徳川劇場:教えてサドの神!真逆の人生を送った二人のリアルなろう主人公『項羽と劉邦』
長い!メッチャ長い!!でも『項羽と劉邦』の偉大さを説明するのには不十分過ぎます。でも、まぁ小説ですので致し方ありません。
正信先生「名門の出だが没落の憂き目に合いながらも23歳で決起してから無敗の項羽と農民の子で嫡男でも無く、40過ぎのオッサンだった劉邦の戦い!それが『項羽と劉邦』です。」
秀康「一族の力で伸し上がった項羽と烏合の衆を『まとめ』た劉邦の戦いだな!」
富正「いろいろな意味で人によって解釈が変わり、時と共に見方も変わる感慨深い話ですよね。」
成重「どちらも実力主義的だが…こうも実力主義への解釈に違いが生じるのも不思議だよな…」
正信先生「偉大なるナンバー2(苦笑)の商鞅が『法治主義』の名の下で『法を徹底した。』ことにより秦は法と秩序を重んじる近代国家へと変貌し、封建主義的で古臭い国家を圧倒していきました。にもかかわらず、秦は中華を統一出来ずに苦戦していた中で…秦の始皇帝は実力主義に基づく徹底した人材登用を行うことにより、中華統一を成し遂げてしまいます。始皇帝は天下統一後も実力主義的な統治を辞めることなく、むしろ、さらに徹底したものへと変えていきます。それが現代の世界の統治制度へと繋がっていくというのは凄いことです。しかし、見方を変えれば、始皇帝は身内すらも信用せず、全ての者を疑い常に監視する制度で『己のみが絶対的な存在』となろうとしたとも言えます。」
※商鞅は偉大だったが…最後はナンバー2の宿命とも言える『主君との対立という問題』からは逃げきれずに悲惨な最期を遂げている。しかもそれは『他国のスパイを発見』するために自らが施行した法律のせいで自分が逃げる時に捕まったためであった。「法を為すの弊、一にここに至るか」という言葉を商鞅は残している。ちなみに正信先生も偉大なるナンバー2である。
秀康「最大の実力主義者が始皇帝というのも皮肉だよな…」
富正「商鞅に対する扱いを考えると中々天下統一出来なかったのも納得かと……」
成重「始皇帝は恐ろしい…今の世にも通じるものがあるな……」
正信先生「前回、始皇帝の死が原因で帝国は崩壊したと言いました。しかし、本来は始皇帝のナンバー2だった李斯は健在でした、李斯が張高と結託しようとせずに…張高を切り捨てていれば…秦帝国は滅亡せずに済んだはずでした。それが出来なかったことが李斯の運命を決定付けたと言えるでしょう。(断言)出来なかったのは李斯自身が張高と同じように『自分が始皇帝』を支えたんだ!自分が始皇帝なんだ!!という奢れからきていたのは間違いありません。その奢れが油断を生んだのです。だから張高に敗れたのです。あくまでもナンバー2はナンバー2だと心得ておかなければなりません。主君が死んだら自分も潔く死にましょう!」
秀康「いやいや、正信先生は大切なお方なのでご自愛ください!!」
富正「愛すべき主君と共に死ぬ!これは素晴らしいことですね…(遠い目)」
成重「なんで自分が死なねばならんのじゃい!忠義は行動で示してこそだろ!!」
正信先生「偉大なる著作『史記』は主君VSナンバー2の壮絶な戦いの物語であり、主君は何をすべきか?ナンバー2は『どう生き残るか?』を書いた本でもあります。その壮絶な戦いのクライマックスであり、『史記』が最も優れている『君主とナンバー2』の関係として定義している関係が描かれているのが『項羽と劉邦』が登場する楚漢戦争なのです。これは漢帝国にして歴代中華皇帝で最も偉大な皇帝の筆頭格とされる『武帝』に仕える側近であり、自らも『チンコ切る刑』(ジョークでは無い。)を受けるという屈辱を味わいながらも『史記』を書くために生き永らえて『史記』を書きあげた司馬遷の哲学と言えます。それを話していきたいのです。」
秀康「お、おう…」
富正「愛すべき主君に仕えるは最大の喜びです!」
成重「主君の過ちを正すのが臣下の役割だろ?」
