徳川劇場:教えてクソ親父!三国志以降は異民族のせいで中国は悪くなった?史記と三国志に隠された真実
異民族視点の史記と三国志、のび太視点のジャイアニズム
徳川家康「前回に史記と三国志を語ったが!その話の中で出てくる異民族問題や、その後の中国が悪くなった原因は漢以降に詰まっているかのように語って終わっている。このことには実は物凄い矛盾と問題点が含まれている。それを今回は語っていこう!!言うならば外(蛮族)から見た史記と三国志である。外(蛮族)とはズバリ我々日本人のことである。(笑)」
信康「外(蛮族)は笑えるけど!それが真実だよな!!」
秀康「史記と三国志を読んでると漢民族視点になりがちだけど!実際には我々は史記と三国志で言うところの蛮族ですからね(笑)」
秀忠「日本も中国の影響を一番受けている国の一つなのに中国との違いが多いのは外(蛮族)だからだよな!」
家康「最初から結論を言うと!三国志では劉協、劉備、曹操、孫権の一族は敗北後も生存していたのに三国志以降は禅譲(権力を譲る)と一族郎党皆殺しだから酷過ぎる!!という意見がある。
確かに暴虐と言われている秦の始皇帝の時代ですら征服した国家の王族や臣下は殺されずに生かされていた。だから項羽や張良は勿論だが多くの王族が国家を一時的にだが再建している。続く漢王朝も例えば司馬氏や曹氏や夏侯氏などは生存していたので『一族郎党皆殺し』は無かったように見られがちである。
しかし、史記の時点で既に『一族郎党皆殺し』は既に存在しており、度々出ているし、史記の大スターである韓信の一族は一族郎党皆殺しである。呉楚七国の乱を起こした劉氏だって皆殺しされていたと考えて間違い無い、それだけでは無く、日本では考えられないが……『チンコ切ったら生かす』とかいう残酷な思考が存在しており、この被害者が史記の作者である司馬遷だったりするし、秦を滅ぼした張高や後漢の十常侍、蜀の黄皓などの宦官などは正にソレである。
このような残酷な思考が既に存在していた時点で良く考えれば随分とイカれた思考が史記と三国志からは読み取れるのである。」
信康「確かに……読んでる時は「ふーん、そういう制度があるんだ……」程度で済んでる話だけど深く考えるとクソだよな……」
秀康「支配者の『さじ加減』で変わり過ぎでしょ!」
秀忠「日本と比べると極端な思考が付いて回ってますよね」
家康「もちろん、日本にも『一族郎党皆殺し』は絶対に無いとは言い難い部分は存在している。しかしながら『三族皆殺し』まで来ると常軌を逸してる感が凄いと感じるし、日本での『一族郎党皆殺し』となると間違いなく教科書に載るレベルのエピソード扱いになるので(笑)倫理観は中国と日本では大分違うと言わざる負えない
外戚の問題は日本でも度々大きな問題として浮上しているものの……宦官の問題となると全く話が違うのである。
日本にはそもそも宦官などという制度は存在していない!
なぜならば、日本では『女性の世話は女性がする』という文化が根付いるし、何よりも最高神が女性なので(笑)伊勢神宮などでは『最高神の夫が最高神を世話する』というのが倫理観として定着しており、夫婦同士、身内同士、男性は男性、女性は女性という意識が日本という国は中国よりも強いと言えるのである。
日本は縦は縦、横は横という意識があり、縦は縦同士協力し、横は横同士で協力する文化がある。逆に言うと日本社会は『身内同士の争いを嫌う傾向が強い』のである。横並び社会とも言う」
信康「確かに……上には忠誠を!下には配慮を!身内には優しく!!が日本社会の基本だからな……」
秀康「ライバルという言葉もあるけど……上を軽んじたり、下を軽んじたり、身内を軽んじる人間は総じて嫌われる社会だからな……それがぬるま湯というか生き辛さの原因でもある。」
秀忠「日本社会独特の良さと悪さですね……」
家康「横並び意識が非常に強いのが日本という国の歴史そのものである。『平家物語』の冒頭部にある通りである。
『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
遠くの異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱忌、唐の禄山、これらは皆、旧主先皇の政にも従はず、楽しみを極め、諫めをも思ひ入れず、天下の乱れんことを悟らずして、民間の愁ふるところを知らざつしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。
近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、これらはおごれる心もたけきことも、皆とりどりにこそありしかども、間近くは六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人のありさま、伝え承るこそ、心も詞も及ばれね。』
