徳川劇場:教えてクソ親父!戦国時代の人が愛した三国史とは?実は駄作だった三国志と世直し物語の三国志演義
長文乙
徳川家康「三国史というのは何時の時代の物語か知っているか?」
信康「唐突だな!そうだなぁ……『史記が漢の武帝の時代に至るまで』を書いた物語だとしたら『後漢書が武帝から後漢末期まで』で……『三国志は後漢末期から混乱期を書いた物語』というところか?」
秀康「史記の偉大さはサドの神が前の話で語っていたけど……史記は歴史に残る世界的な名文として名高くて『評価が高すぎるために他の見方を寄せ付けない』ほど『圧倒的な完成度で他の見方を駆逐するほど』である。それに対して後漢書の評価は難しい……三国志に至っては評価が分かられるよな!」
秀忠「史記に比べると全ての歴史書が紙くず同然みたいな評価にされるほど史記が圧倒的ポジションに存在してますからね……日本で言うなら『平家物語』と同様の存在と言えるのでは無いでしょうか?」
家康「ふむふむ、そうだな!史記は王道な上に劉邦という圧倒的な勝者が存在していて、その劉邦が最底辺の身分と老人の年齢からスタートして大成功したという事実、しかも項羽とか韓信といった大スターの存在もあるという一大巨編という凄さもあるだろう、それは間接的にというか直接的に『秦の始皇帝の凄さを体現』しており、それが史記の完成度となっている。
そして作者の司馬遷の人生も壮絶で、それらを知ると史記の偉大さは全ての方面から絶対的な支持を得ていると言える。日本に対する影響も絶大で『日本書記』『平家物語』『太平記』は間違いなく史記を模倣して作られており、さらに言うと現代の歴史小説は勿論ライトノベルまでが史記の影響を間接的に直接的に受けていると言えなくも無い(司馬遼太郎などは分かり易い例である)」
信康「凄いな!」
秀康「ビックリだ!」
秀忠「中国という枠組みを超えて圧倒的な存在として存在してますね」
家康「だからこそ!問題も多い!!」
三兄弟「???」
家康「史記の完成度の高さは既に当時の人達ですら理解していて苦悩する要因ともなった。後漢書が沢山の人達が書いたのに完成するのに長い年月を要したのは史記が偉大過ぎて後の世の人達が苦労した証である。史記では『始皇帝は暴虐であったが行いは未来を見据えており、それを取り入れて良い方向に持って行ったのが劉邦であり漢である』という大義名分がハッキリしており、『漢が誕生しなければ今の政治制度は無い!』ということを我々に教えてくれている。
これは単に中国に留まらず、中国の真似をして政治制度を整えた日本は勿論だが中国の官僚制度と法治主義はロシアや中東を通してローマ帝国にオリエント方式として伝わり、それが現代の政治思想や行政制度にまで発展したと考えると偉大さは全世界レベルである。
史記と言えば『孫氏の兵法』が広く世界のあらゆる戦争や分野に適用出来る偉大な物であるということを我々に教えたという側面もある。史記は単に『劉邦は偉大』というプロパガンダを我々に教えるだけの書物では無く、始皇帝以前の歴史を記述して『始皇帝は偉大』ということを伝えている点が重要である。その中の一つとして中国の政治思想の成立を教えており、その中に兵法も含まれている。その兵法家の一人として『孫氏の兵法』の元ネタである孫武が含まれている。」
信康「史記が偉大なのは分かったけど!史記の問題を語っているのに史記の偉大さを補強してるぞ!!」
秀康「偉大故に問題!」
秀忠「見方が固定されている」
家康「要は偉大であることが史記の最大の問題である。史記は偉大過ぎる故に史記の問題点を挙げると史記の凄さが際立つせいで益々史記の見方が圧倒的になるという負のスパイラルが存在している。また問題点を挙げて批判すると『重箱の隅を突く』ような感じになってイメージが悪くなるのも問題点だろう……
三国志の話なのに『何故史記の話になるのか』と言うと!史記が語っているのは『劉邦は偉大であり!漢は偉大過ぎて倒せない!!』ということを伝えるためのプロパガンダ作品だということである。史記は漢王朝のプロパガンダ作品として作られている作品である。この偉大な作品に『対抗するプロパガンダ作品』として作られたのが『三国志』である。
