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徳川劇場:教えてクソ親父!桶狭間の戦い~ワシが暴れまわったせいで追い詰められる信長!~ 前半

長いので二分割にしました。


家康先生「そもそも桶狭間が起きた理由に『上洛を狙った』とか『織田家を滅ぼそうとした』とか言っている学者がいるが……そのような事実は読み取れない。勿論、織田家と戦っている以上は織田家を倒した方が良いのは間違いないが……織田家の支配地域は大きい上に今川家の置かれていた状況的に『この一回の遠征』だけで織田家を滅ぼすのは難しいところがあり、今回の遠征だけで織田家を滅ぼすことを狙った可能性は低かった。また織田家を今川家が屈服させるのは非常に難しかった。両家は親子何世代かに渡って争っていて、同盟もしくは傘下にいる大名または家臣の中にも『それぞれ』に恨みを抱いている者が多数いたためだ。」


信康「斯波家が実権を握っている時代に遠江国を巡って今川家と争い始めた時の因縁だから相当前から骨肉の争いしてた感じだな……」


秀康「那古野今川家なるものがあったらしいので今川にも攻め入る正当性があった。」


秀忠「清康公に広忠公と二人とも織田家暗殺説が最も有力だと松平家内では考えられていたので当然のことながら恨み具合は三河勢も相当なものがあった。」


家康先生「桶狭間の戦いの最大の問題点は『桶狭間』が『いったいどこなのか?』と言う問題があることだ。これは本編でも触れられているが!桶狭間の古戦場は二か所ある。実は信長公記を読むと二か所ともイマイチ主戦場としては適さない場所であるという事実が読み取れる。


 桶狭間は小高い山が沢山あり、沼地が広がっていたと書かれているが……現代では住宅地として整備されており、見る影が残されていない。昭和初期の写真が残されているが江戸時代の農地整備による開墾の後が見て取れる。それでもド田舎(名古屋市緑区)の雰囲気が残されており、桶狭間が交通の要所として街道が整備されたルートでは無いことが写真から読み取れたりする。


東京でさえ、今では考えられないが戦後初期は渋谷の周辺や早稲田辺りも農地が普通にあったことを考えれば現在の日本の姿の方が日本史においては異常なんだ!と言う風に考えたほうが良い。東京オリンピックの頃(1964年)でさえ舗装された道路は極少数だった。」


信康「現在の地形を見て「ここは平坦だから!奇襲には向かない!!」とかドヤ顔している学者がいたりするよな!(笑)」


秀康「おまえタイムマシンでも使って見てきたのか?と言いたくなるくらい自説の為なら当時の人の証言すらも全否定する意味不明ぶりだからな……」


秀忠「資料第一主義とか言って資料に書いて無いことを書いてあるかの如く錯覚させますしね。しかも堂々と新書とか歴史書という体裁で自説を『絶対正しい!』と主張できる根性には驚きます。」


家康先生「今川方が戦争を仕掛けたように言われているが……信秀が死んだ後に山口教継が織田家から今川家へと寝返った。そして教継が義元に殺された後に今川方の武将が大高城と鳴海城に入城して両城を支配した。この間信長は弟信行と戦ったり、義理父道三の仇討で美濃に出陣したり、尾張を統一(今川支配地を除く)したりした。つまり相当な期間のあいだ今川方は織田家を攻めずにいたということになる。


 今川家が織田家を攻める原因は『織田家が大高城と鳴海城を包囲する砦』を築いたからで、信長は尾張を統一したと言っても南側の一部地域は今川方が支配していた。織田家は同地を奪還するために作戦を仕掛けた。つまり、桶狭間に至る原因は信長側が作ったということになる。今川側から見た場合、『織田家が攻めてきた。』という風に見えるのである。


今川方が尾張に支配地を拡大していたのは織田家の同盟者である水野氏が刈谷城などの城を三河に持っていたことに加えて『岡崎城』つまり傘下の松平家の支配地域を守るという意味合いがあった。この時既に元服したワシは今川一門の瀬名姫と結婚し、息子の信康と亀姫が生まれていた。夫婦仲は当時は良好でラブラブだった。松平家は既に立派な今川一門だったのである。だからこそ松平家の安定化は今川家の安定化と表裏一体となっていた。織田家の三河への影響力を絶つ必要があった。だから尾張に支配地を拡大していたということなのだ。」


