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徳川劇場:教えてサドの神!韓信が勝利した日本と敗北した中国、何が日中の文化の違いを生んだのか?

長い話になり過ぎた。韓信が生き残れた世界があったら中国の歴史は大きく変わっていたと思うのです。


正信先生「韓信と言えば『国士無双』の人として知名度が抜群です。『背水の陣』が韓信由来の言葉となっています。また『狡兎死して走狗烹らる』と言えば韓信を思い浮かべる人も多いでしょう。『狡兎死して走狗烹らる』から連想される『敵国滅べば功臣も不要になる』は後世の様々な人物に多大な影響を与えました。しかし、この言葉が独り歩きした結果、『韓信=可哀そう』が定着し過ぎたとも言えます。今回は韓信が何故自滅しなければいけなかったのか?を皆さんと考えていきましょう。」


秀康「韓信は考え方によっては劉邦より貧しい立場にいたが軍法や戦い方を身に着けてはいた。元は農民より偉い身分の出身なのかも知れない。」


富正「サルですら読み書きが学べましたし、朱元璋(洪武帝)は親兄弟が死んでいても寺に入ることで読み書きが出来ました。最近はサルは『低い身分』じゃなかったなんて言うバカも多いですが…西洋社会と違って東洋では身分が低くても教育を受ける機会は非常に多かったのだと思います。」


成重「浄土宗の教祖である法然も親と死別してたりするからな……『親がいない=教育を受けられない』というのは明らかに間違った見方である。ちなみに項羽は家柄が高く親族も教育水準高いのに『読み書き』が下手だったと言い伝えがある。(笑)」


正信先生「そうですね、韓信は劉邦とソリが合わなかったように言われていますが……史記に登場する劉邦の部下の中では最も劉邦に近い立場だったようにも見えます。なのにどうして?劉邦と韓信はソリが合わなかったのか不思議に思います。しかし、よく考えると劉邦は幼い時から親の為に農作業をしていましたし、成長してからは周囲にいる人々を助けるべくリーダーシップを発揮して苦労を重ねていました。つまり忍耐強く勤勉な労働者だったのです。対して韓信はロクに働かずに他人の家に何年も居座り続けた挙句に追い出されたほど不真面目な奴だったのです。本人は『武人になるためだ!』と言い訳していましたが……本望では無いことは一切せずに自分の望んだことしかしない忍耐強さとは真逆の性格だったのです。この忍耐強さの無さは後に韓信自身の最大の欠点となります。」


秀康「韓信は何年も親代わりに養ってくれた亭長夫妻よりも自分を見下していた男や一瞬だけ飯をくれた同情婆さんの方に恩を感じていたくらい薄情な奴だからな……」


富正「長年養ってくれた恩よりも追い出された恨みの方が大きかったのでしょう。後者の二人が後に身分不相応の褒美を貰ったのに対して長年の恩のある亭長夫妻には冷淡な所に韓信の不寛大な部分が凝縮されています。 」


成重「必死になって『韓信の股くぐり』を『大義の為の忍耐』だと美化しているけど……成功してからの奢れぶりを見ていると忍耐力があったのか? 疑問に感じるな 」


正信先生「その延長線に『蕭何への異常な信頼と尊敬』があります。国士無双とは蕭何が劉邦に韓信の必要性を説いて犯した罪を帳消しにするように懇願した時に使った言葉だと言われています。これで韓信は蕭何に恩を感じるのですが……本来、一番恩を感じるべきなのは劉邦に対してだと思いませんか? 蕭何はナンバー2であって主君ではありません。劉邦を説得する力はあったかもしれませんが……最終的に決断したのは劉邦なのです。後の大抜擢も蕭何のお陰と韓信は信じていました。しかし、この大抜擢の裏には蕭何が自派閥の強化を狙う意味もあったのです。というか韓信の下には蕭何の右腕である曹参がいました。蕭何は成功するか分からない作戦の総大将を曹参にするのを恐れていたとも言えます。自派閥以外の者がなると困るのでスケープゴート(生贄)として韓信を推薦したとも言えます。よく考えてみれば蕭何には韓信に恩を売る打算的理由があったのです。それに対して総大将が曹参だろうが韓信だろうが全ての責任を背負う劉邦が許可したことの方が遥かに凄いことなのです。」


