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徳川劇場:教えてクソ親父!桶狭間の戦い~戦況が敵に有利なったからといって逆転出来ない訳ではない~ 後半

桶狭間はいろいろな意味で興味深い戦いだと思います。


家康先生「鷲津砦と丸根砦だが丸根よりも鷲津砦の方が大きかった。敵は明らかに丸根の方を集中攻撃してくるのが丸わかりだった。砦同士が近いので片方を先に落として、もう片方に合流するのが攻撃側としては当然の戦略となるからである。ということはつまり、防衛側にとって丸根砦の方が難易度は低かったと言うことになる。何故ならば丸根砦の方はヒタスラ敵の攻撃を耐えていれば良かったからだ。逆に鷲津砦の方は難易度が高かった。守るのが簡単だが……丸根砦が落ちれば守備兵の士気が下がるし、せっかく分散した敵が合流して強くなってしまうからである。ということは丸根砦を守るためにも時には砦から『打って出るくらいの積極性』が求められていた。(丸根砦を守れないのであれば丸根砦を作って部隊を配置するだけ無駄と言うことになってしまう。)


 そう考えれば本来、織田家の重臣家系で家中随一の武闘派である佐久間盛重が鷲津砦に配置されるべきだった。盛重は信行方の柴田勝家や林秀貞と稲生の戦いを行った際には名塚砦を堅持したという実績もあった。しかも敵将を返り討ちにしたほど強かった。それなのに丸根砦に配置されたのは織田一門の織田秀敏に配慮し過ぎたためかもしれない。


まぁ分かると思うが!今川方の両砦への攻撃は丸根砦への集中攻撃からの丸根砦を落とした勢いでの鷲津砦攻略だったと思われる。実際に佐久間盛重・織田秀敏・飯尾定宗は死んだが定宗の息子尚清は敗走して生き延びている。攻略順は鷲津→丸根だったのである。(信長公記の桶狭間の前の鳴海城包囲の項目で飯尾定宗父子が鷲津砦に配置されたと書かれている。)」


信康「政治的判断が敗北を呼ぶこともあるからな……」


秀康「飯尾て尾張にもいたんだな……遠江の一族と同族だと言われている。」


秀忠「織田秀敏、実は信長派だった数少ない親族だったりする。子孫も続いてるし、彼が無能だったというよりは……」


家康先生「桶狭間だが……良く周辺を見てみると沼地の跡と思われる貯水池が周囲に複数残されている。東海道は不自然に内陸側だが……これには明確な理由があったと思われる。海側は潮の満ち引きが激しかったし、昔はダムが無いので河川の幅も勢いも洪水の危険度も段違いだった。つまり下流に行くほど危険だった。桶狭間を避けるように曲がってるのも、桶狭間が通るのに危険な場所だったということを表している。これらの事実から考えても桶狭間は交通に適した場所では無かったと考えられる。


 そういう意味では東海道沿いの桶狭間本陣跡は実際に義元が使っていた場所の可能性が高いと言える。ただ、そうなってくると逆に、ここが桶狭間の主戦場だという可能性は極端に低くなる。何故なら義元本隊の先発隊(瀬名氏俊)は大高城に到着しており、難を逃れているからである。(つまり義元本隊は移動していた。)そもそも東海道からノコノコ接近してきていたら気付かないはずが無いし、信長公記では北西に向けて布陣していたので山側は警戒されていた。


桶狭間本陣跡から大高城までは約4㎞しか無い、信長がいた善照寺砦から桶狭間本陣跡までは約3.2㎞である。信長公記では信長が出撃してから義元本隊に攻撃を仕掛けるまでに二時間ほどかかっているので、一時間に1㎞しか進んでなくても半分は踏破していたことになる。この辺の検証を歴史関連の本で見たことが余り無いというか無い(笑)『奇襲か奇襲じゃないか!』とか『兵数は幾つなのか?』ばかり検証している。いつ誰が勝手に信長公記の記述を無視したのか知らないが……沢山出典を書いてる癖に似通った内容しか書けなかったりと本当に全ての本を読んでいるのか疑問で仕方がない。」(そもそも似通ってる程度の本を沢山書き連なったからといって何の意味があるというのか?)


