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徳川劇場:教えてクソ親父!桶狭間の前に知ると面白くなる三方ヶ原~負けた時こそ分かる本当に強さ!戦国最強の名将二人の戦い!!

三方ヶ原はウィキとは違いますね!信長公記も三河物語も描写はほぼ同じなのに何で違う話が主流みたいになってるのだろうか?


家康先生「三方ヶ原の戦いは『いろいろ』言われているが……実は信長公記での記述は簡潔かつ簡単、三河物語は大分誇張が入っているものの戦況自体は違いは少ない。やはり最初から複雑な真実など無く決まっていることは決まっているにもかかわらず何か分からない設定が入り込んで定説が決まっていないかのように言われているのは不思議でしかない!」


信康「クソ親父が糞尿まき散らしながら逃げ帰ったという奴だろ!」


秀康「そうだ!そうだ!逃げ帰ったやつだ!」


秀忠「信玄にボコボコにされたやつだ!」


家康先生「と思うじゃろ?しかしながら信長公記や三河物語ではワシの不甲斐無い話は書かれていない。信長がワシに「浜松城で籠城しろ!」と言っていたとは書かれていない。というか信長がワシに命令出来る立場にいたと言うこと自体が可笑しい!中央集権が進んだ江戸時代ですら大名の独立した自治権は強力だった。それは尊王攘夷論で長州や薩摩が勝手に下関戦争や薩英戦争をしたことからも伺えるし、和平交渉も勝手にしていた。後の長州戦争でも各藩は幕府と連携はしていても撤退は自由に行えていたことからも分かることなのである。さらに付け加えれば信長公記の記述には織田軍の援軍はワシが出撃する前には到着していなかったとハッキリ書いてあるということも忘れられがちである。」


信康「確かに……というか太田牛一がクソ親父を貶すわけないので書くわけないだろ!」


秀康「信長・養父・クソ親父と三人の天下人が太鼓判を押して認めた公認の歴史書だからな……不確かなことは書かないよな!」


秀忠「簡潔に事実のみ書かなければ歴史書とは言えません!」


家康先生「 ご多分に漏れず三方ヶ原も散々な言われようである。その中心にあるのが『兵力に差があり過ぎた場合は勝てない!』である。しかし、戦争では局地戦で自分達が少数で相手が多数というのは良くあることで、むしろ防衛側は常に攻勢側より少ないのが当たり前になる。何故ならば攻勢側は『敵の防衛が手薄な所を狙うのが戦いの基本』だからである。そうである以上は『自分が戦争に参加する場合の多くは敵の方が多いと考えるのが自然である。』ということは即ち戦争で勝つためには劣勢な時(防衛側の時)に自分達が生き残る方法を考え状況を逆転させなければならないのである。


こうした状況が逆転する時と言うのは大きく分けて二つある。『事前に攻撃を防衛側が察知した場合』と『防衛側が増援を送ってきた場合』ということになる。


これを上手く組み合わせて策略を働かせると『長篠の戦い』になる。しかも長篠の場合は武田勝頼が我が方の策略を見破ることが致命的に遅かった、というか見破れなかったために大敗北したのである。


 では?逆に双方が策略を巡らせたうえで双方が相手の策略を見破り対策を講じた場合は戦が、どうなるのか?の答えとして三方ヶ原は最も最適な戦いとなる。」


信康「事前に攻撃を察知するということは!受動的(受け身)では難しい!!つまり防衛側の作為が働いているということになる。」


秀康「防衛側が増援を送るのも実は作為が必要!防衛側は兵力を散らばせたうえで味方に増援を送れるようにしないといけないから、さらにそれに迅速かつ入念な準備を加えるとなると!それは謀略であり、防衛側の罠が潜んでいる可能性が高いということになる。」


秀忠「というか……一万五千で五百もいない『しょぼい』長篠城を落とせない時点で兵力差だけでは戦いが決まらないのは当然だと思うんだよね!(上田合戦のことを考えながら擁護する。)」