秀康「確かに……韓信は恩を感じる相手を間違えている感じがするな……」(正信先生が言うと凄い説得力)


富正「いますよね~ナンバー2の力を過信し過ぎてナンバー2の言った言葉をナンバー2の言葉だと思っていて主君を蔑ろにする奴」(意味深)


成重「怖い!怖いぞ!!我は発言を控えさせてもらうぞ!」


正信先生「韓信が劉邦に恩を感じ難い理由は様々ですが……一つハッキリ言えるのは『劉邦を馬鹿にしていた。』ということです。韓信は最初項羽陣営に行っていますし、劉邦軍に流れてきた理由は『自らが活躍出来る居場所』を求めてというもので『劉邦の同志』としての熱意はありませんでした。そう考えると一つの矛盾が生まれます。もし劉邦が韓信に対して本当に無下に扱っていたのであれば後の大抜擢は無かったのでは無いでしょうか? というのも劉邦と蕭何の関係は初期の頃から『主君と家臣』の関係でした。要所要所で蕭何は劉邦に従っていますし、蕭何が劉邦に逆らったことは終始ありませんでした。劉邦が呂雉と出会う時にも劉邦の行動を後押ししております。これは常に冷静で抜かりの無い蕭何にしてはウッカリミスをしているように見えますが……権力争いの渦中に常にいて中華統一後も不動のナンバー2を守り続け『引き際』すら中国の歴史上最も美しい蕭何がウッカリミスするはずがないのです。つまり一連の韓信に対する蕭何の行動は本人の打算的な理由だけではなく、その先には劉邦の深謀遠慮があった可能性が高いのです。」


秀康「正信先生が言うと真実味が増すのが怖いです。」


富正「常に周囲から狙われる立場にいるのでウッカリミスは命取りになります。ずっとナンバー2を守っている人は間違いなくクセ者なんですよね。」


成重「面倒くさい!自分の思っていることを口にして何が悪い!!」


正信先生「韓信は『背水の陣』で大勝利を収めてからは破竹の勢いで河北を制圧します。これで調子に乗った韓信に部下の蒯通は劉邦と和平を結んでいた斉に対して「劉邦は停戦を正式には韓信に連絡していない!」と言って韓信に斉への進軍を進言しました。これを受け入れた韓信は斉へ攻め入り瞬く間に斉を制圧するとともに斉に救援として来た項羽軍に対して圧勝します。益々強気になった韓信に蒯通は『独立して三国鼎立を実現し、ゆくゆくは中華を統一しましょう!』と提案します。しかし、韓信は劉邦への忠義を貫くとして斉王の地位を劉邦に要求するだけに留めて独立はしませんでした。」


秀康「斉に無断で攻め入り始めた辺りから韓信の暴走が始まっており、造反する気配が濃厚になり始めていた。蒯通は『斉攻め入り』を韓信が受け入れた時点で『賽は投げられた!』とルビコン川を渡った気分だったに違いない。しかし、韓信は増長しているだけで劉邦を裏切るほどの勇気は無かったというのが実際のところだろう。」


富正「この時に劉邦は斉に攻め入ったまでは許しても斉王の地位まで要求する図々しさに我慢の限界がキタようで珍しくブチ切れていますよね。ここで漢王朝の二大策士である張良と陳平が「今は!!(強調)認めるべきだ!」と進言すると劉邦は冷静さを取り戻して韓信に寛大さを見せつけているのは関心します。」