故に三国志を語る上で史記の話は語らずにはいられない話なのである。」
信康「なるほど!三国志は史記に対抗するプロパガンダ作品なのか!」
秀康「三国志は三国のどれかが勝者になった訳では無いからな!」
秀忠「よく曹操が勝者みたいに言われるけど三国志の文面的に言うと魏が勝者とは言えないしなぁ」
家康「三国志には大きく三つの問題がある!一つ目は『後漢末期はクソとしか言えない!』二つ目は『魏は三国志の勝者では無い!』三つ目は『三国志の勝者である晋王朝は正義とは言い難い上に短命で異民族の侵入を許すという中華歴代統一王朝でもクソ具合がダントツと言える』という問題である。
一つ目は三国志の意義に直結する問題と言える。後漢は前漢の間違いを改めた上で『前漢の武帝の最盛期を再び達成する』という偉業を成し遂げたという意味では非常に優秀な王朝であったが……幼い皇帝が続いた上に『外戚と宦官が互いに争った』お陰で『有能な臣下が潰されて排除された』結果として統治が荒れに荒れたのである。その不安定さと庶民の生活の悪化が邪教の横行を招いて邪教が強い勢力を持ったために黄巾の乱を引き起こしたのである。それが各地に群雄を割拠させる原因となった。
有能な臣下達は自分達が有能だと理解していた。例を挙げるのであれば袁紹や曹操である。特に袁紹は優秀で大将軍何進の腹心として黄巾の乱を鎮圧し、善政を敷いたために多くの人々から敬愛されるだけの徳を持っていた。しかし、袁紹は自らの有能さを過信し過ぎたせいで大将軍何進に『群雄を利用するべきだ!』と進言したせいで大将軍何進が暗殺されると群雄の一人である董卓に洛陽を抑えられてしまい、自ら天下を制御するチャンスを逃して一地方の支配者として甘んじなければならなくなったのである。
曹操は袁紹の間違いを正した数少ない賢者だったが……『袁紹の間違いを最大限生かし』て自ら群雄となり、群雄の誰よりも速く勢力を拡大した挙句に漢王朝を自ら傀儡として支配し、袁紹を倒して天下を牛耳るようになったのである。(治世の能臣、乱世の奸雄とは正にこのことである。『子治世之能臣亂世之奸雄』)
これらは漢王朝がクソだったから起きたことと言えば事実である。
しかし、話はそこで終わらなかった。
劉氏には劉協、劉備、劉禅、劉表、劉虞、劉焉、劉璋、劉繇、劉度など有能もしくは無能だが善良な持主が依然として存在していた。臣下レベルでも劉嘩や劉基などがいた。劉氏が無能になったせいで漢王朝の統治が悪くなったとは言えないということを証明するには十分な人材が劉氏にはいたのである。
だから曹操は赤壁で呉の孫権と劉備の連合軍に大敗して中華統一を成し遂げることが出来なかったのである。」
信康「群雄としての袁紹は語られるが……漢王朝の臣下としての袁紹を考えた場合、袁紹は群雄が割拠する口実を自ら与えてしまった張本人と言える存在なんだよなぁ……正史『三国志』において群雄達を将軍と称して敬う発言があるけど……その原因は袁紹が大将軍何進に「賊を討つために群雄に兵を集めさせましょう!」と進言したからなのだから……」
秀康「日本でも平安時代末期の源平合戦や応仁の乱さらには幕末の混乱も時の最高権力者が「兵を率いて都に集まれ!」と号令を発したからと考えれば三国志における乱世の始まりは正に袁紹の進言が原因と言えるな……」
秀忠「袁紹は曹操と争ったことばかり注目されるが!実際の彼の最大の問題点は国家の忠臣として漢王朝に仕えていたとは言えない不忠にあるよな……」
家康「袁紹や曹操が『優れた統治をして庶民に施しを与えて善政を敷いた』のは『国家の為では無く自分のためだった』のは疑いようが無いのである。
董卓は直接的過ぎた上に暴君ぶりが凄まじかったし、呂布は本心に忠実だっただけであって本質は袁紹も曹操も二人と変わらないのである。
だから司馬氏に曹魏王朝が乗っ取られたのは必然だった。