信康「出典て本来は『他人の考え方』に敬意を表する為に書くものだよね?「これだけの人間が同じこと言ってるんだ!!」という数の暴力で真実を叩き潰すためのものではないはずなんだが……」


秀康「科学の論文に『わざわざ』重力という単語を論文に使うためにニュートンの著作を書く人はいないと思うんだ(笑)出典を書くなら一冊一冊どこを引用したのか教えて欲しいものである。そうすれば出典の本の数は劇的に減りそう!(笑)」


秀忠「資料第一主義なら!信長と書くたびに注釈で(信長は信長公記に登場するので実在する!)て書いて欲しいよな!!そんな馬鹿な話無いけど(笑)でも劉邦や項羽の存在は史記や漢史が存在するから実在が分かってるんでしょ?殷王朝は昔は孔子が書き残していてくれたから存在があることが分かっていたし、だからこそ遺跡を見つけられたのである。西洋史ならトロイア遺跡なんて発見される前は架空の伝説扱いだったし、日本史だって日本書紀や古事記が無かったら……そう考えたら敬意を表するべきだよな!」


家康先生「信長公記を前の続きから見ていこう、『信長が善照寺まで来たのを知って、佐々正次・千秋季忠の二将が兵二百ほどを率いて今川勢に向かい、勇躍して突き進んだところ、敵方からもどっと攻め掛かってきて、槍の下で千秋季忠・佐々正次をはじめとして五十騎ほどが討ち死にした。これを見て義元は、「義元の矛先には天魔・鬼神もかなうものか。よい心持だ。」と喜んで、悠々と謡をうたい、陣を据えていた。』


 高徳院には昭和初期には大量の甲冑が保管されていた。これらは周辺から出土したものだが……これをもって、この場所を桶狭間の主戦場とするのは難しい、佐々正次・千秋季忠の二将が兵二百で今川本隊と戦った場所が、この場所だった可能性が高いからである。残念なのは、この大量の甲冑が写真は現存しているが実物は現在は存在しないことである。もし現存していたのであれば数と、どの陣営の、どの身分の人間の甲冑か確認することが出来たかもしれない。


また、この襲撃時は正面から迎え撃っているので義元陣営は油断していなかったことが分かる。」


信康「最近まで甲冑が現存してたというのは驚きだな……」


秀康「細かく調べれば桶狭間の物なのか、それ以前か以後かも調べることが出来たかもしれないな!」


秀忠「佐々正次・千秋季忠の二将は何で義元本隊に戦いを挑んだんだ?」


家康先生「確かに疑問である。信長公記から二人の将の思惑は読み取れないと言いたいところであるが……良く考えてみれば分かることがある。そもそも桶狭間の戦いは『義元の首を最初から信長が狙っていた!』という結論にばかり焦点がいきがちだが……実際は『前半』で語ったように『ワシの方面に来る』気配が濃厚だった。佐々正次・千秋季忠の二将は信長が鷲津・丸根で戦っている間、義元の軍勢を『けん制し足止め』するための部隊だったと思われる。


その部隊が信長が善照寺砦に来たと聞いて義元本隊に突撃したのは義元本隊を誘き出すための作戦だった可能性がある。しかし、義元は佐々正次・千秋季忠の二将の策略を見抜いて二人が『退却を号令する前』に積極的に攻撃して両将を討ち取ってしまったのである。だから義元は勝ち誇って見せたと考えると分かり易くなる。」


信康「最初から結論を元に考えてる歴史本多いよな!歴史に『もしも』は無い!とかカッコつけてる奴らがいるが……西洋史の研究者は『もしも』の部分に自説をねじ込むことが多いのとは違い、事実そのものを変えたがる奴が日本史は多いからな……」