要するに『テメェ一人の国じゃねぇんだぞ!』という主義主張が根幹に流れているのである。コレを日本という国は上から下から横までの全てに適用する国家なのである。まさに『和をもって尊しとなす』である。」
信康「まさに日本的世界観」
秀康「平家物語は日本の世界観を固定している。」
秀忠「日本版『史記』ですからね……」
家康「中国の話が日本の話になっているのは本来のタイトルの話とは離れているものの……日本版の史記というと「日本書記だろ!古事記だろ!!」という人がいるが……
日本書記や古事記は史記というよりも五経とか四書といった儒学の経典の方が相応しいと言えるのである。
日本書記と古事記の違いは何ですか?と聞かれたら最も重要な答えとして言わなければならないのは!日本書記は漢文で書かれているが古事記は日本語で書かれているということである。
(古事記の方が日本人が読むのを重視した作りとなっている。)
※漢文を日本語とした場合は両方とも日本語で書かれていると言える。しかし、両書の漢文は最初から大分違う形式をとって作られている点は重要である。序列は日本書記の方が上ということになっている。
日本書記が漢文で書かれているのは今日で言うところの英語で本を書くのと同じ理由である。もしくは文章形式が史記に習っているので
史記に対する敬意と『日本にも史記に匹敵するものがある!』という訴えを広く海外にするためという意味合いがある。
逆に古事記は日本語で書かれており、完全に身内に対する訴えを重視した作りとなってところが重要である両書共に神話を含んでおり、歴史書というよりは『建国神話』と『日本と言う国家の基本』を広く内外に教えるという意味合いが強いものとなっている。(ローマの建国神話や孔子の春秋と同じ目的が込められている)
中国と日本の違いは儒学に対する姿勢の違いでもある。日本は一にも二にも日本書記と古事記が頂点に君臨しており、これは聖徳太子の『十七条憲法』を日本の建国理念として重視する姿勢に現れている。
儒学は日本では参考にする程度であって『あくまで』海外から入ってきた思想の一つとして扱われており、それらを参考に元からある日本独自の政治思想と理念を海外に合わせるという特徴が出ている。まさに『和を以て貴しとなす』を地で行く作りとなっているのである。
中国の政治思想は史記の時点で既に儒学が頂点に君臨しつつあった時代だった。もっとも史記の時点では儒学に反発する心も司馬遷にはあったので史記は完全に儒学を重視する作りとはなっていない。しかし、後漢書や三国志といった書物は儒学が完全に浸透した作品となっている。
対する日本は三国志の頃は卑弥呼であった。聖徳太子の頃には『まだ日本書記は存在していない』という点は重要である。そして聖徳太子の時代は儒学が中国で最も弱くなり、衰退して仏教が国教として隋唐の時代は非常に強かった上に仏教は遠くチベットから東南アジアそして本場はインドというように脱中国的な宗教だった。(世界宗教)
またイスラム化する前のペルシャの文化が日本に入って来ており、ペルシャやローマのことまで日本人は知っているくらいになっていたのである。
そう考えると儒教の影響はデカいが儒教が絶対という意識は低かったのである。だから聖徳太子も仏教に熱心だった。(もっとも日本の仏教は中国仏教の影響が強いため間接的に儒教の影響が入っていたが)」
信康「史記と三国志を聖徳太子は知っていたと考えるのが妥当だよな!そう考えると聖徳太子は全て分かった上で語っている訳である。」
秀康「史記と三国志を読んだ上での感想が十七条憲法とかに加わっていると思うと日本人視点の史記と三国志の解釈は大分昔から『平家物語』寄りだったんだなぁ……と思わざる負えない」
秀忠「なるほど……日本人的解釈の史記と三国志というのは面白いですね」
家康「日本人は独裁という独断行動を嫌う傾向が強く、この傾向は天皇にまで求められている必須要件みたいな感じになっているが……そこには多分に史記と三国志に対する日本人的解釈が含まれているのである。
さらに言えば古代から中世の中国と日本の貿易は常に中国南方つまり長江流域との関りが中心になっていて日本は実は黄河流域とは関係が薄いという特徴があった。長江の次は渤海(今日の極東ロシア&中国東北部)との繋がりの方が強かったと言った方が良いレベルになるほどである。
長江流域つまり楚と呉の地域というのは中国の中でも地方勢力の力が強くて皇帝の権力が弱かったと言われており、孫呉を見ても何となく日本的な雰囲気が漂っているのが特徴だった。これは偶然では無さそうということなのである。」