その点を考えると呉と蜀には大義があった。
呉の孫家は忠臣の孫堅が董卓を倒そうとして一人奮闘して遂には董卓を追い詰めて洛陽を陥落させる一歩手前まで董卓を追い詰めた。しかし袁紹と袁術の兄弟は『世の中が平和になってしまっては困る』と考えて孫堅を邪魔したので孫堅は度重なる妨害の末に命を落とすのである。その孫堅を始祖として父の大業(漢を助けて国を助ける)を叶えるために息子の孫策が江東を征して曹操に挑もうとするが……その最中に暗殺されてしまい大業を中断せざる負えなくなる。孫策の弟の孫権は若くして継いだので勢力を維持するのに必死で曹操を倒せずにいたところに劉備達が来たことで曹操を倒す機会を得たのである。孫権は父と兄の築いた勢力を守る共に父と兄が果たせなかった大業を果たそうと努力していたという点で善良だった。
『孫家も群雄の一人にしか過ぎない』と言う人もいるかも知れないが始祖の孫堅は董卓討伐戦に参加した群雄で唯一マトモに董卓と戦った群雄だった。それは曹操もそうだったが……曹操が他の群雄を出し抜けると判断した時しか董卓とマトモに戦わなかったのに対して孫堅は董卓討伐戦が始まると『他の群雄との駆け引きをせず』に『損得関係無し』に董卓と戦った点で曹操とは違っていた。
息子の孫策も江東での覇権を握るとすぐさま曹操との戦いを始めようとした。袁紹が有利になっても『後のことを考えて他勢力の利益を減らそうとする余りに機会を逃していた』のと対照的に孫策も父孫堅と同じく逆賊曹操打倒という目的しか考えていなかった。
もし孫策が暗殺されずに曹操を攻撃していたら曹操は袁紹と劉備そして孫策を相手にして中原で戦わなければならなくなったはずである。そうなれば曹操は倒されたし、袁紹が最大勢力となり、劉備が許昌(漢の都)を占拠する確率が高かったかも知れない。
そう考えると孫策は『父と同じで国を乱そうと考えながら行動していたとは言えない』と私は思うのである。」
信康「孫堅と孫策は愚直とも言えるよな……勝つことを重視していて『勝った後のことを考えては無かった』その点において言えば袁紹や曹操と比べると『乱世で得をしよう』という意識は低かったと言える。孫権の方も父と兄の築いたものを守る共に自分の率いている勢力の利益のために戦っていただけだし……」
秀康「劉備に荊州を横取りされたという意識があったせいで劉備を信用していなかったことと関羽に自分の娘との婚姻を断られたことが荊州での関羽との戦いをする原因だったと考えると理由も明確で『世の中を乱して得をする』という考え方で動いていたとは言えないよな……」
秀忠「劉備が信用出来無かったし、漢王朝復活は現実的に不可能だと言う意見が多くなっていった中で『如何に自分達が生き残るか!』を考えた上での行動だからな……悪とまでは言えないよな……」
家康「劉備達の大義は最も分かり易く難解なものである。分かり易さで言えば言うまでも無いが『既存の政府を支持して反政府活動を抑止する』という大義が劉備達の主張の根幹である。
この主張は世界的に見ても称賛に値するものである。劉備と似た理由で現代でも愛されている歴史的偉人としては例えばブリトンの王であるアーサー王を題材にした『アーサー王伝説』やイスラムのサラディン、ドイツのビスマルク、フランスのリシュリュー、ロシアのポチョムキン、日本で言うなら源義経、楠木正成、新田義貞、石川五右衛門、豊臣秀吉、赤穂浪士、新選組などが挙げられるだろう
まぁ私も天皇に忠実だったし、天下泰平の世を作ったのだから名前を挙げても良いとは思うがあえてここは謙虚さをみせたいと思って挙げなかった。」
信康「そのことを言ってしまった時点で台無しだ!」
秀康「我が家系は正直者が多いからな!」
秀忠「日本は天皇を廃して天上を支配しようとする賊が少なかったことは中国に誇って良いと思ぞ!」
家康「要するに劉備達は『平和を守ろうとして立ち上がっただけであって野心は無かったのである』というのが劉備達の大義であった。
しかし、これは非常に分かり易い見方でしかない!