成重「関ヶ原の時に伊達政宗が南部家へ無断で攻め入ったように韓信の行為は明らかに謀反の疑いがあった。九州平定目前まで行っていた黒田官兵衛は関ヶ原の勝利を聞くと進軍を止めて家康様に従った。この両者は何れも関ヶ原後に家康様に『謀反の疑いあり!』と睨まれているのを知っていたので徹底して恭順の姿勢を見せて『裏切りません!!これ以上の恩賞を求めません!』ということを強調することで幕末まで伊達家と黒田家は繁栄を手に入れたのである。それを考えると韓信は自分のやった行為を客観的に見れておらず……危機意識に欠けていたように見える。」


正信先生「みんな韓信にならない為に韓信の例を教訓にして行動しています。逆に言えば韓信の何が悪いかを考察することは後の歴史上の人物の行動を考えるのに非常に重要な意味を持っていると言えるでしょう。韓信の悪いところは一に決断力が無く、優柔不断で勇気が無い。二に自分の行動を客観的に認識していない上に主君から見た自分を理解していない。三に忠誠心を第一と考えるのであれば野心的な行動は控え、劉邦の考えを優先すべきである。ということになります。これが出来ていないので韓信は斉王に就任後は大きな活躍をすることなく、項羽が敗れる間ずっと二心に揺れることになります。周囲から見れば明らかに韓信は『隙あらば劉邦に反逆する』意思があるように見えていたのは確実でした。」


秀康「自分で判断して果敢な決断が出来ない辺り、韓信は将としては優秀だが……指導者向きでは無かった。斉王になると王になっただけで満足してしまい将軍としての役割も十分に担えなくなってしまう……どっちつかずで優柔不断さが目立ち始めてきた。」


富正「元々『項羽を倒すために河北を制圧せよ!』というのが大将軍抜擢の理由だったのに……項羽を倒す前に二心を抱き始めるあたり、劉邦からすれば信用ならん男に見えていたでしょう。王になったことで家臣と言えるかも微妙になっていたりと自ら難しい立場に率先して入っていたにも関わらず……認識が甘かったとしか言えませんね。」


成重「元々ニートなのでコミュニケーション能力は欠如していたように感じられる。しかし、成功し過ぎていたために自分の立場は安泰だと思い込み過ぎていて自分の欠点を認識せずに周囲からの情報収集を怠ったのは致命的ともいえる。」


正信先生「劉邦は非常に寛大でした。項羽を倒すと韓信の『罪を問い正すことはせず』に『守りやすく従いやすい斉を捨てさせて、大きくて守り難く劉邦に従いやすい楚』の国を『代わりに与える』ほど優遇しました。(笑)この辺りに張良と陳平の策略が働いていたように感じられます。この領地の交換を易々と呑んでしまうあたりに韓信が『自分が疑われている。』という自覚の無さが伺えます。しかも『斉は自力で勝ち取ったが楚は劉邦からの過剰な贈り物』という重大な違いに気づかなかったのも致命的だったように感じられます。ここで守りに入り、徹底して劉邦に従う姿勢を見せていれば歴史は大きく変わっていたかも知れません。しかも劉邦陣営は韓信を切る予定を最初から決めていた訳ではなく、むしろ融和の為に劉邦直参の家臣達を韓信の元に送り込んで韓信との融和を模索していたことを伺える逸話も多数残されていたりしました。この辺に家康ちゃんとサルの関係になるような努力をする余地が残されていたように思えるのです。」


秀康「勘違いされがちだが……父上は養父に対して養父が生きている間は徹底して謙虚に従っていたという事実を忘れてはいけない。というか養父の天下取りの最大の貢献者であり、直接血の繋がった親族だった点は重要である。(秀頼の母は茶々姫、秀忠の妻であり家光の母は茶々姫の妹)」


富正「もしがあるなら……韓信は楚王になった時点で劉邦との血縁を作ることを模索するべきだったと思います。そうした行為は世界的に見ても珍しく無いです。」


成重「韓信が自分の状況を認識していたのであれば……中華統一を含めて何を望んでも実現できる立場になっていた……そういう意味で韓信は絶好のチャンス到来の時期に無為に過ごし始めていた。劉邦とは真逆の人間性が露呈したと言える。」


