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徳川劇場:教えてクソ親父!信長は宗教を弾圧していたのではない!支持勢力の為に敵対勢力を倒していたのである。

信長の行動は宗教が支配していた?


家康先生「前にも述べたように織田信長の父信秀は曹洞宗で葬儀を行っており、萬松寺は信秀が建立し菩提寺としていたので曹洞宗が織田家の宗派だった。曹洞宗は禅宗で同じ禅宗の『臨済宗が幕府御用達の宗派』なら『曹洞宗は庶民に厚く支持された宗派』だった。だからと言って信長が臨済宗を嫌っていたかと言うと違う、何故なら平手正秀のために建立した正秀寺が臨済宗だからである。臨済宗は鎌倉五山オリジナルが衰退してからは京都五山を本拠地としていた。曹洞宗の本拠地は越前国にあった。信長が京都や越前に執着していたのは天下統一の為だけではなく自身の支持勢力の本拠地だったからという見方もできるのである。」


信康「信長を別視点で見ると極めて宗教的な人間になるんだな……」


秀康「武士文化に多大な影響を与えた禅宗だが……禅宗て数が多いよな……」


秀忠「臨済宗は鎌倉幕府で盛んに保護されて繁栄を極めた後に幕府が滅んで衰退するが……足利家『京都支配の道具』として再び脚光を浴びて京都五山を作って繁栄したが……足利幕府衰退とともに再び衰退して苦しい状況になっていたんだよな……」


家康先生「宗教が天皇や将軍を支配していたように感じる人も多いだろうが……実際はそう『単純』な構図では無かった。平安仏教は前にもふれたとおり『仏の化身が日本の神々』だと主張していたが、そう主張するようになったのは天皇家が比叡山のトップに就任するようになったからである。要するに平安仏教は天皇家を中心とした朝廷貴族の秩序構造の一部になったのである。


 奈良と言えば東大寺だと考える人が多いが……それは現代人の思考である。奈良最大の宗教勢力で大和国の支配者と言えば興福寺である。ちなみに明治時代になるまでは興福寺=春日大社でもあった。これは比叡山にも言えることで比叡山=日枝山=日吉大社である。興福寺は元々藤原氏の菩提寺であり、それが権力の源である。


 比叡山は度々『強訴という強権』を発動して日本社会を混乱に陥れたが……強訴とは『日吉大社の神輿』を比叡山から京都に向けて僧侶達が担いで京都に降ろす行為のことである。要するに「神様は御怒りだぞ!」と『僧侶が神の代弁者』をしていたのである。」


信康「日本の宗教は江戸時代になると檀家制度のせいで丸くなるが……江戸時代以前は弱肉強食で信者の奪い合いが激しかったので極めて攻撃的だな!」


秀康「強訴て恐ろしいよな!平安時代、鎌倉時代、室町時代いずれでも強訴が原因で国家が何度も大混乱に陥れられていることからも分かる。」


秀忠「江戸時代になると強訴が無くなっただけ日本が平和になった証みたいなものだな!」


家康先生「そもそも強訴する理由は何なのだろうか?この疑問が信長の比叡山焼き討ちの理由でもある。というのも天皇家(朝廷)や将軍家(幕府)は宗教を政治に利用していても宗教の教義や活動そのものを制限しようという動きをしていたという話は聞かない。これは信長にも言えることで信長が各宗教の布教活動そのものを制限しようとしていたというのも聞かないのである。


 つまり、宗教活動や宗教の存続そのものの危機が強訴の理由では無かったのである!ということは強訴の目的はハッキリ言えば極めて俗物的な理由だと言える。つまり『寺社勢力の政治利権』の『防衛や拡大』が目的だったのである。そして比叡山や興福寺は『その中でも』特に自勢力の為であれば『神』を利用してでも『天皇家や将軍家を屈服』させようと動いた結果が強訴なのである。もしくは自宗教以外を弾圧しようと『宗教勢力が宗教勢力を攻撃する口実』として利用したとも言える。


 我々は『宗教の争いのせいで平和を乱され、苦しめられている!』これが信長の持論だったのではないだろうか?『信長公記』には


『比叡山の山上・山下の僧衆は、延暦寺が皇都の鎮守であるにもかかわらず、日常の行動でも仏道の修行でも出家の道をはずれ、天下の笑いものになっているのも恥じず、天の道に背くことの恐ろしさにも気づかず、生臭ものを食い、金銀の欲に溺れて、浅井・朝倉に加担し、勝手気ままな振る舞いをしていた。』