より深くツッコミを入れると劉備達と同じ考え方でいた群雄は決して『最初から少なかった訳では無くて実は非常に多かった』のである。
それに先に述べたように劉氏には劉備達よりも最初から強大な力を持っていた劉氏が存在していた。『献帝(劉協)は最初から何も力が無かったように思われがちだが!』実際は付き従っている家臣達は非常に多くて付き従っている家臣達には相応の財産と兵士が存在していた。董卓は献帝を操り人形にしていたが、それは劉協が幼かったからである。董卓の後に劉協を操り人形にしていた李傕と郭汜は成長した劉協に長安から脱出されてしまっている。その脱出の時には大勢の劉協の臣下達が大勢の兵隊を率いて劉協を護衛していたのである。だから李傕と郭汜は劉協を連れ戻すことに失敗したのである。
そのことを考えるに劉協が曹操では無くて袁紹に保護されていたのであれば何れは劉協が袁紹を降す未来もあったかも知れない程度には劉協は優秀だったのである。
しかし、曹操は李傕と郭汜の失敗を見ていて二人の失敗を教訓に劉協の臣下の弱体化と監視を徹底して行ったので『劉協が曹操を降そうとしたら見事に失敗して返り討ちにされ』てしまったのである。これは正史で記録されており、『劉協の皇后は尽く曹操に殺されて劉協の臣下も尽く殺されている。』そして曹操の娘が劉協に嫁いで皇后になったのである。このことは劉備が蜀漢を建国した時にも自らの大義名分として高らかに宣言しているのである。だから真実なのである。
また劉氏には劉表・劉虞・劉焉などの高位の皇族が存在していて彼らは当初極めて強い力を持っていた。特に劉表は評判が良くて孫堅を返り討ちにしたり、現在の襄陽市という大都市を最初に築いた偉人でもある。それほどの凄い人間が劉氏にはいたのである。
しかし、劉備を除いて劉氏の有力者で積極的に献帝つまり劉協を助けて漢王朝を復活させようとする劉氏は皮肉にも三国志のなかには存在しなかった。
だから曹操につまり曹氏に漢王朝は禅譲(帝位の譲渡)をしなければならなくなったのである。
そう考えると『天命は尽きた!』と言えなくも無いのだが……
ここで問題となるのが『赤壁の戦い』と『定軍山の戦い』である。
この二つの戦いで明確に曹操は敗北しており、曹操が劉氏を完璧に降すことは出来ずに中華の半分も支配できずに終わったという事実は『曹操の天命が劉氏に及ばなかった』という真実を後世の人々に根付かせる要因になったし、実際に曹操は『帝位に就くことが出来なかった』上に『無理に息子曹丕が帝位を奪った』せいで『中華に皇帝が三人も並列する』羽目になった上に『司馬氏に帝位を譲る羽目になった』のである。」
信康「曹操は赤壁で負けるまでにも負けることはあったのに……赤壁での戦いでの敗北が余程トラウマになったのか赤壁以前のような英雄としての曹操とは比べ物にならないほど暗愚と化していったからな……」
秀康「漢中を曹操は劉備よりも先に手に入れたのに蜀の地に攻め入らずに守備隊を置くだけで撤退してしまったことは史家から批判されてる。曹操は自分が生きている内に決着を着けずに息子に任せようとしたが……俺が思うに蜀と呉を相手に両方を滅ぼすのに使えた時間は赤壁の戦い(208年)から220年に死ぬまでの十二年も曹操にはあった。息子の曹丕は曹操が死んでから六年後に死ぬので(笑)実は息子の倍も曹操には蜀と呉を滅ぼす時間があったという事実は笑える」
秀忠「父上は私に将軍位を譲りながらも豊臣家だけは『自分が生きてるうちに滅ぼす!』と覚悟を決めて滅ぼしましたからね……その点曹操は父上に劣っているとしか言えないでしょう」