信康「ラブラブねぇ……」


秀康「それが続く未来もあったのかもしれませんねぇ……」


秀忠「そしたら兄者(秀康)と俺は生まれてないかもしれないぞ!」


家康先生「今川家が織田家を攻めなかった理由は幾つかある。まず第一に前に書いたように今川家の対尾張方面の主目的は『三河支配の安定化』にあったという事実があり、優先されるべきは三河支配の安定化なので尾張への攻め込みは『二の次』であったということになる。第二に当時の情勢である。この頃、三河では『三河忿劇』(1555年~1558年)なる大反乱が起きていた。つまり、信長が『尾張統一』を進めているあいだに三河では大反乱が起きていたので今川家は尾張に進出することが出来なかった。


また、他勢力を見てみると上杉謙信が関東に攻め入る隙を窺っていた。武田信玄は川中島の戦いで長野市の確保に成功するものの信濃統一と越後への遠征は事実上不可能になった。手詰まりによる領地拡大の減速は信玄にとって気に入らないものになってきていた。甲駿同盟は『そもそも』互いに狙う獲物が他にいたから成り立っていた同盟という要素が強かった。


 武田家は初代の頃から何度も駿河を領有するが……何度も失敗してきた過去があった。三方ヶ原で語った通り、信濃を制した武田家にとって今川家の領地である駿河・遠江・三河は『攻めやすく守りやすい』という好立地であり、豊富な資源(塩・金銀)も取れ、さらに茶葉に加えて貿易の拠点であり、港湾からの関税収入も得られるという非常に魅力的な条件が揃っていた。


 武田と今川は互いに強固な血縁関係を持つ一方で互いの本国に対して電撃戦(速攻)を仕掛けるに十分な街道が互いの領地を通っていた。今川から見た場合、武田信玄は実の父を追い出し、血縁関係があった諏訪氏を奇襲して信濃に勢力拡大を始めたという前科があっただけに……常に警戒するにたる存在として注視していたのである。(実際に義元が死ぬと予想通りの行動に出てきた。)」


信康「信玄て息子の義信すらも犠牲にして駿河侵攻する気満々だったから相当前から駿河を狙ってたよな……」


秀康「信玄に追い出されて信玄の宿敵と化していたはずの父信虎は義元が死ぬと「早く駿河に攻め込め!」とか手紙を送り出し始めるからな……故に氏真に追放されてるし……」


秀忠「武田家の親子関係は複雑すぎて理解に苦しみますねぇ……」(おまえが言うな)


家康先生「義元は『三河忿劇』が終わり、三河統治が安定すると息子の氏真に家督を譲り隠居した。隠居と聞くと現役引退のように聞こえるが……義元は40歳前後と若かったので本国駿河と遠江を息子に渡しただけで現役かつ実権を握っていたのは義元だった。もしかしたら後のワシや信長と同じで本拠地を移すつもりがあったのかも知れない。移す候補としては正統性が主張しやすい那古野の可能性が高かった。


 桶狭間は1560年なので一年くらい氏真の統治の様子を見てから『尾張侵攻』を始めた。この間ワシは『三河忿劇』で初陣し、活躍したので『岡崎城』に入ることを望んでいたが……義元はワシの岡崎入りを認めなかった。代わりに尾張侵攻における重要な役割を与えて奮起させようとした。」


信康「目的を達成すると『やる気無くす』か最悪裏切る可能性もあると考えていたのかもなぁ……吉良・井伊・飯尾などの一門衆も微妙に『やる気が無い』だけに主力となる三河勢の松平家には『やる気』を出して欲しかったのだろう……」


秀康「一門衆とはいえ……裏切ることを前提に考えるあたり……戦国時代なんだなぁと思うものの室町時代の比較的平和な時期でさえ今川貞世を始めとした一門に対して厳しい姿勢を出していたことから察するに足利氏全体が一族の裏切りを恐れていたのかもな!」


秀忠「足利氏自体が血縁関係のあった北条執権家や新田氏を倒して天下を握ったことを考えると仕方が無いかと……もっと言えば源頼朝が猜疑心の塊だった時点で源氏全体がねぇ……そういう意味では一門同士でもギクシャクしていた部分が今川家はあったのだろうと思ったりします。」(実際、桶狭間後は粛清と反乱の嵐だった。)


