徳川劇場:教えてクソ親父!最近明智光秀が持て囃されているが!本当に明智光秀は天皇家を救ったのか?
光秀と言う人物は謎が多い!そういう意味では面白い人物なのかもしれません。
家康先生「日光東照宮には土岐氏の家紋が施されている。春日局が明智光秀の家臣斎藤利三の娘だったためにワシと明智光秀を結びつける考えが存在したりする。しかし、それらは俗説の域を出ないデタラメな話である。それと同じように明智光秀が尊皇や終わった将軍を助けるために決起したなどと言うのも俗説である。にもかかわらず何時の間にか真実であるかのように大河ドラマで語られるようになったのが不思議で仕方がない。」
信康「クソ親父は本能寺の変の時に堺(大阪)にいたらしいが……伊賀越えなんて嘘みたいなエピソードを作ってる辺り怪しさ満点だよな!」
秀康「本能寺の変の情報は信長軍全体に伝わるスピードは以前ほど差は無かったということになってきていますが……それでも養父の素早さには関心します。」
秀忠「本能寺の変の時の決断の違いがハッキリと運命を分けたのは恐ろしいと思います。」
家康先生「本能寺の変の時点で北条家は織田家と同盟(屈服)しており、伊達や最上も織田家に貢物を捧げている状態だった。上杉家は柴田勝家が越中を攻めてただけではなく、森長可が上杉家の本拠地である春日山城を攻撃している最中だった。中国地方では毛利攻めが大詰めを迎えており、信長本隊の到着待ちだった。四国は堺の港から討伐軍が出撃する最中で、九州と同じく秀吉の時よりも長曾我部も島津も力があるとは言えないレベルだった。もう既に織田家の天下統一は秒読みと言う状況だったのである。」
信康「俺を殺してまでして臣従してたくらいだしな!」
秀康「信長兄さんを怒らせたら怖い怖いなんだろう!」
秀忠「怖くてガクブルだな!」
家康先生「よく勘違いされがちだが足利幕府は健在で将軍不在でも将軍代理である織田信長が幕政を牛耳っている状態だった。織田家は一説によると足利御一門の斯波氏を継承しており、血縁関係も濃厚なので征夷大将軍に就任可能だった。それでも信長は源氏の代表では無く、平氏代表として朝廷との交渉を続けていた。そのため関白の地位を要求していたのではないかと噂されていた。」
信康「織田家は平氏だったな!」
秀康「平清盛の意思を受け継ぐ者」
秀忠「北条執権家も平氏だしな……」
家康先生「織田家は信長の父信秀時代から朝廷に莫大な献金をしており、天皇の葬儀代や伊勢神宮の建設費用を出すなど極めて尊皇な家柄で朝廷の最大の擁護者が織田信長であり、信長最大の支持勢力が朝廷だった。織田信長が足利義昭と対立した時も朝廷の信長に対する『支持は揺るぎない』もので、信長と朝廷の蜜月関係は本能寺の変を前にしても変わらず、信長は二条御所を朝廷に献上し、朝廷も『信長支持の皇太子』を次期天皇として内定させていた。」
信康「織田家は元は越前の神社の神主の一族だよな……」
秀康「元をたどれば天皇家を尊重するのは自然な流れですね。」
秀忠「信長は越前の領有に拘っていたし、将軍より朝廷だからな……」
家康先生「ただし、朝廷側にも危機感が生まれてもいた。もし信長が関白の地位に就けば五摂家が独占していた関白職が藤原氏一門以外に渡る羽目になるからである。さらには関白就任後に将軍足利義昭と和解して将軍職を禅譲させる可能性すらあった。もしそうなれば関白と将軍両方を信長が就くという事態になりかねなかったのである。」
信康「現代まで誰も実現してない夢と言える。」
秀康「そう考えると現代でも革新的だよな!『天皇制を無くすことを考えていた!』なんて意味不明な事を平気で書いている学者もいるが……信長の前後の行動と態度を見ていて天皇制に否定的な発言は一切無いし、蔑ろにしていたなんてことは無い。ハッキリ言うと個人への冒涜に近い意見である。」