家康先生「戦国時代に限らず現代もそうだが!例え総兵力百万、艦船総数100隻、航空機一万機いようとも……その全てを一つの戦線に投入することは不可能である。理由は幾つかあるが、単純に一つ目の理由として『全戦力を集結して戦う手法は現実的にハイリスク過ぎる』ということである。これは様々な理由があるが、最大の問題点は自国の戦力を他国に全力投入するということは『自国の防衛を捨てる』と言うことであり、それはすなわち『内部からの一撃』を招くリスクまで負うことになるからである。現代においても、このリスクは非常に高いことを忘れてはいけない。第一次世界大戦においてはロシア帝国が『ロシア革命』で倒れたし、ドイツ帝国も『ドイツ革命』で倒れたからである。さらに言えば『ベトナム戦争』、『ソビエト崩壊』、『リビア革命』など内部の敵による国家の敗北もしくは崩壊は珍しくない。だから全戦力を一か所に集中することは出来ない!というか不可能!!これが戦争の基本原則である。」


信康「内部からの一撃て俺のこと言ってないか?ふざけんなよ!クソ親父!!」


秀康「金ヶ崎の戦いと姉川の戦いが1570年なのでクソ親父は近江方面にも出撃することが多かった……つまり武田家と戦いながら織田家を支援していたので実際は二正面だったとも言えるんだよな……」


秀忠「近江まで主力を出していたけど……相当肝が据わってないと出来ないことなんだな……」


家康先生「であるが故に!如何にして自勢力の戦力を一つの戦場に集中して投入できるか!!これは各時代の全ての指導者の能力を推し量る上で非常に重要だ、その上手さが指導者の質、つまりカリスマ性の高さの表れであり、それが指導力そのものであり、強さの源泉なのだということが分かるである。


その観点から見た時にワシと信玄は常に激しいバトルを繰り広げていたのである。『織田と同盟を結んでいて武田と戦うだけだから簡単じゃん!』と思うかもしれないが!我が徳川家の主要地域の大半は武田家の攻撃射程内だったという事実が見逃されがちなことにワシは大変失望している。前回の長篠の戦いの『長篠』は交通の要所地で飯田ルートを使えば豊橋まで行けた。豊橋には吉田城があり吉田城は酒井忠次が居たことから分かる通り重要拠点だった。ここを取られれば岡崎城と浜松城を繋ぐ補給ルートが絶たれ浜松城が陥落する危険性が高かった。さらに言えば岡崎城を攻撃することも可能だった。だから事実上徳川家の全ての支配地が武田家に攻撃される危険性が常にあった。


 逆に徳川家が武田家を攻めるには険しい山脈が天然の要塞と化しており、非常に難しかった。唯一簡単に敵の本国を直接攻撃出来るのは駿河を攻略して攻めるルートになる。この点でもワシらは非常に厳しい立場にいた。」


信康「武田家は中央立地で四方を敵に攻められる危険性がある一方で敵が攻めることの出来るルートは限られていた。しかもルート上には険しい山と拠点が待ち構えており、自勢力の力がある限りは攻められ難い立地だった。逆に武田家は他家の領地に攻め入るルートが複数あり、相手の不意を突いての攻め入りも可能だった。この特性を十分に発揮したのが武田信玄と言えるな……」


秀康「我々徳川家て実は大分不利な立地だったんだな……周囲が無能なら勢力拡大できたかもしれないが……戦国屈指の有能大名がいる激戦区な上に本国三河にも水野家のような恐ろしいのが割拠してたからな……」


秀忠「無能だと思われがちな吉良家ですら実際は有能な動きしてたし……戸田氏、井伊氏、飯尾氏も中々手強い感じだし、そもそも松平家自体が難儀な存在だしな……」


家康先生「武田信玄という人物は稀有な存在で中央立地を最大限利用して縦横無尽に各方面を攻撃して相手が防備を固める前に敵地を襲い奪い取り、敵の増援が来る前に防衛拠点を固めて敵に領地を奪われなくする達人だった。まさに風林火山の名に相応しい名将だった。余りに強すぎたためにワシらと手を組んで戦っていたはずの北条家が武田家と同盟を結びなおす羽目に陥ったくらいであった。


おかげで武田家には事実上織田徳川連合以外に敵がいなくなってしまった。この状況を好機と見た信玄は織田徳川軍に対して大規模な攻勢を仕掛けることにしたのである。世にいう『西上作戦』と言われる大規模作戦である。総兵力三万を三つに分けると言う複雑な作戦で本隊は、さらに分かれたりするなど高度な用兵術が必要とされた作戦だった。優秀な部下を育てて信頼し、なおかつ各方面隊が入念な準備と高度に連携した共同作戦を実施しなければいけなかった。でなければ各個撃破される危険性も高かったのである。」