と書かれている。続きには『けれども信長は、時の流れに従って、ひとまずは遠慮をし、事を荒立てぬよう、残念ながら兵を収めたのであった。』


ひとまず遠慮したのは出来れば比叡山を焼きたくない!という気持ちが信長にあったということである。」


信康「『信長公記』は豊臣・徳川時代に編集作業していて最終的にクソ親父が監修しているから『信長公記』の記述はクソ親父の意見じゃない?」


秀康「現代にある比叡山は江戸時代に再建されたものだし、比叡山は信長の時代になって初めて焼かれたわけでも幕府の敵対者を山に入れたわけでもないから弁解の余地が無いほど真っ黒なんだよな……」


秀忠「自業自得だから仕方がない。」


家康先生「さて、信長に敵対した宗教を見ていこうでは無いか!筆頭が比叡山(天台宗)、次に来るのが石山本願寺(浄土真宗)、高野山&根来寺(真言宗)、興福寺(法相宗)ということになる。味方した宗教は織田家(曹洞宗)、京都五山(臨済宗)、徳川家(浄土宗)、商人(法華宗)、ザビエル(スペイン)ということになる。しかし、この相関図は初期信長期限定である!


 本能寺の変までには大分様変わりする。比叡山は文字通り灰と化して一時消滅する。石山本願寺は石山(大阪)を含む大半の支配地を失って織田家と和平をする形で降伏した。ここから、少し複雑な話になるが……『真言宗の代表が松永久秀』で『興福寺の代表が筒井順慶』だとする場合、両者は信長と同盟を結んだり敵対したりを繰り返していた。最終的に筒井順慶が織田家に降伏して臣従すると大和国を完全支配することが出来ないと悟った久秀が信長から離反したというのが正しい言い方になる。


 フランシスコ・ザビエルは良くキリスト教徒だと超簡単理解バカを日本史は推奨しているが(笑)これは大間違いである。これは世界史の分野に入るが……


 『ルネサンスでサンピエトロ大聖堂を現在の形にしようと免罪符(超高額なお守り)というモノを貧しい人々に売りつけたことで貧困ビジネスしまくっていたカトリックに怒った人々が宗教改革をして出来たのがプロテスタントである。』これに危機感を抱いたバチカンは『イスラム教徒をぶっ殺して手に入れた。(レコンキスタ)イベリア半島のスペインに設立したのがイエズス会である。


 このイエズス会のメンバー(幹部)がフランシスコ・ザビエルである。イエズス会は南米が発見されるとスペインを使って現地住民を強制改宗してキリスト教徒にした。それだけでは足りずにアジア・アフリカにもキリスト教を布教しようとムキムキの筋肉を持ってスペインの軍隊と共にキリスト教を布教しに来たのである。それがザビエルの真の姿であった。」


信康「ムキムキの筋肉は何に使うんだ(笑)」

秀康「スペインの軍隊の護衛まで連れてきているし……」

秀忠「ただ布教に来ただけデース!(フィリピン植民地にしました。)」


家康先生「考えてみればザビエルは危険人物であった。それでもザビエルを味方にしたのは高野山(真言宗)と敵対したせいである。


 鉄砲伝来ルートは種子島→高野山→根来寺→全国である。つまり当時鉄砲と火薬は真言宗が独占的な地位にいたことは間違いない。真言宗と敵対するということは鉄砲も火薬も必要な分が手に入り難くなるということである。これを解決するためにザビエルを通してスペインから購入したというのが正しい見方であろう。


しかし、信長もバカでは無いので!堺と近江で鉄砲を国内で量産していたし、火薬もスペイン以外から調達しようと動いていたはずである。当然ザビエルことスペインにとって無視することの出来ない脅威となり始めたのである。」


信康「信長から見てザビエルは邪魔な存在だよな!仏教徒同士でさえ殺し合いしていて面倒臭いのにイエズス会まで入り込んでくると収拾つかなくなるから!いずれはイエズス会を追い出すつもりだったに違いない。」


秀康「そう考えるとザビエルがスペインに向けて書いていた書状も説明がつくな!」


秀忠「皮肉なことに6年後にはスペインは衰退ルートに突入するのですから因果応報だな!」


家康先生「最後に法華宗の話をしよう、法華宗というのは法華宗の方々には悪いが……日蓮や法華一揆というのを考えるに非常に攻撃的な宗教というイメージが拭えない宗教である。そんな法華宗は商人達から厚く信仰されていた。


