徳川劇場:教えてクソ親父!日本史の学者は信用できない理由:『長篠の戦い編』
日本史の学者て軍事オンチだよね!
家康先生「日本史の学者が信用できない!理由は幾つかある。まず一つ目として一次資料などというモノは数が限られているという真実である。そして一次資料に書かれている『情報は余りにも少ない』という事実がある。にもかかわらず『一次資料が絶対だ』と言い張っているのに『一次資料が間違っている』という相反する矛盾を多くの学者が抱えている。
良い例が『桶狭間の戦い』と『長篠の戦い』である。桶狭間に関しては長くなるので先に分かり易い長篠の戦いに付いて解説しよう。
ご存じの通り長篠の戦いは『徳川家つまりワシが!』長篠城の奥平氏と手を組んで『武田家撃滅作戦』を目論んで行われた合戦である。奥平氏はワシの娘である亀姫を貰い、松平を名乗ることを認められた上に本家及び分家の両方が10万石の大名に出世したことからも分かる。ちなみに断絶した時にも特別扱いを受ける高待遇ぶりで明治まで存続した。」
信康「実は長篠の戦いでは俺様の活躍も凄かったと記録されているんだぜ!あれ?鉄砲の一斉射撃で終わったはずなのに(笑)なんで俺の勇猛ぶりが一躍有名になったんですかね!」
秀康「信康兄さんの活躍が凄すぎて信長がビビったとも言われてますしね!」
秀忠「信長公記では『誘き出したところを鉄砲で射撃した』としか書いてない。『鉄砲で決着がついたとは一言も書いて無い』のに……しかも太田牛一は武田勝頼が『不利な状況なのに撤退しなかった』ことは疑問視しているが『騎馬突撃』してきたことを無謀とは書いてないんだよなぁ……」
家康先生「まさにその通りで騎馬突撃は無謀なんかでは無い!『騎馬による無謀な突撃』とか言われているが!そもそも騎兵による突撃は第一次世界大戦の最初まで各国が最も重要な戦術として重視していた戦い方である。さらに言えば第二次でも限定的ではあるが『独ソ戦』ではモスクワの冬季攻勢でソ連側が騎馬突撃を行い大戦果を挙げている。またバルバロッサ作戦時のドイツ軍の輸送手段はメインが馬による輸送だった。つまり、馬は遂最近まで戦争の第一線に投入されていた。
長篠の戦いは1575年である。かの有名なナポレオンの時代は『騎馬突撃の全盛期』。世界で最も有名な戦いであるアウステルリッツの戦い(1805年)は正に騎馬突撃の成否が勝敗を分けたと言っても過言ではない戦いだった。この時代は既にライフルも移動式の大砲も実用化されていたにも関わらずである。さらに言えば普仏戦争(1870年)でも騎兵隊はメイン戦力であった。
そして何よりも第一次世界大戦の前に起きた日露戦争では『ロシアのコサック騎兵』を『日本の騎兵隊』が打ち負かしたことが勝敗を分けた要因の一つであった。だから日本軍は騎兵隊を日露戦争後も無くさずに残したのである。
つまりだ!ライフルに圧倒的に劣る火縄銃の時代に『騎馬突撃』することは『無謀な戦術』とは言えない。(というか例え戦車に乗っていようとも制空権も歩兵の随伴も無しに突撃するのは無謀としかいえない、つまり騎馬だろうが戦車だろうが関係ない。)」
信康「騎馬隊による突撃の有効性は近代戦では疑いようのない事実だしな!」
秀康「明を滅ぼすことになる清も元は満州族という騎馬民族の集団だし……明らかに騎馬を主力としてた。」
秀忠「『騎馬隊による無謀な突撃!』とか言っといて未だに『関ヶ原の戦い』や『大阪の陣』などで槍兵同士の戦いをメインに描いてるクソ映画やクソドラマ見てると笑えるよな!」
家康先生「大坂の夏の陣の時、真田幸村は鉄砲不足を補うために槍兵を伏兵として使うことで大戦果を挙げている。これは接近戦に持ち込めば鉄砲隊に勝てるという証明といえる。