正信先生「劉邦の望んでいた理想的世界は統一王朝による支配の下で幾つもの連合国家が共存する今で言うところの合衆国のような国家の実現でした。これが当時の最も現実的で誰もが損をしない社会の実現の第一歩だったのです。しかし、平和を維持するためには統一王朝である漢王朝が盤石な支配基盤を持つことが求められていました。秦と比べると漢は発足時には先の大戦の被害と遊牧民の侵入に悩まされていました。そのため劉邦は統一を成し遂げると始皇帝と同じく匈奴に攻め入らざる負えなくなったのです。これが劉邦最大の失敗に繋がっていきます。世にいう『白登山の戦い』で歴史的大敗北を味わう羽目になったのです。これは未だ盤石とは言い難い漢王朝の支配体制を大きく揺るがす出来事となりました。また、この辺りから劉邦は自信喪失し、持っていた心の余裕を失います。」


秀康「劉邦は別に始皇帝を超えるために匈奴に攻め入ったというよりは攻め入らざる負えない状況になったから攻め入ったと考えるほうが良いだろう。この辺に実は後の三国時代以降の歴代中華王朝の苦悩と滅亡の原因が見えてくる。『白登山の戦い』は単なる漢王朝の事件と言うよりは現代まで続く中華の苦悩と『過剰な異民族への支配』を正当化する象徴的な事件となったと考えるべきだろう。」


富正「統一後に海外に攻め込むのはリスクが高いですね、秀吉が明と戦争したのも劉邦と似ているが……違いは不必要な戦争を仕掛けたことです。このせいで豊臣政権の権威は失墜しました。始皇帝の統治は短かった!なんて教える人が多いですが……豊臣政権は始皇帝の統治期間よりも短命だったという事実を考えると外征の失敗は滅亡と直結すると考えるべきでしょう。その点を家康様は理解していたからこそ海外との戦争は避けたのです。」


成重「中華は異民族に悩まされたことだけ強調しているが異民族に負ける理由の大部分に国内の権力闘争が原因ということが多いと思うのだ。」


正信先生「劉邦は白登山の戦いで敗れたことが原因となり、疑心暗鬼が高まったことで王に任じられていた者達を粛清するようになり始めていました。こうした中で韓信の友人が劉邦に疑いを向けられたことで韓信の元に逃げてきます。韓信は友人を快く向かい入れますが……劉邦が韓信に友人を引き渡すように要求してくると呆気なく友人を劉邦に差し出そうとします。この裏切り行為に友人は韓信に「おまえもいずれこうなる!」と言い放ちます。その言葉の通り劉邦は友人を呆気なく見捨てた韓信の行為を見て『トカゲの尻尾切り』だと考え韓信を処刑しようとしますが韓信が「狡兎死して走狗烹らる」などと言い放つのを聞いて余りの韓信の小物ぶりに気分を良くしたのか劉邦は領地の『大幅な縮小のみ』で韓信を許してしまいます。」


秀康「小物ぶりが評価されて生き残ることに成功したのは流石韓信と言えるのではないだろうか?」


富正「後に劉備が曹操の疑いを晴らすために「雷が怖い!」と言ってブルブル震える演技をして命拾いしたように時には小物ぶりをアピールするのも大事でしょう……」


成重「ただ韓信の場合は苦し紛れの一言だったような気がするがな……」


正信先生「この縮小で韓信は反乱を起こしても大きな脅威にはならない程度にまでなっていたので大人しくしていれば一度許された以上は劉邦が死ぬまで生きていられたかも知れませんでした。しかし、韓信と言う男は陳豨という有力な将を味方に引き入れて大反乱を画策します。この反乱は成功寸前まで行くのですが……蕭何の策略により阻止されてしまいます。最後に韓信は「蒯通の言うことを聞いておけば!」などと余計なことを言って死んでいきます。」