家康先生「信長公記の桶狭間を見ていこう、『「今川方は十八日夜に大高の城へ兵糧を補給し、織田方の援軍が来ないうちに十九日朝の潮の干満を考えて、我が方の砦を攻撃すること確実との情報を得た」旨、十八日夕刻になってから、佐久間信重、織田秀敏から信長に報告した。しかし、その夜の信長と家老衆との談話には、作戦に関する話題は少しも出ず、いろいろ雑多な世間話だけで、「さあ、夜も更けたから帰宅してよいぞ」と退出の許可が出た。家老たちは「運の尽きる時には知恵の鏡も曇るというが、今がまさにその時なのだ、」と信長を評し、嘲笑しながら帰った。』


 この文章には様々な重要な情報が含まれている。まず最初に織田方は今川方の正確な作戦計画を事前に察知していたことが伺えるのである。これはつまり織田方は今川方の動きを正確に知りえる立場にいたということが分かる。さらにこの情報には潮の満ち引きについて書かれている。これが少し厄介で当時の地図を見て当時の地図の情報の違いが大きいことを利用して自分の主張に有利な地図を取り上げて自らの主張を声高に叫ぶ輩を増やす原因になっていたりする。というのも尾張地域と言うのは江戸と明治~昭和にかけて大規模な埋め立てが繰り返されており、戦国時代の頃よりも大分海岸線が遠くなったという現実があるからである。


 とは言っても『鷲津砦』『丸根砦』『善照寺砦』『丹下砦』『中嶋砦』の位置も遺構から確定事実として決まっているし、他にも『刈谷城』『緒川城』『岡崎城』『安祥城』も位置が確定している。これらの位置関係は非常に重要で何れも当時から陸地だった。と言うことは、この周囲は陸地だったと言うことになる。重要なのは大高城~熱田神宮までの間の天白川の幅である。この幅が当時は潮の満ち引きによって大分変ることがあったということでは無いだろうか?」


信康「清州から織田軍が何時間かけて来れるか……これによって今川方の作戦計画は違ってくる!ということだな……」


秀康「援軍が来る時間が分かっていれば速攻を仕掛ける場合の目安になりますし、敵の増援に対する対策も立てやすいと言えるしな!」


秀忠「こんなに正確な情報を仕入れていたのであれば信長は今川軍に対して主力をもって向かい打つ準備が出来たのに……なんでしなかったんだ?」


家康先生「それを探る手段はある。まず面白いのは太田牛一の書き方である。当時の状況を思い出して書いていることが分かる。『長篠の戦い』や『比叡山焼き討ち』の頃の文章では「神は我々の味方だ!」「信長様こそ正義だ!」「我々が負けるはずが無い!」と自信満々な雰囲気が漂っているし、信長に心酔している牛一が読み取れる。それに対して『桶狭間の戦い』の文章では『家老達が』と言ってはいるものの……「運が尽きた」「知恵が曇った」「嘲笑されていた!」とか散々な書き方であり、信長に心酔している感じが読み取れないのである。この辺にリアリティがあり、『実際は未来で過去を振り返っている』訳であるが……牛一の真実を出来る限り書こうという心意気が感じられてグッと引き込まれる。まさに名文と言えるだろう。


さて、ここで言う家老達だが……この家老達に佐久間信盛・池田恒興・丹羽長秀・森可成・滝川一益・佐々成政(正確には佐々家)などが含まれていたのか?と言うことは聞くまでも無いだろう!そんな訳が無いのである。(強調)この辺の連中は信長の側近中の側近であり、いれも桶狭間のキーパーソン達である。彼らは最初から信長の意図するところを理解していたので信長の意思を『直前に聞きに来るような間抜け』では無い。実際問題として佐久間信盛は家老連中では一番早く信長側に付いている。しかも信行の付き家老だったにも関わらずである。故に織田家のナンバー2になっていた。彼が実務担当なので信盛と意思疎通出来ていなければ如何に信長と言えども好き勝手に手足を『自由には動かせない!』


だから家老達というのは信長の側近達とは違い、信長派では無い織田家の家老達ということになる。こいつらは信用ならないので信長は自分の作戦計画を彼らに教えたくなかったのである。だから教えない為に無駄な雑談で終始終わらせたのである。」


信康「この頃は、まだ完全に織田家が一丸となって信長に忠誠を誓っていた訳では無いし、義元よりも信長の方が優秀だと信じている人間は少なかった……ということだな!」


秀康「桶狭間の頃は信長も家臣と雑談でご機嫌取って談笑しないといけなかったんだな!(笑)」


秀忠「そう考えると親近感沸くな!」


家康先生「さて信長公記の続きを見ていこう。『予想通り、夜明け方、佐久間盛重・織田秀敏から「すでに鷲津山・丸根山の両砦は今川方の攻撃を受けている」との報告が入った。この時、信長は「敦盛」の舞を舞った。「人間五十年、下天をくらぶれば、夢幻のごとくなり、ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか」と歌い舞って、「法螺貝を吹け、武具をよこせ」と言い、鎧をつけ、立ったまま食事をとり、兜をかぶって出陣した。』