さて、ここで疑問なのが大河ドラマや映画で描かれている鉄砲隊の描写は正しいのか?という疑問である。なぜこのような疑問が生まれるのかと言うと単純に、まず第一に『鉄砲の打ち方である』大河や映画を見ていると『膝撃ち』や『しゃがみ撃ち』ばかり使われている。よく考えてみれば可笑しい話でしかない。
日本は現代でも丘陸や沼地が多く森林が生い茂っている国である。戦国時代には現代とは比較にならないほど丘陸や沼地と森林が多かった、このような環境において『膝撃ち』や『しゃがみ撃ち』は視界を悪くするだけ、さらに致命的なのが『敵が待ち構えている』場所まで行って『膝撃ち』や『しゃがみ撃ち』をする余裕は無いはず。
よって本来導き出されるべき戦い方は西洋の戦争映画と同じ方法になるべきで、つまり戦列歩兵を前進させて『立ち撃ち』による一斉射撃と後列との交代による交代射撃による波状攻撃だ!」
信康「当然の戦い方だよな!鉄砲隊が死亡率の低い後方射撃専門だったという証拠は無い、というか銃の射程も精度も格段に良い現代でも鉄砲による遠距離射撃はメインでは無く、主に中距離による射撃がメインだ。」
秀康「火縄銃は弓よりも精度に劣っており、連射も劣っているので遠距離での使用は難しかった。鉄砲の名手である杉谷善住坊は十二、十三間の距離で信長を『狙撃』したが玉は信長をカスる程度で命中しなかったとあるので鉄砲は狙撃に向いていなかった。十分な命中率を出すためには敵に『出来る限り接近してから』発射するしか無かった。」
秀忠「ルイス・フロイスは戦国時代の日本の戦い方を見ているはずなのに西洋との違いを指摘していない。つまり西洋の鉄砲の運用方法と変わりは無かったと考えるのが妥当。」
家康先生「信長公記に書かれている『長篠の戦い』を見ていこう。『武田勝頼は鳶の巣山に登り、川を前にして陣を据えれば何事もなかったろうに、長篠へは攻撃部隊を七隊派遣し、勝頼自身の率いる本隊は滝沢川を越えて有海原へ三十町ばかり進出した。』と書かれている。これは初動においての武田軍の動きを書いていると共に『太田牛一の武田勝頼への批判』が書かれている部分となる。
ここで何故?鳶の巣山に本陣を布陣しなかったことを批判しているかと言うと鳶の巣山は長篠城の直ぐ傍にあり、ここを占領していれば『長篠城は補給が困難になるからである。』さらに言えば万が一問題が起きても武田側の補給(撤退)ラインである『飯田ルート』が何時でも使える場所にあったから。だが、武田勝頼は『守りの布陣』である鳶の巣山への主力配置よりも『織田徳川連合軍の主力との決戦』を優先した配置にしていた。どうやら『決戦を望んでいた』のは我々だけでは無かったということが分かる配置だった。」
信康「信長公記を読む限りでは鳶の巣山に武田軍が部隊を置いていたという事実は読み取れないので……どうやら手薄だった。」
秀康「その後の状況を読むに鳶の巣山の麓には部隊を配置していた。つまり自分達の決めた前線の後ろに鳶の巣山があることで鳶の巣山が『天王山』になることを失念していたようだ。」
秀忠「武田軍は信玄時代からずっと織田徳川軍に対して常に攻勢側だった。勝頼の時代になると高天神城を落とすなどして勢力を広げていたことに加えて上杉北条と同盟を結んでいたので後顧の憂いが無く意気揚々としており、決戦を望んでいたのは武田側の方だったのでしょう!」
家康先生「信長公記には『十八日、陣を進め、信長は志多羅の郷の極楽寺山に~志多羅の郷は地形が一段窪んだところである。敵方から見えないように窪地に散らばして、軍勢三万ほどを配置した。』とある。ここは長篠城から約3.4㎞離れていた。