正信先生「ところで、劉邦という人物は40過ぎまで何をしていたのでしょうか?度々描かれるエピソードと後に成し遂げたことを考えると『日々を無為に過ごして安寧を求める』人物とは言い難い人物です。しかし、項羽のような己の実力を過信し、他人を無下にするタイプの人間でもありません。やること成すこと全てが矛盾している人物とも言えますが…」
秀康「始皇帝も項羽も『実力主義の権化』的な存在だからな…」
富正「一番実力で底辺から伸し上がった人間が実は一番実力主義の真逆のポジションにいるのも不思議ですね。」
成重「実力主義が蔓延し過ぎて収拾つかないから革命を起こした感じだな…」
正信先生「劉邦出身の沛県は宋の領地でしたが宋が滅ぶと斉・楚・魏が支配を巡って争っていた地でした。沛県の人々は国に所属している意識は低かったと思われます。劉邦や劉邦の父親などは何となく楚の支配下にいたけど…いつの間にか秦の支配下に入った?程度の認識だったのではないでしょうか。その程度の曖昧な認識から突然、国から役人が送られてきて「国家の為に働け!」と言われて今までにない様々な重税を支払わされる羽目になって初めて劉邦を始めとした沛県の人々は『国とは何なのか?』を考え始めたのだと思います。」
秀康「戦乱の世とは言え、農村部では戦にさえ巻き込まれなければ適当に生きていられたからな…」
富正「それが突然、戦乱が終わると『平和になって良かった!』とはならずに『税金払え!』になるのですから困惑するでしょうね。」
成重「適当に生きてさえいれば良かったのが『税金払う』ために苦労するようになったら怒るだろうな…」
正信先生「項羽とは真逆ですね。項羽の一族である項氏は戦国の雄である楚(三国志の呉を二回り以上大きくした国)で代々将軍の位をだしていた大貴族であり、項羽は項燕という始皇帝の軍隊を一度破った上で最後まで秦軍を苦戦させて壮絶な死を遂げた将軍の孫でした。ですので国に所属している意識は非常に高く、間違いなく愛国主義者でした。そして国が滅んだことで一番損をしただけではなく、秦に祖父を殺された恨みまでありました。」
秀康「恐ろしいほど真逆人生だよな……」
富正「兄弟がいたという話は聞かないので兄弟がいて後継ぎでもなければストックでも無い、タダの労働力要員の劉邦とは雲泥の差ですね。」
成重「今の世では項羽は若くして伸し上がったのに若くして死んだから人気があるが…当時の人々からは不人気だった理由も分かる気がする。」
正信先生「劉邦は『亭長』(警察分署長)くらいには出身していますが…反秦連合前の話は時系列が不明な点が多く40年以上の期間という長い時間の中での出来事です。たぶんですが…戦乱と秦による統治により、旧権力層の失脚と年功序列的な理由での出世だったと考えられます。ただし、後の呂太后こと呂雉との出会いもありました。呂雉との結婚は身分差結婚であり、この辺のエピソードを聞くと劉邦の野心家としての一面を見ることが出来ます。劉邦は仕事に忠実では無く、その日暮らしをしていましたが…これらは後に非常に重要な意味を持ってきます。」
秀康「有意義な生活や人生を過ごしていることが必ずしも常に勝者の生き方とは限らない。」
富正「でも、要所要所で無為に生活しているだけの人なら『絶対にしない』ことをしているのが野心的な行動と言えますね。」
成重「あの呂不韋の親戚と結婚する辺り頼朝公と同じ匂いがする。」
正信先生「史記は漢帝国の書き物であり、武帝の時代は儒教支配が強まっていましたので劉邦を野心的人物として描きすぎるのはタブーだったのでしょう。それでも劉邦の野心的な行動を書くのは無能過ぎると困るのと司馬遷の反骨精神からきているのかも知れませんね。(笑)」
秀康「後の劉備や曹操とも相通じるものがあるよな…まぁ『史記』を読んで劉備や曹操などの英雄たちは行動を決めているし、それは日本でも同じだがな…なので比べることが失礼だけどもね。」
富正「史記は現代ですら政治家や経営者なら必読書と断言していいレベルの本ですしね……当然、私含む戦国時代や江戸時代の武士にとっては聖書なんですけどね。」
成重「偉大過ぎて草も生えない。」
