもしれない。
しかし、彼らは冬の砂浜を知らない。
この砂浜以外に大した観光資源のないこの街は、冬場は文字通り閑古鳥が鳴く。
潮干狩りが始まる4月から海水浴が終わる8月までとそれ以外の時期とでは、この町は違う町となるといっても過言ではないのだ。
冬場この街に来る観光客は釣り人ぐらい。
そして彼らの多くはセミプロだけに大したお金を町に落とさない。
そのため特に旅館や食堂など観光関係の仕事をする人々は、夏だけの季節労働者のような生活となる。
寝る間もない夏と、何もすることがない冬場。
収入はどうしても不安定となる。
特に夏の長雨は商売に響く。
雨の中で海水浴をする人間などいないのだから。
拓実が幼い頃は、自宅は小さな食堂で、年老いた祖父母と嫁である母が切り盛りしていた。
そんな商売を嫌った父は、サラリーマンとして都会に働きに出た。
毎日、早朝に起き出し、片道3時間かけて通勤する父のお陰で、我が家の生活は比較的安定している。
しかし1日6時間の通勤は、父の心を蝕むのだろう。
50歳を過ぎた頃から極端に父は愚痴っぽくなった。
父にとって愚痴のネタは何でも良いようだ。
とにかく独りでテレビに向かって不満を言う。
政治家の記者会見、評論家のコメント、あげくアイドル歌手の自己紹介にまで噛みついた。
無論内容は他愛無いものであるし、母や妹がそうするように聞き流すべきものだ。
そう、それは分っている。
それだけではない。拓実は分っていた。
実は自分が本当は恐れていることを。
ここにいる限り、自分も父と同じ運命を背負っている。
そう思うといら立ちを抑えきれないのだ。
「コラ、不良少年。あんまりおばさんに心配かけじゃダメだよ。」
砂浜に腰をかけて海面を眺めていた拓実は、聞きなれた声に振り返った。
そこに立っているのはジャージ姿の美香だった。
長い髪を頭の後ろにひとくくりにした美香は、化粧っけの無い顔を隠すようにマスクをしている。
「母さんから電話がいったか、スマン。」
「本当に迷惑よ、嫁入り前の若い娘をこんなところに来させて、何かあったらどうするのかしら。」
拓実が美香と出会ったのがいつなのか、それを正確に知ることは難しい。
この小さな町で同級生として生まれた美香は、拓実にとって気がついた時には近くにいた女の子だった。
ただの同級生だった拓実と美香の関係に最初の変化が訪れたのは中学生の時だった。
当時ギターが欲しかった拓実は、美香の親が経営するペンションでアルバイトを始めたのだ。
結果的に一緒に居る時間が長くなったことで、拓実と美香は特に親しい同級生となった。
アルバイト代で購入したギターは三日坊主に終わった。
しかし、ペンションでのアルバイトは受験などのブランクを挟みながらも中学、高校とずるずる続け、大学生となった現在も続けている。
そんな訳で、いわば職場の同僚として、拓実と美香は中学から高校へと付かず離れず過ごしていた。
そんな2人の関係は、高校3年の時に起きたちょっとした事件をきっかけに、また大きく変わることとなった。
中学卒業後、美香が私立の女子校に進学したのに対して、拓実は近くの公立高校に入学した。
そして運動音痴ながら、女子にモテたいという邪な目的のためにサッカー部に所属した拓実は、もっぱら弱小チームの補欠としてベンチを温め続けていた。
その状態は高校3年生になってもほぼ変わらず、弱小故にベンチ入りはできるものの、基本的に出番の無いボール係の拓実だった。
そして、今日負けたら引退という最後の地方大会の1回戦のスタンドで事件は起こった。
「拓実先輩。あれ何ですか?」
ニヤニヤ笑いながらスタンドを指さす、レギュラーメンバーの後輩の視線の先には拓実の名前を大きく書いた横断幕と、その横に仁王立ちする美香がいた。
弱小チームならではのほぼ無人の応援席だけに、その存在は痛々しく、また愛らしかった。
「ゴメン、美香。多分俺、試合には出ないから。でも、ありがとうな。」
拓実は、応援席に向かって大声でそう言った。
爆笑するチームメートたちと、何故か堂々と胸を張る美香。
考えてみれば相当恥ずかしい画だが、それでも拓実は嬉しかった。
「来週さ、実質的な引退試合なんだ。内弱いから、多分負けるしね。」