秀忠「現代でも天皇制を無くすことに積極的な人間は少数派なのに当時最も尊皇に近い考えをしていた信長が天皇制に否定的だったとは考えられ難いよな!」
家康先生「信長は無神論者だったなどという意味不明な考え方も存在するが……信秀が曹洞宗の寺で葬式をしている。桶狭間の戦い時には『熱田神宮』にお参りしているし、信長は平手正秀の為に正秀寺を建立していて、岐阜命名の時も『僧侶』に意見を聞いている。以前正信の所で話があったように信長は法華宗の寺に泊まることが多かったうえに本能寺は法華宗総本山である。本人も『安土宗教論争』で宗教への政治の介入に積極的であった。織田家が神社の神主の一族という経緯も含めて考えて信長が無神論者というのは無理があり過ぎるのである。」
信康「『比叡山焼き討ち』は先例がいくつか存在しているよな!特に元比叡山のトップで将軍になった足利義教が焼き討ちした時は激しかったことで有名である。」
秀康「松永久秀は『東大寺を焼き討ち』しているが……彼の本拠地である信貴山城は『真言宗の聖地』で真言宗は最後まで久秀に味方していたほど仲が良かった。甥はキリスタンだが彼自身はキリスト教に帰依するのを拒否しているし、キリスタンを京都から追放したりもしている。」
秀忠「比叡山は浄土宗や法華宗、曹洞宗や臨済宗と敵対しており、特に浄土宗や法華宗に対しては僧兵を使って虐殺を繰り返していた歴史がある。言うまでもないが……織田徳川連合は比叡山と敵対する宗教勢力を支持基盤としていた。」
家康先生「そう信長は宗教面において『中立とは程遠い人物』だったのである。京都の寺に行くと『菊の紋章』と『三つ葉葵』を見ることになる。前者は臨済宗や曹洞宗に多く、後者は浄土宗である。現在もそうだが……昔は『神仏習合』だから今以上に天皇家と寺の結びつきは強力だった。日本で宗教を信じることは天皇家を信仰することと同義語である。信長が宗教を信じている以上は天皇制を支持しているということなのである。」
信康「サラッと三つ葉葵を入れてくるな!」
秀康「浄土宗は『三つ葉葵』を前面に押し出してますからね!」
秀忠「どこの家の家紋だったかな?」
家康先生「本能寺の変が起きる前後の話を深堀していくと!佐久間信盛の失脚があった。これが1580年である。比叡山焼き討ちばかりが注目されがちだが(笑)これは1571年で本能寺の変は1582年である。これらの事件で一番得した人間がいるとしたら!言うまでもないが!!明智光秀である。比叡山焼き討ちでは主要な役目を負った武将の中に光秀はおり、反対したと言いながら『積極的に焼き討ちに参加』した上に叡山から『奪い取った領地を一番貰った武将』である。光秀の出世は遅くなるどころかスピードアップし!外様家臣でありながら城持ち大名に逸早く出世して持ち城の坂本城は『安土城に次ぐ豪華な城』で佐久間信盛が失脚すると後釜に就任して『近畿地域を管理する軍団長』と呼べる存在にまでになっていた。」
信康「あのさぁ……光秀て……どう考えても信長の腹心だよね……」
秀康「そう聞くと真っ黒な奴だよな!」
秀忠「正信先生もビックリな腹黒さである。」
家康先生「面白いことに本能寺の変の直前に失脚した佐久間信盛の息子信栄が追放先の高野山から帰国し、信忠の家臣として織田家に復帰している。父信盛が死んだというのもあるが……息子の信栄も実は信長から名指しで批判されていたにも関わらず復帰しているのである。どうやら本能寺の変前に『佐久間家の名誉回復の兆し』が出ていたことになる。この時点で『佐久間家は没落していたわけではない。』加賀国は佐久間盛政が信長に任されていたし、柴田勝家の息子も佐久間家出身だったからだ。何よりも佐久間家は織田家に代々仕える家老の家である。信栄の地位の回復も夢では無かった。」
徳川三兄弟「ざわ…ざわ…ざわ…ざわ…」