正信先生「そんな劉邦が窮地に立つ時がきました。始皇帝の命令で沛県の人々が文字通り総動員の名の下で働ける男性を根こそぎ始皇帝陵建設に動員させる命令が届いたのです。この命令を実行するのに当たり、皆を始皇帝陵に送り届ける係として劉邦が抜擢されます。送り届けると言うと簡単そうに聞こえますが…始皇帝は『人が少なかったら死罪、人が一人でも欠けても死罪、一秒でも遅れたら死罪』と言っていました。これは文字通りの意味であり、必ず実行される命令でした…これは一人でも不届き者がいてもいけないし、道中の不慮の事故死も許さずに遅刻せずに来いということです。」
秀康「ムリゲーすぎませんか?」
富正「現代ですら遅刻欠員は普通に出るのに…」
成重「まるで太閤のような酷い奴だ!」
正信先生「案の定?劉邦達が出発した後直ぐに『渡るはずの川が雨で大氾濫』してしまいます。その瞬間、劉邦達の運命は決定してしまいます。劉邦らは死罪の運命に震えながら近くの山に入り、そこで無為に時を過ごしていました。「ああぁ人生\(^o^)/オワタ」と言った感じでしょうかね。そんな時です。『王侯将相いずくんぞ種あらんや!!』と言う名言と共に劉邦と同じく山に籠っていた陳勝さんと呉広さんが秦に対して公然と反旗を翻したのです。まさに「どうせ死ぬのなら!戦って死んでやる!!」という『自ら自爆』宣言という感じです。」
秀康「追い詰められた民の反撃、まさに窮鼠猫を嚙むだな…」
富正「どうせなら一発ブチかましてやる!ですね。」
成重「はっはっどうせなら反発してやるだな。」
正信先生「劉邦は当初懐疑的でしたが…自分が山を降りてみると、何と!続々と山から降りてくる群衆を目にするのです。そう、陳勝や呉広だけでは無く、劉邦だけでも無い。文字通り国中の山という山から人々が降りてきたのです。皆一様に興奮して「一発秦にブチかましてやる!!」と叫んでいました。これを見て劉邦はビックリするとともににチャンス到来を感じたのです。」
秀康「恐ろし過ぎる。」
富正「民は怖い」
成重「そうだぞ!民を虐げちゃいかんのだぞ!!」
正信先生「これを聞いて慌てふためく秦朝、それでも張高は言います。「命令する!鎮圧せよ!!」今や宰相李斯が死に…息子扶蘇が名将蒙恬が死んでいたにもかかわらず…張高の命令で秦の将軍『章邯』率いる討伐軍が差し向けられます。その結果、陳勝と呉広は成すすべもなく、簡単に秦軍の前に敗北してしまいます。ここで滅ぼされずに大反乱の首謀者を倒してしまうところが死してなおも『始皇帝の作った帝国』の強さを表しています。しかしながら一度起きた反乱は止まりません。遂には項燕の親戚でる項梁を始めとした元戦国の国々の軍人や王族までもが反乱に加わって反乱は急拡大します。それでもなお秦軍は項梁率いる反乱軍をボコボコにして敗走させて項梁を打ち取る大戦果をあげます。それでもなお反乱は止まりません。」
秀康「強すぎる秦軍、世界史でも、ここまで末期でも耐え抜いた帝国があるのか?というレベルで強いよな…」
富正「粛清で人材枯渇の上に優秀な人は雲隠れしているか反乱に加わっているかという状態でもですからね…」
成重「どんだけ強いだよ!後のモンゴル帝国『元』ですら朱元璋(洪武帝)の反乱で倒れたというのに……」
正信先生「ここから項羽の快進撃が始まります。この時、20前半という年でしたがカリスマ性を抜群に発揮し始めてミラクルを起こしまくって章邯率いる秦軍を敗北に追い込みます。しかし、項羽には寛大さが無く、無慈悲な性格であることが露呈します。何と秦軍の兵士達を皆殺しにしてしまったのです。秦軍とは言え、末期であり、始皇帝陵建設をしていた人々も含まれていたのにも関わらずです…この辺、同時期に快進撃をして秦の首都である咸陽付近の要塞を落とした際に秦軍の兵士(文字通り秦本国人)をアッサリと許して助けた劉邦とは対照的でした。」
秀康「両者の違いがハッキリし始めてきた。」
富正「劉邦の方が上手な感じですね。」
成重「どこぞの極悪人と同じ匂いがするぞ!」