その直前のバイトの時、何気なく話した拓実の言葉を美香は覚えていたのだ。
そして、何を勘違いしたのか、レギュラーメンバーとして試合に出場し、泥まみれになって全力を尽くしながら、敗北に涙する幼馴染の応援に駆けつけてくれたのだ。
恐らく美香にとって、その応援は拓実に対するサプライズだったのだろう。
サプライズについては大成功だった。
肝心の拓実が試合に出ないから泥だらけにはならないことだけが想定外なのだが。
予定通りその試合に負けサッカー部を引退した拓実は、より多くの時間を美香と過ごしながら必死に勉強した。
そして、美香の志望校である隣町の国立大学の経済学部に、美香とともに入学した。
2人で手をつないで入学式に向かい同級生たちをあきれさせた2人は、それから2年半が過ぎ学生時代が終わりを迎えつつある今も、こうして手をつないで歩いている。
「美香に何かあったら、俺が責任取るよ。」
「駄目よ、そう言うことを軽々しく口にしちゃ。」
そう言いながら美香は拓実の隣に座った。
膝を抱えて砂浜に腰を下ろし、上目遣いに拓実の方を見つめる美香の瞳は、明るい月の光を反射してキラキラと輝いた。
多分それは恋人である拓実の目の錯覚なのだろう。
それが錯覚だろうと現実だろうと、美香の瞳から輝く光は拓実のささくれた気持ち照らし出し、拓実のいらだちなど、すごく馬鹿らしく矮小なものだと気付かせてくれる。
「なあ、美香って就職とか考えてる。」
「やっぱ、この町を離れたくないから、公務員志望かなとか。」
「この町離れたくないって、それって無理してない。」
「無理してるって、どういう意味よ。」
「ううん、いいや」
美香はペンションのひとり娘だ。
落ち目の観光地のペンションを継ぐかどうかは別としても、他人を数多く雇えるような経営状況ではない以上、ご両親がペンションで生計を立て続ける限り美香はこの町に縛り付けられる。
そして美香との未来を考えれば、拓実もまたこの町をベースに人生を組み立てるしかないのだ。
それは「無理」ではなく「決断」であるはずだった。
しかし、冷静になって考えてみると気が付いてしまう。
この町に暮らしながら遠くの職場に通う父と、俺は同じ選択をしようとしているのではないかと。
明るい満月に照らしだされる砂浜に響く波の音は控えめで、近くのテントから聞こえてくる幼い子どもの声に押されてほとんど聞こえない。
「なぁ、俺のサッカー部の最後の試合の応援に来てくれた時さ、俺が試合に出ないって知ってたの。」
「そこは、あんまり深く考えてなかった。でもね別の部分では感心してたのよ。」
「何に?」
そう言って拓実が美香の顔を覗き込むと、美香は妙に固い顔をして海を見ていた。
「私ね、拓実にサッカー部は無理だと思ってた。ごめんね、とても3年まで続くと思っていなかった。すぐに辞めちゃうんじゃないかと、そう思ってたの。」
「ひどいなそれ」
「だって、幼稚園の時から、拓実が体育の時間に活躍したことなんてないでしょ。」
中々厳しい指摘だが、それは事実だった。
拓実が意地になってサッカーを続けたのには、そんな自分を変えたいという思いもあったのだ。
「だから拓実の引退試合って、何だか私も嬉しかったの。ちょっと恥ずかしかったけどね。」
「何だよ、親みたいなこと言わないでくれよ。」
美香は相変わらず、固い顔をして海を見ていた。
しばらくの沈黙の後に美香は拓実の方に顔を向けると、少し恥ずかしそうに言った。
「ねぇ、拓実は私をいつ頃から意識した?多分、中学に入ってからぐらいじゃない。」
「まぁ、アルバイトでお世話になったからね。」
「そうよね。でもね、私は小学校3年生の時からずっと拓実を見ていたの。」
その言葉に拓実は少し意表を突かれて目を見開いた。
確かに美香とは幼稚園の時からの付き合いだが、その頃は単なる数多いクラスメイトの1人だったはずだ。
だから共通の思い出はあっても、美香に対する特別な記憶は無いというのが拓実の本音だった。
「別に大した事じゃないのだけど、ほらこの辺って野良犬多かったでしょ。」
「ああ、昔は家から家に渡ってる飼い犬なんかも多かった。」
「私、実は犬が苦手でね、実は今もなんだけど。」
「へー、そうなんだ」