予想は的中する。しかし、信長は慌てていない。有名な敦盛を舞い、人間の人生は夢幻のようだが……一度生を得れば滅ばぬものは無い!と宣言して立ったまま食事を取って出撃する辺り非常に信長らしい姿が描かれている。まさに伝説の始まりを予見させるような文章と言えるだろう。」


信康「人間五十年という部分を『人生五十年』と言い換える人がいるが!これは五十年という長い時間も過ぎ去れば短いものだ!と言う意味であって寿命の話じゃないんだよな……どんな凄い奴も何れは滅びるんだ!なんて言っているが当然自分に対してでは無く、相手に対してなのは明白だしな!凄い自信家だということが読み取れるエピソードと言えるだろう。」


秀康「皮肉を言えば本当に信長は49で亡くなっているから(笑)信長自身のことを指しているかのように勘違いしがちである。しかし、これは過去の話であり、未来が『どうなる』かなんて当時の信長は知らないので知らないことを予言している訳では無い。」


秀忠「法螺貝を吹け、武具をよこせなんて言う辺り貫禄あるよな!でもこの時信長は26歳だから若い奴の粋がっている姿というのが実態に近いのかもな(笑)」


家康先生「さて出陣してからの状況を見ていこう!『熱田まで三里を一気に駆けた。辰の刻に上知我麻神社の前から東を見ると、鷲津・丸根の両砦は陥落したらしく、煙が上がっていた。この時点で信長勢は、騎馬六騎と雑兵二百人ほどであった。海岸沿いに行けば距離は近いが、潮差し満ちて馬の足に不憫なので、熱田から上手の道を飛ばしに駆けとおし、まず丹下の砦に行き、次に善照寺の佐久間信盛が居陣する砦へ行き、将兵を集結させ、陣容を整えて、戦況を見きわめた。』


 少し長いので続きを要約すると義元は桶狭間山で人馬を休めて「鷲津・丸根を攻め落とし、満足これに過ぎるものはない」と言ったと書いてある。その後の文でワシが登場し、朱色の武具を身に着けて先陣を務めていたことが書かれている。『鷲津・丸根攻めに手を焼き苦労した』などと書かれているがワシが佐久間盛重が守る『丸根砦を落とした』のである。(←ここ重要)


これらで重要なことはカッコいいこと言って鷲津・丸根砦を守ろうと出撃した信長だったが早朝(四時ぐらい?)から八時前後で両砦は落ちてしまい。『救援に失敗している』ということである。『その立役者は』何を隠そうワシである!!(強調)つまりワシが強すぎて織田方の家老二人が守る要塞がいとも簡単に落ちてしまい信長は困り果てたのである。」


信康「クソおおお!何がワシが強すぎるだ!自画自賛してんじゃねぇ!」


秀康「事実なので困りものだな……もっとも鷲津の方は朝比奈が指揮していたようであるが……軍勢の中には三河勢が含まれていたので松平家の力が強かったのは事実だろうな……」


秀忠「17歳の小僧が強い訳が無い!指揮してたのは数正殿や忠次殿だろう!」


家康先生「負け惜しみを言うがいいぞ!(満面の笑み)ここまでで分かったと思うが……桶狭間の戦いを描くときに清州出陣~熱田神宮参拝からの即攻撃を描いていることが多いのは誤りであるということが分かる。信長は最初、今川方のワシの方面に来る気配を出していた。ifがあるならワシと信長が戦っていた可能性も無くは無かった。しかし、予想よりも遥かに速く砦が落ちてしまい、状況が悪化したために佐久間信盛と合流して『不利な状況の立て直しを図った』と見るべきだ。つまり計画が狂ったので側近達と再度打ち合わせをせざる負えなくなったと考えられる。」


後半へ続く

家康の活躍が忘れ去られているが、それは間違いである。太田牛一は過去振り返りながら書いているとはいえ出来るかぎり当時の雰囲気を忠実に再現して伝えようと努力している。記述に間違いを求めようとする前に間違っているのは自分達の考えの方だと思わないのは奢れである。実際に現地で地質調査や発掘調査が積極的に行われた訳では無いので考古学的検証が殆ど無く、あくまで仮説が独り歩きしているだけである。

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