秀康「三国鼎立は後に三国時代に実現することになるが……韓信が自滅しなければ三国志のようになっていた可能性もあった。」


富正「もっとも韓信に従っていた兵士の多くは元秦の国民であり、所属して将軍たちは劉邦に忠誠を誓っていたので韓信が反乱したところで彼らが従った可能性は低かったと思います。」


成重「韓信は『成し遂げた偉業』があれば皆自分に従うと思っていたが……明らかに正義とは言えない状況下での不忠行為には皆従わないことが多い、反乱した理由も『自分のため!』みたいなところが透けて見えていたのも周囲からすれば印象が悪かったに違いない。」


正信先生「劉邦は韓信の裏切り以降、ナンバー2の蕭何に疑いの目を向け始めます。韓信の大抜擢の功績が『劉邦では無く蕭何』にすり替えられていたのではないか?と考えたのです。だから韓信は劉邦を信頼して忠誠を誓わずに蕭何に忠誠を誓っていたのではないか?そう考えると韓信の反乱を阻止したのではなく、勝てないと考えて自分の野心がバレないように隠蔽するために韓信を殺したのではないか?と考え始めたのです。」


三人「ガクガク((( ;゜Д゜)))ブルブル」


正信先生「劉邦の読みの鋭さは凄いと言えます。この劉邦の態度の急変を逸早く見抜いた蕭何は劉邦の疑いの目を逸らすために悪政を行って自らの評判を落としたり、全財産を国庫に寄贈するなどの手段を用いることで粛清から逃れます。さらに劉邦が死ぬと後を追い、自らの後継者に曹参を任命することに成功しました。真実は別として……蕭何のサバイバル術は後世の主君VSナンバー2の争いの一つの完成形として後に多くの人々に影響を与えたと言えるでしょう。」


秀康「ナンバー2として絶大な権力を持っていることで奢れて『李斯みたいにならず』に自分の派閥から後継者を出したうえで粛清されずに最後まで人生を全うしたのは凄いことだな……」


富正「史記を読んだ全てのナンバー2の理想的な姿の一つとして讃えられる姿ですね。」


成重「最後に悪政をするのは……どうかと思うが……そのくらい本気で抜かりなくやらないと生き残れない世界なんだな……」


正信先生「蕭何は見事に韓信という罠を見抜いて生き残りました。逆に韓信は『ナンバー2の権力の元』が何なのか?を理解せずに蕭何を妄信的に信じたところに限界があったと言えるでしょう。韓信の粛清後、韓信と似た立場にいた上に新参者の英布という人物は韓信よりも遥かに処世術に優れていて何の問題も起こさずに疑いを持たれることなく生き残っていましたが……韓信が粛清されたことでパワーバランスが崩壊し、その結果として自分(英布)が危ういと感じてしまいます。そう感じてしまった英布は遂に劉邦に対して反乱を起こします。この反乱は孤立無援の状態でしたが……劉邦自らが指揮を執って戦わなければならないほど英布は漢王朝に対して善戦します。劉邦は言いました。「何故反乱したのか?」それに対して英布は言い返します。「後で粛清する気で最初から仕組んでいたんだ!」英布と劉邦という二人の英雄が激突した結果、最終的には劉邦が勝ちますが……劉邦は英布が与えた傷が原因となって劉邦は死んだと言われています。」


秀康「韓信が英布と同じように処世術に優れていたのであれば英布も反乱せずに済んでいた。そしたら江戸時代のような皆が仲良く生き残れる世界が出来上がっていたかもな……」


富正「漢王朝側の力が諸侯を上回ることが無ければ呂太后が劉邦の死後に暴れることは無かったかも知れませんね。そうなっていれば江戸時代コースだったかも……」


成重「劉邦は完全な統一国家の実現よりも合衆国のような国家を目指していた部分はあった。しかし、完全な統一国家になったことで今の中国になった感じだな……」


正信先生「始皇帝は49で亡くなっていますが信長も49で亡くなっております。劉邦がサルなら……韓信が家康ちゃんというところだと思います。英布は前田利家ですかね……家康ちゃんは『私の支え』(←ここ重要)もあって忍耐強く我慢したからこそ!天下を取れたのだと思います。」