家康先生「信長は天下統一が近づくと親族や譜代家臣の重用へ舵を切り始めていた。武田討伐は信忠、四国討伐は信孝に任せた。バカ殿で有名な信雄は伊勢の名門北畠氏を相続していて伊賀まで任されていた。秀吉には養子として信勝という信長の息子がいた。その他の息子達も順次出世が決まっていた。柴田勝家は譜代、前田利家も丹羽長秀もそうである。池田恒興は信長の義兄弟で本願寺を退去させて手に入れた『大阪』を任されるという大抜擢を受けていた。森長可や森蘭丸など森氏も譜代である。滝川一益は外様だが信忠の家老で信忠からの信任が厚かった。」
徳川三兄弟「ざわ…ざわ…ざわ…ざわ…」
家康先生「光秀も土岐氏出身で信長の正妻の血縁者だった。不穏な空気が漂い始めていたように感じられるが……それは後付けとも言える。もし本当に光秀に悪い噂があったのならワシを始め多くの者が光秀に同情する部分が出てくるはずだし、誰も本能寺の変を聞いて驚くことは無いだろう。しかし、実際には皆にとって『寝耳に水』だったということは……逆に言えば……如何に光秀が信長の腹心だと周囲から思われていたかを推し量ることが出来る。」
信康「光秀に悪い噂が流れているのに光秀の接待を受けるというのは冷や汗ものだろうな!(笑)」
秀康「生きた心地がしなかったでしょうね!(笑)」
秀忠「俺ならガクブルで顔が真っ青になるな!(笑)」
家康先生「ワシの接待役の逸話でいろいろ言われているが……憶測の域を出ない話であることは忘れてはいけない。近畿地方に信長に対抗出来る勢力が事実上いなくなった状況であり、四国は信孝、中国地方は秀吉が担当していたが……大詰めで残るは九州のみとなっていた。まさに『狡兎死して走狗烹らる』と言える状況になっていたのである。秀吉と光秀は共に苦しい状況に追い込まれていたので両者の対立は高まるばかりであった。その最たる例が四国を巡る『三好VS長曾我部の戦い』に対する信長の考えが二転三転したことからも伺えるのである。この争いは秀吉の勝利に終わった。そして本能寺直前には佐久間家の復権が始まってきたのである。」
信康「三好が強かった時は長曾我部と同盟を結んでいたのに……三好が弱くなると名門三好氏が持つ中央との強力なコネ、瀬戸内海の水軍、四国における影響力が欲しくなってきた信長は三好氏と同盟を結ぶことにした。まさにエゴの塊という感じだな!」
秀康「この時期に養父は三好氏に接近し、養子縁組の話を進め始めていたと言われている。もちろん織田家の人間を!ということだったが……この案は後に三好(豊臣)秀次と言う形で秀吉政権に莫大な利益をもたらすことになる。」
秀忠「秀吉は備前の宇喜多家を掌握するなど後の天下統一の下準備を推し進めていた感じがする。柴田勝家も同時期に上杉氏と和平交渉をしていたが勝家は秀吉と違って和平を結ばなかったんだよな……」
家康先生「光秀の年齢も重要な要素だったかもしれない。信長が49歳、秀吉が45歳である。滝川一益が57歳で上野に移されて悲壮感が漂い始めていたことを考えると光秀も苦しい部分が生まれていたのではないだろうか?そう考えると光秀も50を過ぎていた可能性が高い。光秀の脳裏には韓信がチラついていたに違いない。そう考えるとカエサルとも重なる。カエサルは51歳でルビコン川を渡ったのだから!」
信康「ルイスフロイスは本国スペインに『信長は強敵だ!アルマダ(無敵艦隊)を日本に派遣してくれ!!』なんて書状を送っていたらしい。フロイスが光秀にカエサルの事を教えていても可笑しくない。」
秀康「生き残る上で光秀の選択肢は狭まってきていた。忠義を尽くすか?それとも挙兵するか?足利尊氏や新田義貞を心の中で思い浮かべていた可能性も高いな!」
秀忠「韓信や呂布のようになる可能性を考えなかったのだろうか?裏切りはリスクが高い!光秀には正義を主張するほど大義名分があったようには思えない。それとも英布や義経の気分だったのだろうか……」