秀康「そこが面倒くさいよな!何時から事実が資料とは違うモノに変更されたのか調べるのに難儀する。だいたい多くが大分前の学者に勝手に決めらたことを繰り返しているだけだし、中には今となっては否定されつつあるものも堂々と主張してたりするからな……」


秀忠「西洋史は事実の部分を変える人て少ないよな!ほぼ例外なく同じ場所は同じ内容で書くことが多い、見方を変えたり、視点を切り替えながら時系列を臨場感溢れる感じで話を進めたりすることは良くあると思うけど……日本史関連の本は見方も視点も同じで全て事実であるかのように書く本が主流だから困りものなんだよな……」(相手のボロは批判するが自説のボロは隠す場合も多い)


家康先生「信長公記を見て以降、『信長は戦況を見て、中島へ移動しようとしたところ、「中島への道は両側が深田で、足を踏み込めば動きが取れず、一騎ずつ縦隊で進みしかありません。軍勢少数であることを、敵方にはっきりと見られてしまいます。もってのほかでございます」と、家老衆が信長の馬の轡に取りついて、口々に言った、しかし信長は、これを振り切って中島へ移動した。この時、信長勢は二千にも満たない兵数であったという。』


 この文章、本当は取り上げるつもりは無かった。何故ならこの話、次の行の文章でも家老衆が『すがりつく』ことが『書かれているからである。深田とか縦隊で進むというのも後の文章からでも読み取れる程度の話である。なのに何故取り上げたかと言うと……だからこそ不思議に思ったのである!『何故太田牛一は別に必要ない話を強調して書いているのか?』という疑問が私の中で生まれたからだ。


 そこで一つ大きな疑問点が文章中にあることに気づいた。善照寺砦から中島砦までは直線で600mも無い、途中川があるものの義元本隊が中島に到着する前には中島砦に入るには十分な余裕があった。また、この時点で信長本隊が大軍では無いことは恐らく義元は把握していたものと考えられる。


 なのに何故『家老達』は信長の中島砦に向かうのを阻止しようと必死だったのか?という問題である。

良く考えてみれば両端が深田で縦隊でしか戦えないのであれば、兵力が少なくても陣形さえ整っていれば大勢と戦うのに有利である。これは『テルモピュライの戦い』でも証明されていることだ。つまり、信長軍が少数であるならば、狭い道の場所に陣取った方が有利だった。


つまりである、『家老達』は信長を心配して信長が中島砦に行くのを止めていた訳ではない可能性が高いということになる。さらに言えば、信長が二千しかいないと確実に義元が知って『自分の方が大勢』であるのであれば中島砦に攻めてくる可能性も高かった。それは逆に言うと『攻めてこないのであれば義元本隊の数は実は少数』だということの証明になるのではないだろうか?」


信康「誰が裏切っていたとは書けないから匂わせている訳だな……というか牛一は信長から直接桶狭間の話を聞いているのに『信長から聞いた』とは書かない所が面白いよな!」


秀康「そうか……不利な戦況だが、あえて自ら軍勢を晒して移動して見せることで相手の出方を探るという戦略をした可能性もあるわけだな!」


秀忠「清州城での家老達との会議もそうだが……信長を貶めているように見えて実際は『信長が正しい』ということが確定した未来に書いているわけだから、『家老達』の意見は『絶対に間違っている』が成り立つわけである。信長嫌いの連中は『信長は常識外れ』を強調するために『家老達』は常識人だと思い込んでいるようだが……家老達の意見の方が明らかに『非常識』だよな!」


家康先生「信長公記の続きを見ていこう、『中島から将兵を出撃させた。この時は無理にすがりついて、信長自身の出撃を止めたのだが、ここで、信長は言った。


「皆、よく聞けよ、今川の兵は、宵に腹ごしらえして夜どおし行軍し、大高へ兵糧を運び入れ、鷲津・丸根に手をやき、辛労して疲れている者どもだ、こっちは新手の兵である。しかも、『少数の兵だからといって多数の敵を恐れるな、勝敗の運は大いにある』ということを知らぬか。敵が掛かってきたら引け、敵が引いたら追うのだ。何としても敵を練り倒し、追い崩す。敵の武器など分捕るな。捨てておけ。合戦に勝ちさえすれば、この場に参加した者は家の名誉、末代までの高名であるぞ、ひたすら励め」』