信康「黄河の方が中国の中心的なイメージだけど!漢の劉邦はそもそも楚の人だし、項羽と韓信も楚の人だからな……そう考えると日本でも『漢と書いてオトコと読む』『漢の文字だから漢字』というのは心理的な繋がりを表しているとも言えるよな……」
秀康「黄河流域から日本に行くのって近そうに見えて実際は南方よりも遠いんだよな……」
秀忠「魏志倭人伝も、わざわざ章を割いて曹魏王朝が書いたのは「呉の方が近いのに遠い魏に来てくれてありがとう!」「呉より魏を選ぶなんて偉い!」という称賛を含んでますしね」
家康「儒学では最も最上位の徳は仁義ということになっているが……日本では最上位の徳は忠義ということになっている。この点は古くから指摘され、新渡戸稲造の『武士道』などでは強く主張されるほどにまで日本と中国の違いとして取り上げられている。
忠義視点で見た時の三国志というのも日本と中国の三国志への見方の違いとして大分表れているのである。もっとも最近は中国の方が日本的な三国志観の影響を受けている感が強いとも言えるところは逆輸入とも言えるだろう、特に呂布に対する感情的な見方に大きな差が昔はあったが……最近は本場中国でも呂布に対する感情的な見方が大分日本的になってきたりしている。
また共産主義の影響と毛沢東が儒教嫌いで『反儒教的な曹操を好む』という点も加わって中国の三国志観も大分昔と変わってきているのである。」
信康「何時から呂布が日本で人気になったのだろうか?」
秀康「蛮族である日本人から見ると漢人の中で暴れてる呂布がカッコいいのでは?」
秀忠「同情論的な見方がありますよね!それに呂布がいなければ董卓は死ななかったりと呂布も実は割とファインプレーしている感ありますし!!」
家康「史記と三国志を読んだ後に聖徳太子の十七条憲法とかを読むと「あれもしかして……」という風に思うのは決して間違いでは無い気がするのは気のせいでは無いと言わざる負えない
とは言え日本書記や古事記の頃と言うのは隋唐の時代である。皆が忘れてはならないのは隋唐特に唐と日本はガチンコ対決したという歴史的事実を思い出して欲しい
そう有名な白村江の戦いである。この白村江の戦いをした時というのは実は大化の改新の時の中大兄皇子こと天智天皇の時代でもある。つまり日本がガチで中国と戦争していた記憶が真新しい時代に日本は書いているのである。この天智天皇の弟が日本書記と古事記を作るように命令した天武天皇である。
だから日本書記と古事記などで直接的に中国と日本は違います、中国の失敗例を挙げて批判など出来ないという裏事情も隠されていたと考えた方が良い
実際『平家物語』の方がより直接的に中国の事情に触れて批判的な側面が除けるのは唐が滅んで分裂していて中国が脅威とは見なされていないからとも言えるのである。」
信康「平家物語が書かれた時は「中国(唐)ないなった!」という時代でもあるんだな(笑)」
秀康「解放された感もあった訳だな!」
秀忠「中国史と日本史を組み合わせて考えると『そうなるのか』という感じですね」
家康「ぶっちゃけ朝鮮やベトナムでも中華が分裂してモンゴルに侵略されている関係で「自分達の方が儒教の教えを守っている」的な風潮が強まったこともあって各国ともに中国から解き放たれて解放感に満ち溢れていた感が出ていた時代であった。
特に日本は日本史で起きた数々の事件と武士文化が花開いたことで一気に中国離れが進んだ関係で、というか首都が事実上鎌倉になったので大分中国本土から離れたこともあって中国のことを心配する必要が無くなったとも言えるのである。
もっとも後に元寇が襲い掛かってくるのと明帝国の爆誕と朝貢貿易の復活で第二次中国ブームが起きるものの……平家物語の頃というのは大分中国から離れている感が強いのでネガティブ中国が強調された冒頭になっているとも言えるのである。」
三兄弟「ネガティブ中国(笑)」
家康「日本書記と古事記が中国に配慮している感があるのは唐とガチ戦争した後に書かれたからと考えて見ると単に「中国を褒めている」とは言い難いのである。「中国を褒めざる負えない状況」にいたからとも言えるのである。
だから日本書記と古事記をもってして『日本が中国を好きだった』とは言えないという事情がある。
なにせ本気で中国が日本に攻めてくるのでは?と思って水城城を築いて九州に防衛軍を全国から徴兵して常備するほどビビッていた時代という背景が隠されており、これは万葉集で『防人の歌』という形でも表れているのである。
さてこのような思惑も加わって日本は中国文化を受信して享受していたという裏事情もあると考えれば日本人が考える史記と三国志は複雑だったと言わざる負えないのである。
だから異民族として史記と三国志を見た場合の結論として「三国志以降は異民族のせいで中国は悪くなった?」の答えは自ずと分かるのでは無いだろうか?」
日本から見た史記と三国志への答えは実は日本の歴史に沢山出てきている。