秀康「曹操が董卓の下で、劉備が曹操の下で機会を窺いながら忍耐強く我慢した期間があったのも韓信を教訓にしていると言えるんだろうな……」


富正「時が来るまで忍耐強く耐えられる強靭な精神力が求められるのは何時の時代になっても同じことなのでしょうね。」


成重「最近は家康様が勝利したことを素直に褒めるのが可笑しいような風潮があるが……じゃあ誰が勝ってれば良かったんだ?他の奴ならよりよくできたとでも思っているのか?天邪鬼というか節穴のような変なのが多い気がする。」


正信先生「三国志で劉備が『桃園の誓い』の誓いとは『偉大なる漢王朝の復活』でした。劉邦が負けていたら?劉邦の親友が敵に殺されていたら?という問いかけに対する答えは実は三国志における劉備の行動が教えてくれています。まさに『桃園で始まり、白帝で終わる。』なのです。劉邦の邦は『劉氏の末席』という意味があります。曹参の参は三男坊のことです。名前からして一族の下の方にいた劉邦達が押しあがって中華を統一したという事実を忘れてはいけません。夏侯嬰の分家筋は孫氏を名乗ったと言われています。つまり孫堅の祖先でもあります。後に三国時代で勝利して中華を統一しながら短命で終わる晋王朝の司馬氏は始皇帝の家臣で劉邦の家臣の家でもありました。この素晴らしい王朝が滅んだ後に異民族の攻め込みで唐王朝の登場まで暗黒時代を中国は彷徨うことになります。劉備が勝っていたら良かったは裏返せば『劉邦が負けなくて良かった』になるのです。」


秀康「劉備が乗った馬車を引く曹操と馬車を守るように孫堅、司馬懿を含む三国志の英雄達の軍勢が漢を作ったと考えると熱い物語だが……逆に言えば彼らが仲たがいして争ったのが三国時代だと考えると悲しいな……」


富正「三国志は三国志単体で語られることが多いですが……前後の出来事を理解したうえで見ると本当に悲しい物語ですよね……」


成重「三国志に限らず日本の戦国時代も前後を理解すると全く見え方が変わると思うのだ……」


正信先生「日本と中国を分けたものとは何か?それは『和』です。日本は幾つもの国と諸侯が作った連合国家であり、明治維新までは常に有力な権力者が複数いる状態が続きました。現在でも地元意識や関東VS関西の争いがあります。首都が東京になったことで現代では関西人が関東人から独立しようとしているように見えますが……歴史を見れば平将門の乱、承久の乱などは関東側が仕掛けた関東独立戦争と見るべき部分があり、関西人からの独立を狙っていたのは関東人の方でした。中国と違って中央と地方のパワーバランスが常に一定に保たれてきたことが日本と中国の違いとも言えます。イチかゼロかではなく、皆が納得できるように配慮する社会というのが自然と出来たのが日本とも言えますね。」


秀康「足利幕府の将軍は本来は鎌倉に常駐する予定だったが……尊氏が西国大名の支援で新田義貞を倒したり、三河を中心(足利氏の二大拠点は下野と三河である。)とした東海地方が権力地盤だったことから南北朝の争いもあって京都から離れられなくなってしまった。その結果、南北朝が終わると関東の独立戦争が頻発してしまい統一権力としての力が弱かった。これが応仁の乱を引き起こしたとも言えるしな……」


富正「そのことを理解していたからこそ家康様は江戸に将軍が常駐するようにしたとも言えますしね……」


成重「足利幕府の直轄地が少なすぎたことも原因だしな……軍事力が無さ過ぎたんだよ……」

徳川家康と韓信は似ている部分が多い、お互いパシリであったが韓信は我慢強く無く虚栄心の塊だった。徳川家康は我慢強く虚栄心を隠すのが上手かった。それが二人を分けた。

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