この文章には、先ほど述べた通り、『家老達』が必死に信長に抗議して兵士たちの士気を下げようと努力している中で!信長が兵士達を鼓舞しようと大演説した内容が書かれている。その内容は後の『長篠の戦い』に通じる織田信長の戦術の中核をなす『敵が掛かってきたら引け、敵が引いたら追うのだ。』という文言が入っていた。まさに、これは信長の戦いのスローガンそのものであった。


『敵の武器など分捕るな。捨てておけ。合戦に勝ちさえすれば』という部分も興味深い、当時は合戦は命がけの戦いである以上に稼ぎ時でもあった。少しでも『自分の取り分』を増やすために敵の装備品などを奪う者も多かった。そうしたことに対して信長は『我欲を捨てろ!』と言っているのである。『合戦に勝ちさえすれば!』この場に参加した者は家の名誉、末代までの高名であるぞ!つまり、参加しさえするだけで皆が英雄だぞ!!と鼓舞したのである。信長は『Z旗』(皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ)のような高揚感を全ての兵士に与えたのである。


これこそ信長!全ては、ここから始まったのである!!」


信康「家老達て信長を引き立てるために牛一が登場させたモブという感じがするな!」


秀康「桶狭間で長篠の戦いのスローガンを見るというのも面白いな!」


秀忠「この場に参加した者は家の名誉、末代までの高名であるぞ!て、まさにソレと言う感じだな!」


家康先生「信長公記の続き、『こう言っているところへ、前田利家、毛利長秀、毛利十郎・木下嘉俊・中川金右衛門・佐久間弥太郎・森小介・安食弥太郎・魚住隼人、これらの者が手に手に敵の首を取って、持ってきた。これらの者にも。右の趣旨をいちいち言い聞かせた。』


とあるが、これは、かなりタイミングが良いところで来たものである。犬と言われた天下無双の前田利家を含む手勢が今川方の首を持ってきてくれたのだから兵の士気が上がらない訳が無い。さらにダメ押しとばかりに信長は自らのスローガンを皆に聞こえるようにしながら彼らに話したのであれば(笑)いまだに信長のスローガンが頭に入ってない連中に言い聞かせるのに役に立ったといえるだろう。」


信康「確かに(笑)タイミング良すぎるから実は仕込みだったりしてな!まぁ仕込んでいるほど余裕があったとは思えないので……まさに天運が味方していたのかもしれない。」


秀康「いちいち言い聞かせた。なんて書いてあるんだから笑える。しかし、言い聞かせなければならないほど重要な事だったのだろう。」


秀忠「何度も何度も繰り返すことで自らのスローガンを皆に広げたんだろう。」


家康先生「信長公記の続き、『山ぎわまで軍勢を寄せた時、激しいいわか雨が石か水をなげうつように降りだした。』とある。これは信長軍が義元本陣に迫ると降ったようである。雨といっても大分強い雨であったようだ。


『空が晴れたのを見て、信長は槍をおっ取り、大音響を上げて「それ、掛かれ、掛かれ」と叫ぶ、黒煙を立てて打ち掛かるのを見て、敵は水を撒くように後ろへどっと崩れた。弓、槍・鉄砲・幟・差し物、算を乱すとはこのことか。義元の朱塗りの輿さえ打ち捨てて、崩れ逃げた。


「義元の旗本はあれだ。あれに掛かれ」と信長の下知が、未の刻、東へ向かって攻めかかる、敵は、初めは三、百騎ばかりが丸くなって、義元を囲んで退いたが、二、三度、四度、五度と退き返し、打ち合い切り合ううちに、次第次第に人数が減り、ついには五十騎ほどになった。』