 と言う風に書けば察しの良い人は分かるかもしれないが!信長のやった楽市楽座で一番利益を得たのは実は法華宗ということになるのでは無かろうか?逆に楽市楽座で損し始めたのが比叡山や石山本願寺である。これは各宗教ごとの支持層や形態に原因がある。


 比叡山は言うまでも無いが……旧態然とした領地収入がメインの宗教である。特に大きかったのが京都の出入り口にあるという立地である。もしくは近江国の交易路を支配することで生まれる莫大な利権である。これらは領地に設置した関所から手に入るものであった。この関所を廃止しようというのが楽市楽座である。


 石山本願寺は比叡山と敵対することが多くあり、実際に旧本拠地の山科本願寺は焼き討ちされている。石山本願寺の支持階層は一般庶民ということになる。政治権力者層の支持は薄かった。浄土真宗は『悪人正機説』からも分かる通り罪人からも支持されていた。領地からの収入には頼らず、信者からのお金をメインに成り立っていた。信者からのお金は『豊かな信者から貧しい信者へ』流すことで貧しい信者を豊かにしようというのである。また寺を中心に城塞化して信者専用街を形成して『街の運営で利益を上げる』と言う共同体作りが上手かったという特徴も持っていた。


 まさに戦国時代の申し子という存在であり、戦国時代に爆発的に支持層を増やしまくっていたのである。信長の楽市楽座政策は浄土真宗の持つ強大な自治権(運営権)に干渉する非常に厄介なものであった。要するに「関所を設置するかどうかは!俺たちが決めることだ!!」と考える人々にとって信長は邪魔だったのである。」


信康「浄土真宗は良い宗教に聞こえてしまうが!革命思考が強くて武士層からは評判が悪かった。儲けることを重視する商人層からも忌避されていたことも察せられる。婚姻を認めていて開祖の血族である本願寺家が寺を支配する構造という特徴もあって支配者層から支持は弱いんだよな……」


秀康「日本の宗教も支持層分けがあって主に支配者層御用達、中間層御用達、庶民御用達の三つに分かれるんだよな……南都六宗の法相宗、天台宗、臨済宗なんかは支配者層メイン、曹洞宗、浄土宗などは中間層メイン、法華宗、浄土真宗は庶民メインということになる。」


秀忠「実際、信長の葬儀は臨済宗、秀吉とクソ親父の東照宮は天台宗という風に宗派の使い分けもしていた。」


家康先生「信長の支配地域は日本の大動脈である東海地方である。この地域のもたらす富が比叡山・高野山・興福寺・石山本願寺の利益に直結していた以上は対立は避けられなかったのであるが……回避しようとしなかったのは信長の支持勢力が信長を後押ししていたからである。だから信長が仏敵になるのを恐れなかったのでは無く、『自分の信仰勢力からは仏敵にされていない』以上は気にする必要が無かったのである。


 戦国時代は極めて宗教的な時代でもあったのである。また、日本は当時、今で言うところの産油国みたいなものでヨーロッパ人が喉から手が出るほど欲しいモノが溢れていた国である。特に金銀は『日本銀』に代表されるように当時世界でも有数の産出国であった。後には銅や石炭も豊富にとれる国で今でも金と石炭に関しては実は沢山地下に眠っている国である。この当時では絹・茶が中国以外で豊富に生産出来る国でもあったので非常に魅力的な国だった。だから世界中の国が日本に押しかけてきていた。


 信長がイエズス会に対して『主導権を握れた』のも彼らが『涎を垂らして欲しいモノ』があったからなのである。(明は鎖国政策のせいで外国(特に西洋)とは貿易をしたがら無かった。当時ヨーロッパの弱小国力では明に勝てるはずもないので「開国してくださーい!」は無理だった。)」


信康「開国してくださーい!しても日本にすら勝てないレベルだったのだろうな……」

秀康「後に日本は明と戦争して明が財政難に陥るほど打撃を与えていますしね……」

秀忠「日本も無傷ではないがな……」


家康先生「最後にもう一つ!重要なことは将軍家御用達の臨済宗が信長派だったことである。これは足利義昭が興福寺のトップ派閥である一条院のトップだったことと関係ありそうである。将軍は力が弱くなると自分達と同じで弱体化する臨済宗を見捨てていた感じだったのだろう……だから臨済宗は同じ禅宗の織田家の側に付いたと思われる。


 各宗教の思惑も絡んでいた!これが戦国時代の真実では無いだろうか!! 」

こうして考えると信長て極めて宗教的な人間だよな……と思います。現代の日本の宗教とは違う世界観だったことを考慮しないと真実は分かりません。

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