家康「三国志は勝者のいない物語なのだ。三国志に勝者がいたのであれば三国志の作者の陳寿は魏の曹操や曹丕を褒め讃えたはずである。実際に正史三国志には曹操は勿論だが息子の曹丕を讃える文章が載せられていないのである。(有名な議論として陳寿は曹操が魏王になったことを書く時に『曹操が魏王になった』とだけ書いていたことである。対して劉備が漢中王になった時は劉備方の大義名分を長々と書いている)
逆に劉備を讃える文章は満載である。特に有名なのが劉備が蜀漢を建国して魏を逆賊だと糾弾した有名な告発文を全文転載していることは正史三国志が既に『曹操に大義無し』だと宣言しているのと同じことなのである。ダメ押しとばかりに劉備亡き後は諸葛亮を讃える文章をふんだんに載せていることである。
勿論、正史は歴史的に見て例外的に曹操を褒めたたえていた稀有な歴史書である。
というのも陳寿の三国志では正当な王朝は魏であると書かれており、曹操陣営を正当な皇帝と表記していて劉備陣営を先主と表記していたからである。しかしながら正史が曹操陣営の大義名分を載せずに劉備陣営の大義名分を全文載せたことは後に蜀漢正当論を中華ならず全世界に発信させる根拠となり、遂には『劉備が勝って曹操が負けたのが真実』と堂々と主張する創作物まで登場するまでになってしまったのである。それは最終的に否定はされるが……現在も含めて正史の時代が最も曹操を讃えていた時代だったと言われるほど曹操の評価は最初から低いモノだった。
ここまで扱いに差が正史の段階で生じてしまっていたのも驚愕である。」
※蜀漢建国文の全文
『建安二十六年、四月六日、皇帝劉備はあえて玄牝を用い、天帝と神祇にご報告します。漢は天下を所有し、その歴数に限りがありません。先に王莽が帝位を盗みましたが、光武帝は怒りに震えて誅伐を加え、国家の系譜が復活しました。曹操は兵を用いて残忍なふるまいをし、皇后を殺害し、国家の秩序を乱し、天が示す道をかえりみませんでした。曹操の子、曹丕は凶悪な逆心を抱き、神器を盗みました。群臣や将士たちは、国家が地に落ち、破棄されたからには、私がこれを修復し、二祖(劉邦と光武帝)の武威を継ぎ、天罰を下すべきだと述べました。
私にはこれを成すだけの徳はなく、帝位を汚すことを恐れました。このため、民に相談し、外は蛮夷の首長たちにも話を聞きました。するとみなが『天命にはこたえるべきです。祖先から受け継いだ事業を、久しく放り出してはいけません。国には主が必要です』と答えました。全土の望みは、私一人が背負っています。私は明らかなる天命を畏れ、また、漢の天下が滅びようとしていることを懼れ、謹んでよき日を選び、百人の官僚達と壇に登り、皇帝の印璽と綬を受けました。
神々を祀る儀式を執り行ったことを、天神にご報告させていただきます。神々よ、漢家の帝位をお守りください。そして国中に、永く安寧をもたらしてください』
信康「その後の歴史を考えても曹操の行いは正しかったとは言い難いよな……」
秀康「日本には天皇がいるので口が裂けても曹操が正しかったとは言えないしな……」
秀忠「忠義こそが武士道と言えますしね……」
家康「陳寿は蜀漢の人で蜀漢が滅ぶと曹操の魏が滅亡したのを見た上で司馬炎の晋王朝に仕えた。その晋王朝の元で正史三国志を書いたのである。その陳寿が死ぬ前に司馬炎が死んで晋王朝を滅ぼす八王の乱が勃発したのである。陳寿は八王の乱の最中に死んでいる。