信康「よく考えれば……武田側も相当大きなリスクを負っていたんだな……」


秀康「それだけ自信があったんだろう……この時、信長39歳、クソ親父30歳に対して信玄は52歳だから……「若造には負けないぞ!」ということかもしれないな……」


秀忠「武田信玄の全盛期であり、最後の戦い……」


家康先生「では信長公記を見ていこう、『十一月下旬、武田信玄が二俣の城を包囲した、という徳川家康からの報告が到着した。そこで、信長の家老衆、佐久間信盛・平手汎秀・水野信元を大将として、軍勢を浜松へ参陣させた。しかし、すでに二俣の城は落城し、その勢いに乗って武田信玄は堀江の城をめざして進撃していた。』ワシ自ら説明すると……二俣城を包囲されたので盟約に従い信長に援軍要請を出した。だが、信長の援軍が到着する前に二俣城は落城してしまったということである。続きを読んでいこう!


『徳川家康は浜松の城から軍勢を出撃させ、三方ヶ原で足軽同士の小競り合いが始まった。佐久間・平手をはじめとして諸勢が駆けつけ、互いに陣を構えて早くも一戦に及んだ。~十二月二十二日一番合戦で、平手汎秀およびその家臣、家康の身内衆の成瀬正義、その他数名が討ち死にした。』


 これらの文章を読んで分かることが幾つかある。ワシは信長に援軍要請を出して援軍を待ったが……援軍は到着せずに二俣城が落ちたことが伺える。この時点で家中では厭戦感情が高まり、『姉川へは全力で援軍として向かったのに!我が方が苦しい時は迅速に援軍に来ないのか!』と不満が出ていたことは容易に想像がつくだろう。だから信長の援軍が到着する前にワシは浜松城を出撃したのである。


 その後、三方ヶ原周辺で主力同士が戦う前に両軍の足軽同士が小競り合いを始めてしまった。そこに織田の援軍が駆けつけてきて両軍が対決することになる。十二月二十二日と書いてあるが……二俣が攻撃されたのが十一月下旬なので約一カ月ほどの期間の話であることが分かる。」


信康「互いに陣を構えて早くも一戦に及んだ!と書いてあるが……この互いは佐久間・平手の後に書いてあるから徳川軍と織田軍は別々の場所に陣を構えたと言うことか?良く分からんが……その後に『武田方は』と書いてあることからも……織田と徳川は合流して無かったのではないだろうか……」


秀康「どのくらいの兵力差があったのか議論になっていたりするが……それ以前に最初の時点で徳川と織田は別々に進軍していたことが読み取れるよな……つまり、徳川軍は浜松城から三方ヶ原に北上していたが……武田軍は二俣城から堀江城に向かって南下していた。織田軍は浜松城に最短で向かった場合は海側では無く、内陸側を通ったことになるので徳川軍と武田軍を挟撃したことになる。」


秀忠「三方ヶ原の戦いで検索すると……織田徳川は合流していたことに勝手にされているが……最も信頼がおけるとされている信長公記では合流していたと言う事実は読み取れない。実は三河物語でも読み取れない。なのに合流していたことが確定事項にされているのは可笑しいと思うのだが……」


家康先生「それは確かに可笑しい。長篠でも『そうだが』信長公記の記述と違うことが正史であるかのように採用されている。しかし、信長公記以外の資料の多くが江戸時代に入ってから成立したり、個人的な主観が強いのを考えると本来信長公記が尊重されるべきである。信長公記をベースにして真実を探求するなら良いが……信長公記の記述そのものが無いかのように勝手に議論されて決めつけられている事柄が多いように見受けられるのが日本史の可笑しいところなのだ。


 子供じみた意見が主張されている場合も多い、信長は重臣三人を派遣してきている。信長公記以外の書物では織田軍の数は数万規模だったと書かれているのに……『織田軍は各地の徳川領を守るために分散配置されていた』とかいう謎理論で無理やり武田軍よりも総兵力が劣っていたかのように徳川軍との総兵力を調整されているのである。いったいどの一次資料の情報を元にして話をしているのか疑問を感じざるおえない。自分達の都合の良いように継ぎ接ぎだらけで意味不明になっている。