黒煙を立ててというところを見ると、黒煙を立てているのは鉄砲だと思われる。つまり信長軍の最初の攻撃は鉄砲隊による一斉射撃だったということになる。突然の攻撃に今川軍は大混乱してしまう。義元軍が不甲斐無いように見えるが実際は奇襲された時の初動を書いているにしか過ぎない。信長が義元の旗本を見つけて攻め立てようとする時には今川勢の精鋭は既に義元を逃がそうと東へ移動していた。今川勢も素早く態勢を立て直そうとしていたということでは無いかと思うのである。


ここで注目してほしいのは!信長軍が東へ攻め立てたことである。つまり今川勢は東に逃げたのである。もし東海道沿いにいたのであれば、東ではなく南に逃げるのが正しい動きだと思われる。高徳院から近くの沓掛城までは直線で約4㎞だが……現代の整備された道を自動車で移動したとしても最短で5.1㎞もかかる距離である。対する東海道は当時も整備されていて南下すれば直ぐに今川の勢力圏に入ることが出来た。さすがの信長も義元に東海道を使われて全速力で南下されたら追いつくことはできないと思われる。


実際に今川勢は義元を逃がすために『三方ヶ原の戦い』や『島津の退き口』と同じ手法で部下が主君を逃がすために途中で引き返して足止めする戦術を駆使していた。義元はよく肥満体型のデブとして描かれることが多いが……実際は痩せており、動きが俊敏で力が強く、剣の達人で馬術にも精通していたので簡単には倒せない相手であった。」


信康「そうだな!今川義元は名将と誉れ高く、武田信玄、上杉謙信、北条氏康などを手玉に取ったほどの戦国屈指の名君だからな……弱いということは絶対に無い。」


秀康「実は今川家は元々足利家の中でも戦闘向きの一族、義元の息子の氏真は実は剣術の達人だったことが分かっている。戦国乱世になって多くの足利一門が没落する中で信長に敗れるまでは衰退するどころか勢力拡大が止まらなかったほどの実力を有していた。」


秀忠「桶狭間の戦いの後、撤退する今川軍が織田軍の城を次々と落として暴れまわったという記述が残されている。義元が死ななければ織田信長の天下統一は苦しいものになっていたのは確実だった。」


家康先生「義元の最後を見ていこう、『信長も馬を下り、若武者どもと先を争うように、突き伏せ、突き倒す。頭に血がのぼった若武者ども、乱れ掛かって鎬を削り、鍔を割り、火花を散らし、火焔を降らす。乱戦だが、敵味方の区別は、旗差し物の色で知れた。ここで、信長のお馬廻り・お小姓衆の歴々、負傷・討ち死にした者、数も知れない。』


これを見ると信長も乱戦の中に自ら突入して戦っていたようである。馬を下りというところは注目に値する。もし、義元が整備された道を進んで逃げていたのであれば馬を下りる余裕は信長側に生まれるはずが無い!つまり、今川勢は整備された道ではない所を逃げなければならなくなっていたということである。


『服部晴安は義元に打ちかかり、膝口を切られて倒れ伏す。毛利良勝は、義元の切り伏せて首を取った。』


これは義元の死を描写しているが!この描写には義元の抵抗が凄まじかったことが伺える。服部晴安は義元に戦いを挑んで義元に返り討ちにされ、毛利良勝は義元を倒したものの指を噛み千切られたといわれている。義元が何人も切り伏せた上での最後であった。


『今川勢は運が尽きた証拠だろうか。桶狭間というところは狭く入り組んで、深田に足をとられ、草木が高く・低く茂り、この上もない難所であった。』


やはり、この記述から見ても!桶狭間は東海道沿いが主戦場では無かったことが伺える。今川勢が相当な距離を逃避した可能性を考慮した場合、やはり大高城まで2㎞は進んだところで織田軍と接敵したと考えたほうがよさそうである。そこは丁度、大高緑地の傍になので現代でも少しだけ難所の雰囲気が残されている場所になる。ちなみに現代でも残り2㎞進むためには大きな池が正面に控えていて、緑地との間が300mも無い所か、池と池の間が約500mの場所を通るかの二択になっており、かなり狭い難所となっている。」