そう!そうなのだ!まさに信長側にとって自陣営の近畿方面が落ち着いて主力部隊を武田側に振り向けれる状況になったからこそ!織田徳川連合軍が『攻勢に転じたという真実』を武田勝頼に知られる訳にはいかなかった!!だからあえて信長は『守りの布陣』を徹底して行った。『出来れば武田とは戦いたくない』という演技をして見せた。だが実際のところは『叩き潰す気満々』だった。このことは信長公記の長篠の戦いの項目の最初で『熱田神宮に参拝』という『桶狭間以来の本気』からも受け取れる。」
信康「やべえええ!信長本気で殺しに来てるよ!!と勝頼に知らせたくなかったんだよな!」
秀康「長篠城から大分離れた所に布陣して、なおかつ軍勢の全容が武田側に見えないように巧妙に隠したと信長公記には書いてあるので……本気度が伺えるよな……」
秀忠「三方ヶ原の戦いの逆バージョンですね……あっ?!察し……というレベルでクソ親父ともどもブチ切れ状態過ぎて賢者タイム入ってる感じだな……」
家康先生「信長公記における長篠の戦いの経過を見ていこう。『信長は、今回こんなにも間近に対陣できたのは天の恵みであるから、武田勢は一兵も残さず討ち果たそう、しかし、味方には一人も損害を出ないように、と作戦を練った。』とある。その先を少し要約するとワシの軍勢から鉄砲と弓に巧みなものを集めた上で酒井忠次を大将とした軍勢を編成し、そこに鉄砲五百艇を加えて合計4千ほどの部隊を鳶の巣山に派遣した。
信長公記には『部隊は、五月二十日戌の刻、乗本川を越えて南の山地を回り、長篠の上、鳶の巣山へ五月二十一日辰の刻に上り、旗頭を押し立て、鬨の声を上げ、数百艇の鉄砲をどっと撃ち込んだ。』とある。まさに奇襲だった。これにビックリした武田勢は態勢を崩して長篠城の包囲網を解いてしまった。よって長篠城への織田徳川軍の救援は成功してしまった。」
信康「忠次大活躍である!夜に出撃して朝の寝起きに山上から鉄砲を撃ちこむ(笑)」
秀康「これで長篠城を攻略するのは難しくなった訳ですね!」
秀忠「鳶の巣山を織田徳川連合軍に占領されたと言うことは武田軍は無傷での撤退は不可能になった訳だな!」
家康先生「信長公記では『信長は、家康が陣取った高松山という小高い山に登り、敵方の動きを見て、命令するまでは決して出撃しないように前もって全軍に厳命した。鉄砲隊を千艇ほど選抜し~ついで、敵陣近くまで足軽隊を攻め掛からせて敵方を挑発した。前後から攻められて、敵も出撃して来た。』
このあと実際の戦いの様子が描写されている。『味方の足軽隊は、敵が掛かってきたら引き、退いたら挑発して引きつけ、そこへ命令一下、鉄砲を撃ち込んだ。』と書いてあるので足軽が敵の近くまで行くと挑発して敵を誘き出したうえで後方に逃げると敵が追ってくるので後方にいた鉄砲隊が敵に射撃を加えたということになる。
さらに続きに『味方は鉄砲を揃え、楯に身を隠して待ち受け、撃たせたので~』と書いてある。馬防柵の後ろに隠れてとは書いて無いのである。楯(手に持つやつでは無く、板に鉄板などを付けたやつを地面に立てるモノのことである。)に隠れて射撃したと書いてある。この間にワシらの軍勢は『後退しているので敵から見れば勝っているように見えた』ので武田勢は突破出来ると信じて戦力を増強して来るが……ワシらの方も鉄砲を増強して戦力を敵が増やす量より増やすので敵は突破出来ずに敗北した。」
信康「最後は『部隊を出撃させずに鉄砲だけ増やすだけ』と書いてあるので完全に舐めプ状態だったんだよな!(笑)」