にしても……『織田軍は各地の徳川領を守るために分散配置されていた』というのは本当に可笑しい。何故織田家が徳川家の領地を守る必要があるのか……織田軍はワシの援軍要請で出撃してきただけである。戦国時代や幕末の動乱期を含めて考えても他人の独立した自治権を無視して勝手に他人の領地に駐留するのは侵略行為と同じことである。そんな勝手な行為が許されるはずが無い!」


信康「岡崎城には俺がいたし、吉田城には酒井忠次がいた。三方ヶ原の後、吉田城が武田信玄に攻められているが……この時織田軍は吉田城に居なかった。このことから考えても織田軍は三方ヶ原で壊滅した可能性が高い。つまり予備戦力が尽きていたのである。」


秀康「近畿方面の担当者だったはずの織田家ナンバー2の佐久間信盛が援軍に来ているのって凄いよな!平手に水野も来ていたようなので織田軍が三千というのは可笑しな話だと思うぞ!」


秀忠「信玄の狙いは浜松城の支城を落として浜松城の補給線を絶つことによる浜松城の攻略だったと考えたほうが良い、これは後の秀吉の小田原城攻めの時も行われていた当時の常套手段であり、攻城戦の下準備の基本中の基本だった。」(本城を落とす前に支城から)


家康先生「ではお待ちかねの!三方ヶ原の戦いのクライマックスを見ていこう!!『家康は、戦線の中央部を切り取られ、乱戦に巻き込まれた。左へ逃げて、三方ヶ原の崖ぎわの一本道を退却した。敵は先回りして待ち受け、戦いを挑んだ。それを家康は馬上から弓で射倒し、駆け抜けて、浜松へ帰城した。この時に限らず、家康の弓の腕前は今に始まったことではなかった。』」


信康「何か……クソ親父が呂布化してないか……クソ親父て、そんなに強かったのか?」


秀康「これは太田牛一に修正依頼しないといけない案件だな!」


秀忠「なんだか聞いていたのとは違うような気がするぞ!」


家康先生「文句を言おうが!そう書いてある以上はそうだというものである。この最後の文章には様々な重要な情報が記載されいている。ワシが中央部を切り取られて乱戦に巻き込まれたと書かれているが、これは武田信玄がワシの軍勢に『寄せてきた』結果として起きたことである。『最初攻勢をかけたのはワシの方だった』が『自身の軍勢が不利になりそうになると信玄はワシの本隊めがけて突進してきた』のである。その結果ワシの軍勢は大混乱してしまい。自軍が不利と読んだワシは退却を決めて逃走を図るが……それすらも見抜いていた信玄は先回りして待ち構えていた。しかし!ワシが強すぎたから敵はボコボコにされてワシは浜松城まで逃げおおせたのである。」


信康「気に入らねぇな!」


秀康「太田牛一のリップサービスでしょ!」


秀忠「本当かよぉ!」


家康先生「三方ヶ原はなかなか面白い戦いである。小競り合いで始まった戦いを切っ掛けにワシは織田軍が近くにいるのを利用して武田軍を織田軍と挟撃しようとした。それを察知した武田信玄は防備を固めて向かい打つ、結果双方被害が出るが武田側の死者もバカにはならない。だから信玄は数の少ないワシの軍勢に的を絞って集中攻撃を仕掛けてこようとする。これを察したワシは寄せ返すのではなく、退却を選んだ。だが、それすらも信玄は読んでいた。まさにしてやられた。


 一歩間違えれば長篠の戦いのような結果になっていたかもしれないが……それでもワシ最初の敗北であり、敵本隊が目の前に迫ってきた時に自分の本隊ごと寄せ返すという荒業を容赦なく使ってくる信玄の判断力の凄さにワシは驚いたものである。『踏ん張っていたら勝てたかも知れない!』という気持ちを残しながらの退却を選んだワシの判断力は間違っていなかったが……心残りが残り続けるという不甲斐無さをワシは生涯忘れることが出来なくて自らの不甲斐無さを絵に残した。」


信康「クソ親父はビビりだったから故に壊滅する前に紙一重で撤退出来たが……勝頼は初めての敗北を受け入れられずに壊滅するまで諦めきれなかったということか……」


秀康「信玄の強さが分かる戦いだな!信長公記を見るだけにすると信玄側も割と即興感があって臨場感が伝わってくる。それが故に信玄の即断即決が読み取れて恐ろしいものである。」


秀忠「ビビりも必要なんだな……時には負けを受け入れることも名将の条件なんだな!」

信玄と家康の読みあいが凄い戦いだと思います。

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