信康「桶狭間を横切って大高城に行こうとすると様々な障害物に突き当たることが分かるな!」


秀康「乱戦だったから信長の方が先に倒される可能性もあったよな!」


秀忠「今川勢は義元が死んだ後も戦っていたみたいなので義元が死ななければ織田軍が負けていた可能性も高かったように思える。」


家康先生「桶狭間の戦いは偶発的に起きたものであった。元々の信長のプランは東海道方面から上がってくる敵を佐々正次の軍勢に足止めさせつつ自らは大高城方面に攻めてきた敵を迎撃する作戦だったのかもしれない。対する義元陣営は『義元本隊』を囮にして、大高城方面に主力を投入したものと考えられる。これは幾つかの事実で判明する。まず一つ目として大高城方面にはワシを含む『今回の尾張侵攻』で一番利益を得られる三河勢が含まれた。さらには朝比奈氏を始めとした駿河勢の主力部隊が加わっていたことからも読み取れる。対する義元本隊は血縁関係を持っているものの今回の遠征で一番利益が入り難い遠江勢が主力であった。数こそいたが……一番士気が低い軍勢でもあった。彼らは積極的に戦うことを望んでいなかった節がある。だから義元は自らが率いた上で主力部隊に織田勢の主力が行かないようにけん制していたものと思われる。」


信康「そうなると……信長は東海道方面から敵の主力が来ると思っていて大高城方面を救援してから善照寺砦にいた佐久間信盛と合流してから義元本隊と戦う予定だったのかもな!しかし、義元の方が一枚上手で自らの軍勢を囮にして大高城方面に電撃戦(速攻)を仕掛けて見事、敵の包囲網を切り崩すことに成功したわけだな!」


秀康「前半戦は完全に義元が圧勝していたわけだな!ところが信長は敵の弱点に気づくわけだ!!」


秀忠「どの辺りから気付いたかは知りませんが……佐々正次が敵に突撃をかけた辺りで『もしかして?敵は思っていたよりも少ない!?』と思い始めて、それを確かめるために中島砦への移動を強行して見せた訳だな!結果、義元本隊は中島砦に攻めてこないで大高城へ向かって移動を始めた。この辺りで奇襲を考え付いたのかも知れない。」


家康先生「前に『三方ヶ原の戦い』の話をしたが……信玄は意外と用心深く保守的な動きをするということを知ってもらいたい。信玄は三方ヶ原で勝利後も油断せずに街道沿いから離れていない、ずっと街道を使って常に自勢力の城に逃げれるようにしながら進軍していた。この点、勝頼とは大分違うことが分かる。信玄は常に不利になった場合を考えて『逃げ道』を敵に封鎖されないように細心の注意を払っていたのである。


義元も同じはずなのだが……信長が26歳で『うつけ』と言われていたためか?もしくは敵に圧勝していて敵が少数なことを見て、『攻めてこない』と考えてなのか……迂闊にも街道沿いから外れて桶狭間を通るというショートカット行為をしてしまっている。これは最短ルートだが地の利の無い今川勢にとって致命的なミスだったといえるだろう。


この隙を信長は見逃さなかった!義元の迂闊な行為を千載一遇のチャンスと捉えた信長は全力で今川勢を追跡し、『敵を襲うのに有利と見た場所』で敵に襲い掛かったのである。


恐らく、最初の鉄砲隊による一斉射撃で敵が陣形を崩して乱れた隙に足軽隊が整備された道のど真ん中に陣取り、槍衾で固めてしまったに違いない。これで敵の半分以上が西側に取り残されてしまう。敵は突破したくても周囲は深田で雨が降ったばかりなので移動は困難だった。そのために狭い一本道に陣取っている信長軍に進路を阻まれてしまい義元本隊から切り離されてしまう。