家康先生「後の経過を見るに緻密に計画された戦略があったようには思えない。根回しと言う意味では一番味方になりそうな細川藤孝や筒井順慶を味方に出来なかったし、『長浜にいた秀吉の家族』や『信雄や信孝』を倒すことも出来なかった。堺にいたワシを含めて他にも多くのチャンスがあったが……光秀は逃す羽目になったからである。もっともワシにとっても絶好のチャンスを逃す羽目になったという意味では非常に残念な出来事でもあるがな……」
信康「こんな時に頼りになる息子が生きてたらなぁー良かったのにな!」(怒)
秀康「私はまだ幼い故に何も出来ませぬが……」
秀忠「クソ親父が死ななくて良かった?」
家康先生「もし秀吉が中国大返しをせずにモタついていたら?というifを考えた場合、実は『伊賀越え』を達成して猛烈なスピードで軍勢をかき集めて『山崎の戦い』までに尾張まで進出してきていたワシが光秀を打つことになっていても可笑しくなかった。だから信雄とワシは後に大同盟を結んで秀吉に対抗することになるのである。このスピード競争に負けて『人生の大勝負は時間が重要』ということをワシは学んだのである。」
信康「柴田勝家、滝川一益、織田信雄は光秀を打つ力があったが何れも秀吉と違いモタついて失敗した感じだな……」
秀康「毛利も秀吉を倒すチャンスという意味では大きかったが……間に宇喜多家がいることと後の好待遇を考えれば一番得した勢力と言えるな!」
秀忠「クソ親父!またもや天下を逃す!!実は何度目の失敗なんですかね?」
家康先生「実は本能寺で信長を殺せたことは凄いことで、信長は何度も命の危機に瀕した時に脱兎のごとく危機的状況から脱出して命を長らえて反撃に転じて勝ってきた人物である。後に天下人となった秀吉は信長の事を『信長を殺すには軍勢の最後の一人まで殺さないといけない!何故なら信長様は最後の最後の一人になるまで逃げ続けるからだ!』と言っているくらいである。さらに凄いことに本当は逃げだせるはずだったのに逃げずに二条御所に立て籠もる選択をした息子の信忠まで打つことが出来た。これも大戦果と言えるだろう。だがこれが光秀の最後の幸運だったとも言える。」
信康「何でか知らんが?信長の息子信忠はパパ大好き子だったよな……」
秀康「信長は息子に優しかったからな!」
秀忠「どこかの親父と違ってな!」
家康先生「本当に明智光秀は天皇家を救ったのか?の答えとなる出来事が二つほど本能寺の変前後に起きることになる。一つ目は皇太子を始めとした皇族達が二条御所にいる信忠と合流しようと動いていたことである。日本史だと天皇家は平和的な面ばかり強調されてツマラン存在だが(笑)実際には好戦的な面も沢山あったのである。これは信忠によって断られたため実現はしなかった。次に『光秀勝利後』に光秀が朝廷を訪れても朝廷は光秀に『非友好的で全く光秀に協力しようという雰囲気が生まれなかった』ことである。ただし、京都が大混乱に陥っていたので治安維持を光秀に求めるだけはした。つまり『自分達は協力しない』が『おまえは協力しろ!』という訳である。」
信康「義経の例や承久の乱などの経験で早急に動くことに警戒をしていたとも言えるが……それにしても朝廷の光秀に対する態度は冷たいよな……」
秀康「根回しが無かったことの現れでしょう、反信長派の朝廷貴族も多数いたが……近衛前久を始めとした勢力は光秀よりも徳川と友好関係を築いた。」
秀忠「信長にベッタリで信長信者だと思われていた人物が突然裏切ったから皆仰天してドン引きした感じだな!」
家康先生「京都の民衆は皆喜ぶどころか『また戦乱の世が来る!』と恐怖で震えあがって家に引きこもるばかりで光秀を褒める者はいなかった。これはローマのカエサルが殺された時のローマ市民の態度と重なる部分が多い、現代の我々の考え方と違って信長は皆に愛されていて庶民には優しかったので多くの者が信長の死に衝撃を受けたのである。」
信康「京都周辺には敵がおらず、信長の天下が決まったと考えて完全に平和モードに突入していた京都では光秀の行いは寝耳に水だったんだろうな」