秀康「長篠の絵巻は江戸時代に描かれたもので(笑)戦いを見栄えの良いように描いた空想にしかすぎず……実際の戦いの描写とはかけ離れている。こんなの学者なら知っているから指摘できるはずなのに(笑)大河や映画ではご丁寧に絵巻通りの描写なのは笑える。」
秀忠「完全に武田勢は我を失い猪武者と化してたよな……」
家康先生「敵が来れば引いて、敵が引けば前へ進むを繰り返していたので当然だが鉄砲隊も移動していたことになる。ということはつまり、鉄砲隊は前線に出ていた。さらに言えば前段階で弓も混ざってることを信長公記は書いているので実際は鉄砲と弓の混合部隊であった。鉄砲と弓は交代射撃しながら戦っていた。まさにこれは当時の世界の標準的な鉄砲の運用方法であった。当時は西洋でも弓と鉄砲は抱き合わせだった。
ちなみに、わざわざ足軽と鉄砲隊を別に書いてあるのは当時は『銃剣』が発明される前の時代なので火縄銃には銃剣が取り付けられていなかったからで、よって当時は西洋でも鉄砲と槍を分離して運用していた。これも世界標準である。これは革新的なものでは無く、あくまで銃剣発明前、故の面倒臭さからきている。さらに言えば鉄砲隊最大の弱点でもあった。」
信康「結局のところ1831年になるまで銃剣の話題が日本では出ない。つまり幕末まで日本には銃剣が実用化されることは無かった。」
秀康「銃剣と言うと左翼が大っ嫌いな旧日本軍お得意の突撃戦術を連想させるので左翼の連中は銃剣が無いことが鉄砲隊の弱点であることを認めない。これは幕末の描写でもライフル射撃だけで武士が負けている描写ばかりな点でも伺える。だが実際は銃剣の登場で歩兵=ライフル兵という区分だけで運用出来るようになったという圧倒的な差も重要といえる。」
秀忠「この銃剣が無いという弱点を突いて大戦果を挙げたのが『大阪夏の陣』の真田幸村ということになります……」
家康先生「長篠の戦いはワシらが敵の弱点である鳶の巣山を奪取出来たことが大きいと言わざるおえない。このせいで敵は無傷での撤退が出来なくなった。つまり敗北が決定した。だから勝頼は本陣に籠り、状況を立て直そうと思案した訳で、そこにワシらが少数の部隊を送って『挑発』してくるものだから『怒った』武田勢が出撃して来るとワシらは『怖いよー><』と言いながら後方に逃げて行くので、これを見て気分を良くした武田勢は『敵は怖気づいているぞ!いまこそ攻勢をかける機会だ!!』とワシらの方面に攻め掛かってくるので、そこを鉄砲隊が射撃して敵は大被害を受けることになる。引くに引けなくなった敵はワシらを倒そうと前へ前へ進軍した結果、最終的に大敗北してしまった。これが長篠の戦いだ!
武田勢は決して馬防柵でガチガチに固めた要塞に最初から突撃して勝てると思っていたわけでは無く、局地戦で勝利しようと……つまり全体では敗北が決したので少しでも『一矢報いる』つもりで小規模な戦闘で勝利しようと目論んだだけだった。そのせいで敵は気付かぬうちに『戦力の逐次投入』をしてしまっていた。対する我が方は『戦力の逐次投入』と見せかけた舐めプをしていた。
これが長篠の戦いの真実だ! 」
陣は一か所しか作らない!3.5キロほどの距離を武田軍は移動させられているので、まさに釣られて誘き出されたのである。引くに引けず大敗北してしまった。勝頼の責任も重いが、神格化されている武田四天王の責任は重大だった!
無謀な突撃!を強調したがる学者ども……突撃が悪いと!言いたいのだろうが……それ自体が戦争を理解していないことが丸わかりなんだということを理解できていないのだろう。太平洋戦争を詳しく調べずに噂話だけを信じている人間は多いと思うのである。