今ほど野犬なんてものに目くじらをたてなかった頃、町には野良犬が結構ウロウロしていた。
そして彼らは漁師さんたちのところに顔を出しては、食料にありつくのだ。
拓実に言わせれば、だからこそ野良犬たちは人懐っこい奴が多かったのだが、思い込みの激しい美香のことだから一方的に恐れているのだろう。
そんな拓実の憶測を意に帰さず、美香はつづけた。
「そうそう、それで小学校3年の時にね、私の家に向かう道に野良犬が寝ててね、
私が怖くて通れなくなって時にね、拓実が来て、
私の方をチラッと見ながら犬を連れて行ってくれたのよ。」
「ごめん、何も覚えていない。」
美香のその告白に、拓実は苦笑で返さずにはいられなかった。
美香はそれを責めることなく、笑った。
「だと思うよ。目が何が怖いのって語ってたし。」
そこまで言うと美香は拓実から視線を外して、落ち着かない風に身体をゆすった。
そして、ゆっくり、しかし投げ出すように言葉を続けた。
「でもね、私にとっては、その日から拓実は尊敬する男子だったのよ。
だから、いつも妙に意識してた。
拓実は国語と社会は得意、でも算数と体育は駄目なんてね。
だから内にアルバイトに来た時には本当にドキドキしちゃった。」
「ありがとう、嬉しいよ。」
拓実がそう言うと、美香は満足げに笑った。
やっぱり月明かりには魔法があるようで、そこに居る美香はとても美人に見えた。
それから暫くの間、拓実と美香は他愛もないおしゃべりをした。
小学校の家庭科で作った野菜炒めが異様に不味かったこと。
中学校の修学旅行で拓実が腹を壊して大変だったこと。
高校時代、美香が実は陸上部で活躍していたということ。
そして小学校の頃、美香のおかっぱ頭が似合ってなかった話を拓実がすると、
美香はふくれっ面で拓実の頭を叩いた。
やがて時計が23時を示すころには、テントから聞こえていた子どもの声も聞こえなくなり、穏やかな波の音だけが砂浜を包み込んでいた。
「お嬢様、取り合えずお送りいたしますよ。」
「それって、当たり前じゃない。」
美香の家に着くと、ペンションのオーナーである美香の父親が顔を出した。
「こんばんは。オーナー。」
「拓実、今週末は結構予約が入っているから、よろしくな。」
オーナーはそう言うと、まるで小学生の男の子にするように拓実の頭をごしごし撫でた。
この人もこの町で育った地元民であり、拓実のことを幼い頃から知っている大人のひとりだ。
更に拓実の父親と同世代のこの人は、拓実の父親と同級生ではないものの幼馴染だったりする。
この小さな町では当たり前の、しかし現代では少し珍しい話。
「ただいま。」
誰もいないはずの玄関を開くと、珍しく居間の明かりがついていた。
誰か起きているのかと中をのぞくと、こともあろうに父親がひとりで座って新聞を読んでいた。
「おお、拓実おかえり。」
また小言でも言われるのかと警戒する拓実を手招きすると、父親は嫌がる拓実を自分の向いに座らせた。
「お前に、ひとつだけ伝えておきたいことがあるんだ。
父さんは確かに疲れているし、それでお前らに迷惑をかけてるかもしれない。
しかし、俺は自分を不幸だと思ったことは一度もない。
家を守ってくれる母さんがいて、息子や娘に囲まれて暮らす人生は、本当に幸せだ。」
父親は気持ちよさげな顔でそう言うと、やがて少し恥ずかしそうに苦笑いした。
「いつまでも反抗期な息子には閉口気味だがな。さぁ、もう寝るよ。明日も早いからな。」
父親はそれだけ言うと、さっさと居間を出ていった。
居間にひとり残された拓実は、腕を組んで考え始める。
父が幸福なのはよくわかった。
別にそれに異存はない。
しかし俺には覚悟ができているのか。
この土地に縛られ生きて行くことを、その人生を幸福だと言い切る覚悟が。
拓実は少し唸って、そして考えるのを辞めた。
馬鹿な自分が何年も先の未来を考えるといつも不安になる。
取りあえず明日も頑張ろう。
拓実はそれで良いことにして席を立った。
「風呂に入って寝るか。」
気が付けば時計は明日を指しており、またひとつ今日が過ぎ去っていた。
蛍光灯を消してしまった居間に差し込む月の光は、優しく自分たちを照らしてくれると、拓実はそう信じていた。