これを見て、義元は『自分が狙われている』ことに気付いたはずである。そうと分かれば全力疾走で逃亡を図るのが最も良い戦術といえた。実際義元は逃亡を試みるのだが……雨が降ってぬかるんでいる上に地の利は無く、向かう方向が事実上一方向だけなので当然『地の利のある信長勢は先回り』しようと部隊を送っていたはずである。


ここでは三方ヶ原とは逆のパターンになる。三方ヶ原では戦に負けたとはいえ……ワシの方が三方ヶ原周辺の地の利を知っていたので武田勢が『完全に包囲を完成させる前に敵の包囲網を食いやぶって』浜松城へ逃げることに成功している。対する桶狭間は地の利において圧倒的に信長勢が有利だった。だから追いつかれてしまったのである。


そこで終わればよいのだが!義元も簡単には終わらない。信長本人が自ら追撃してきていることに気付いた義元は逆に「おまえの首を取ってやる!」と言わんばかりに逆攻勢を仕掛けてきたのである。その結果乱戦に突入した。西側からは態勢を立て直した今川軍が信長軍の防衛線を突破して義元本隊と合流しようと猛攻を仕掛けてきていた。そんな中で信長達は義元の首を取ろうと必死に義元に攻撃を仕掛けるが……義元も頑強に抵抗してくるので苦戦する。しかし、最終的には義元の周りを先に包囲して攻撃することの出来た信長勢の勝利に終わったのである。」


信康「壮絶だよな……信長公記にも山田右衛門という者が『義元の死』を聞いて馬を乗り返して戦って死んだというから……今川勢も義元の死で戦意を喪失した訳ではないことが伺える。」


秀康「信長が最初の奇襲から得られるアドバンテージを使って最後まで逃げ切った感じだな!」


秀忠「奇襲の成功例は世界的にも珍しいから語り継がれやすい一方で失敗例は吐いて捨てるほど多いからなのか語られもしないよな(笑)」


家康先生「この桶狭間の戦いによって信長が得たアドバンテージは想像以上にデカい!後に美濃の攻略に七年かかるが……それでも最大の敵であり戦国準優勝クラスと言える毛利氏は周囲の敵対勢力(尼子・宇喜多・大友)などに包囲網を作られたせいで中国地方の統一が遅れてしまった。1576年の時にやっと播磨近くまで進出した時にはタッチの差で織田軍に姫路城を先回りされて取られてしまう。このタッチの差が、毛利氏による本願寺支援の失敗、そして織田軍による攻勢を許す原因となったと言えるだろう。


このタッチの差は間違いなく桶狭間での思いがけない大勝利によるアドバンテージだったと言える。もし桶狭間での大勝利が無ければ、もしかしたら織田信長の勢力拡大が遅れていて……毛利が先に播磨を押さえていたかもしれない。


そして、忘れてはいけないのが!この桶狭間で人生を大きく変えられた人物として信長の次が誰であろうワシであるという事実である。この桶狭間のせいで順調だった今川での人生が崩壊し、仲の良い夫婦仲が裂かれる原因が生まれた。その一方で松平家の今川家からの独立が早まり、織田信長と同盟を結んで今川家と対決するという道筋が生まれたのである。これは武田との対立という苦難の道を生むことになる一方でワシの天下統一の道筋としては非常に大きな助けとなったことは疑いようがないものであった。」


徳川三兄弟「そして息子虐めの始まりとなったんだな!」


信長も信玄と同じで決して街道沿いから外れるような行軍はしなかった。それは桶狭間でのことを決して忘れなかったのだろう!


信長の強さ!が分かるとともに家康が一番桶狭間の影響を一番受けた被害者であり、受益者でもあるかもしれません。不幸を幸運へと変えることが出来るのも天下人の条件と言えるかも知れませんね。

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