正信先生「ところで、この頃、秦でもミラクルが起きていました。扶蘇の息子である子嬰が張高らを倒して秦朝を本来あるべき姿に戻すことに成功していたのです。子嬰は、とても有能で民に優しかったので民からは絶大な支持を得ていました。秦の民は「王は戻った!」と歓喜し、「今こそ王の為に戦おう!」と咸陽に迫る反乱軍を向かい打つのですが…皮肉にも、その迫っていた反乱軍を率いていたのが劉邦だったのです。秦の民の抵抗は凄まじく、劉邦軍にも多数の犠牲者が出ました。しかし、劉邦は勝利が決まったあと、項羽と違い捕虜を殺さずに許し開放しました。これを聞いた子嬰は偉大なる秦の首都咸陽を守るために徹底抗戦せずに劉邦に都を明け渡すことを決めます。こうして慈悲深い名君と後の高祖劉邦が出合い意気投合します。劉邦は子嬰を許し、子嬰に約束します。「秦本国は秦本国に最初に入った者が手にすると言われている。私は項羽に子嬰殿こそが正しき秦の王であると説得したいと思います。」これを聞いて秦の民は再び歓喜します。」
秀康「何だか涙が出てくるな…あの偉大なる秦朝…最後に再び輝き出す辺りが悲し過ぎる。」
富正「もし、扶蘇が皇帝になっていたら…その次も名君確定だったというのは凄すぎますね。」
成重「始皇帝は偉大なり、扶蘇も子嬰も偉大なり、仕える者も偉大だった…どうして滅んだのか…と悲しくなるな……」
正信先生「さて、ここから『項羽と劉邦』の直接対決が始まるのですが…その前に劉邦は項羽が来る前に咸陽で秦国人の歓待を受けます。『一度でいいから試しに座ってみよう』という悪戯心から始皇帝の玉座に座った時でした…『項羽と劉邦 king's war』という中国のドラマでは、この時の劉邦の表情が描かれていますが…この時劉邦は人が変わったように表情を硬くし、玉座から見える壮大な風景を目にして考えを変えます。まさに「皇帝と下民は違う!俺も皇帝になりたい!!」と考えたのです。こう決断した後に劉邦の動きは正に野心的でした。側近の蕭何からの進言を聞き入れて『宝物殿には手を付けずに秦朝の書庫にある大事な書物を持ち出す』という策に出ます。これは項羽は宝物殿が無事かどうかは気にするが…書庫に置かれている書物には目もくれないだろう……という考えから来た策でした。」
秀康「宝物よりも書物というのは凄いな…」
富正「莫大な財宝が宝物殿にあるのはサルでも知っていますからね。それよりも税収の記録や施行された法律の内容、秦帝国が集めた各地の地理や天候に関する情報の方が重要という蕭何の進言を聞き入れたのでしょう。」
成重「情報は何よりも重要だからな!」
正信先生「劉邦は当初、鼻息荒く息巻いて函谷関に兵を送って項羽軍を向かい打つ構えを見せますが……項羽軍の勢いを見た劉邦は『君主豹変す』の古事通り、危機一髪のところで勢いに乗る項羽との戦いを辞めます。この辺、様々な憶測があるものの劉邦の臨機応変で高い危機察知能力を垣間見ることが出来ます。さすが高祖!!という感じです。項羽の方は当然劉邦を疑いますが……劉邦は『全ては項羽様にお任せします!』と謙虚な姿勢を貫いて項羽の疑いの目を逸らすことに成功します。」
秀康「この時、戦っていたら間違いなくボロ負け確定だからな……」
富正「200%!慈悲は無い!!何せ、圧倒的に有利になった後でさえ何度も負けてますからね。」(遠い目)
成重「項羽強すぎ!そして劉邦の回避能力も高すぎ!!」
正信先生「項羽は劉邦を許しても子嬰は許しませんでした。彼を殺し、偉大なる秦朝を滅ぼして咸陽を焼き払いました。ここに紀元前9世紀から約700年近くにわたって続いた王国が消滅します。秦の民は余りの出来事に涙し憤慨して復讐を誓ったのです。項羽からすれば復讐だったのでしょう……しかし、よく考えれば何故項羽は生き永らえていたのですか?各戦国の国々の王家や名族も生き残っていました。その首都の多くも戦火で被害は受けていても完全には消滅させずに復興まで秦はしてくれていました。そこまで寛大だった秦に対して項羽は憎さだけが先行して真実を忘れていたのでは無いでしょうか?」
秀康「咸陽は、春秋戦国時代の前の周王朝の首都だった鎬京の傍でもあったし、項羽にとっても本来重要な都市だったのに破壊してしまったのは憎さと自分が一番乗り出来ずに劉邦に嫉妬したからかもな……」