この八王の乱で司馬懿の一族が作った晋王朝は弱体化し、曹操・劉備・孫権が勝っていた異民族に攻めらて滅んだのである。その異民族匈奴はかつて高祖劉邦の時代に劉氏と血縁があったとして自分達は劉氏の末裔だと主張して前趙を建国して晋王朝を滅ぼしたのである。
それでも晋王朝は滅ばずに司馬氏の子孫が昔呉と蜀漢の領地だった地域で再び晋を復活させるのだが
臣下の劉裕と名乗る人物に禅譲を要求されて滅ぼされてしまうのである。
司馬氏の作った王朝は劉氏の子孫かどうか怪しいものの劉氏を名乗る者達に相次いで滅ぼされる羽目になったのである。
三国時代は日本では卑弥呼の時代に当たるが……晋王朝が中華統一を喪失してから隋唐に再統一されるまでの間に日本は聖徳太子の時代になっていた。その隋唐も実は鮮卑族の一族だったと言われており、この鮮卑族は蜀漢の諸葛亮や姜維の味方として魏と戦った子孫であったとも言われており、散々な評価を曹操と司馬懿の一族が後世から貰う原因となったのである。」
信康「三国時代から隋唐までの間に日本は随分進化したことになるな!」
秀康「聖徳太子が生まれたのは574年だからな……八王の乱が291年だとしても300年近い間も分裂状態だったことになるな……」(隋による南北統一は589年)
秀忠「我々が考えているよりも深刻な問題を三国志は含んでいるのですね……」
家康「さらに言うと唐は統一王朝として素晴らしかったが、その唐も三百年余りで滅んでしまうのである。その後、宋が再び再統一を成し遂げるのだが……その宋も晋王朝と似た形で魏の領域を失い……蜀漢と呉の地域に押し込められたのである。そのこともあって三国志の人気は益々高まり、南宋の時代に『三国志演義』が登場したのである。
この三国志演義は正に蜀漢正義論に基づいて作られた創作物であった。この三国志演義の登場で完全に曹操と司馬懿は悪者としての地位が固定され、以後現代に至るまで三国志の見方は固定されたのである。
三国志演義が問い、そして伝えたかったことは『世の中を正して中華を再び再統一するべきだ!』だったが……残念ながら南宋が再び中華を再統一することは無かった。
なぜならばチンギス・ハーン率いるモンゴル帝国が登場して宋を南に追いやった国家を滅ぼして南宋に攻め込んできたからである。この侵略に南宋は何度も抵抗してモンゴル軍を返り討ちにしたがチンギス・ハーンの子孫であるフビライ・ハーンに滅ぼされてしまったのである。」
信康「もうお腹一杯だな……」
秀康「曹操と司馬懿のライフはゼロ!死体撃ち良くない……」
秀忠「三国志の問題はそのまま中華の歴史そのものだな……」
家康「このモンゴルを滅ぼしたのが漢民族の出身で貧困階級出身の洪武帝だった。その洪武帝が建てた王朝が明帝国である。
そう豊臣秀吉が戦った明帝国のことなのだ!
ここで話が戦国時代まで到達したことになる。その明は一説には秀吉との戦争で疲弊したことが原因の一つとなったと言われて後に満州族の国家だった後金に滅ぼされ、その後金が清王朝と名前を変えて中華を支配したのである。
ここまでが江戸時代初期となる。
三国志の筆者の陳寿は『三国の志を受け継いだ上位交換が晋王朝だ!』と高らかに宣言したかったのかも知れないが皮肉にも後世の人々は晋王朝が三国の上位交換だとは到底思えない時代を経験したので三国志に対する見方を変え、その究極の姿が三国志演義になったのである。
演義とは『正義を広げる』という意味が込められており、正に後世の人々の悲痛な訴えがタイトルに込められているのである。」
三国志の見方の変遷を考えると中国の歴史が如何に三国志を参考にしているかが分かると共にこの時の問題が現代までつづいていることが分かる。