秀康「大内氏、細川氏、三好氏など信長以前に京都に入った連中は横暴で京都の町を破壊するだけだったのに対して信長は京都の町を破壊せずに京都の人々を厚く保護していたからな……」
秀忠「そんな信長を殺した奴に協力的になるほど不義理な奴は少なかったのだろう」
家康先生「光秀は自分が世間から浴びるはずだった大歓声を得られ無かったことで意気消沈し、動きが鈍りだしてしまう。それでも安土城に兵を送るなどの行為はしていたが……光秀自身の兵以外に集まる気配が出ないまま秀吉の軍勢が来るのを待っていただけとなってしまう。戦力に大きな差が生じた状態での戦闘に勝ち目など最初から無かったとも言える。結果光秀は敗れたのであった。」
信康「秀吉はほぼ全ての戦力を引き連れてきたうえに有り金全てを部下達に配るなどして多い士気を高めたと言われている。後に黒田官兵衛は秀吉の行いを真似ることになるほど非常に上手い策略だよな!」
秀康「光秀の軍勢のうち光秀の息子の率いていた一万ほどが安土城にいたことを考えると光秀の戦略面での失敗が目立つよな!」
秀忠「王允が呂布を裏切らせた後、一時的に朝廷を掌握するものの体制を整える前に李傕らに反撃されて敗れてしまった。裏切りによるクーデターは成功させるのは非常に難しい。」
家康先生「カエサルを倒したブルートゥスらが英雄と言われずに人々の憎悪を受けることになった。人々の軽蔑の目が厳しいので彼らはローマから逃げ出したのである。彼らを擁護したキケロは孤立し、最終的に殺された。カエサルの葬儀を行うことに躊躇いを感じたアントニウスは葬儀をしなかった。その結果いまだ18歳の若き青年であるアウグストゥスに『葬儀の権利』を奪われてしまう。同じことが本能寺の変の後にも起きた。信長を倒した秀吉は正統な後継者の不在を利用して信長の葬儀を大々的に京都で行った。その結果として秀吉が『信長の後継者』として京都市民に認知され、秀吉は権力を手に入れたのである。『信長の後継者』を名乗りながら秀吉は『信長の息子達と妻達』を次々と殺していった。いつの間か天下人の地位は『信長から秀吉へと上書き』されたのである。まさに『天下の簒奪』だった。」
信康「カエサルの例が『カエサルの仇を討った者』が勝者になったのではなく、『葬儀をした者』が勝者になったのに対して信長の例は信長の直系子孫では無く『信長の仇を討ち葬儀をした者』だったのは皮肉だよな!」
秀康「丹羽長秀、蒲生氏郷、池田恒興らは養父こそが『織田家の天下を守る者』だと信じていたが……実際は『織田家から天下を簒奪』したのが養父だった。池田恒興は小牧長久手で焦るあまりに大失敗をして敗死してしまう。丹羽長秀は一説には養父を非難して自害したと言われている。丹羽蒲生両家は後に『用済み』になると大幅な縮小を命じられたので豊臣家を恨み両家とも徳川家に組した。池田は言うまでも無いだろう。」
秀忠「丹羽家は不運なことに関ヶ原で西軍に参加せざる負えなくなる。西軍に付くと思われた前田家が南下してくると丹羽家は前田家に戦いを仕掛けて両者は激突した。関ヶ原が終わると前田家は「我々は東軍に付くことにしたら丹羽が攻撃してきた!」と主張して無罪となった。その結果、丹羽家は改易されたが!後に大名家として復活して加増ラッシュの末に関ヶ原前の状態まで戻った。そして子孫は明治まで続いたのである。」
家康先生「光秀を褒めるのは間違っているが……光秀の起こした『本能寺の変』のお陰で我らが徳川家は大いに繁栄することが出来たという意味では明智家を徳川家が優遇することになった原因が分かるであろう?実際に明智家は大名を出したし、現代まで子孫が存続しているのだからな!大河が光秀を褒めるのであれば是非とも秀吉の悪行も描いて欲しいものである!!」
明智光秀のお陰で得したのが豊臣秀吉、徳川家康、毛利氏、島津氏だとすると……後の天下を取った勢力全てが光秀のお陰なんだな!と思います。