富正「この時、劉邦は、どんな思いだったのでしょうね。」
成重「ほくそ笑んでいたような気もするが……そこで悲しまないようでは高祖じゃないよな!」
正信先生「項羽は浅はかでした。秦を破った自分なら咸陽さえ焼いて秦の国力の中心たる渭水地方さえ劉邦から取り上げさえすれば劉邦を封じ込めれると考えていたのです。しかし、咸陽は秦の首都であるとともに中華における歴史的な民族の中心地であり、そこにあった安房宮を始めとした数々の建物は中華全土の民のモノでした。それを容赦なく焼き払ってしまう行為は項羽の覇王としての凄みを見せるとともにカリスマ性の消失を意味していたと思います。つまり人望が消えてなくなったのです。」
秀康「偉大なる周王朝は鎬京を犬戎という蛮族に奪われたことで衰退し、戦乱の世をもたらした。その鎬京の地を再び中華の支配下に取り戻し、咸陽という名前で復活させたのが秦である。項羽の行いは間違いなく過ちである。」
富正「西楚の覇王と名乗り、覇王の代名詞として名高い項羽らしいと言えば聞こえはいいですけどね。」
成重「まるで『北斗の拳』のような出来事であるが、これが現実に起きたことなんだよな……まさに『国破れて山河あり』だな……皮肉にも千年の後の同じ地で起きたことを詠んだ詩なんだよ。まさに歴史は繰り返す。」
正信先生「渭水の地を失った劉邦は三国志で言うところの正に蜀漢の地に移封させられます。この地にある漢中の地で『漢中王劉邦』を宣言します。ここに中華史上最も偉大で漢民族の語源となった漢朝が誕生します。その頃、項羽は楚の王族の末裔で名目上の君主だった義帝に対して酷い扱いをします。「俺は西楚の覇王なり!何をしても許させるのだ!!」と言わんばかりの態度に秦滅亡で再び復活し独立した各戦国の国々は反発し、項羽を覇王と認めずに反乱を起こしていくことになります。これに劉邦は乗じて渭水の地に侵攻します。ここに楚漢戦争が勃発するのです。」
三人「渭水の地を守っている者達はいなかったの?」
正信先生「実は渭水の地には章邯を含む三人の王がいました。うん?と思ったと思います。章邯とは秦の将軍の章邯!?そうなんです。実は章邯は生き残っていて渭水の地を領地を与えられていたようです。しかし、かつての偉大な将軍の面影はありませんでした……秦の民は章邯を含めた三人の王を『祖国の裏切り者』と罵り、皆こぞって漢に協力するので三人は呆気なく敗北し、渭水の地は劉邦の手に転がり込んできたのです。秦の民は漢の民となって再び中華統一を目指して劉邦に全面的に協力していきます。」
秀康「秦の国土に劉邦を王とする漢が出来ただけ……」
富正「その劉邦は一応は楚の人で項羽の支配下の出身」
成重「皮肉過ぎていて恐ろしいな……」
正信先生「さて、項羽と戦うのは良いとして……元々貧民の寄せ集め集団にしか過ぎない漢軍には圧倒的に有能な人材が不足していました。特に数十万単位の軍隊を動かすとなると漢には難しい問題が山積みでした。そこで劉邦は項羽の支配下にいた『一兵卒の何の実績も無い』韓信という人物を登用します。あまりの事態に劉邦に初期から仕えていて将軍にまで出世していた部下たちは驚いて憤慨します。しかし、劉邦の読みは当たっていました。韓信は項羽との直接対決は避けて三国志で言うところの河北地域に侵攻します。ここを巡る戦いで伝説の『背水の陣』で有名な数々の戦が行われて漢軍は無敗の勢いで河北を征服してしまいます。」
秀康「韓信キターこれで勝ったも同然じゃん」
富正「まだ早いかと……」
成重「又くぐりの韓信、ただ飯食らいで働きもせずに妄想ばかりほざいていた奴が大活躍」
正信先生「これで勝てたら楽だったんですけどね……漢軍が項羽本隊と戦うと項羽の圧勝が続くという謎現象が多発します。ミラクル連発されまくって何度も項羽に劉邦は命を奪われそうになったり、本国を失いそうになるのですが……こちらもミラクル連発で回避します。まさにミラクル対決!!」
三人「なんだソレ……」
正信先生「この間、韓信は次第に戦いを辞めて軍勢の進軍を止めて様子見を始めます。明らかに裏切りの兆候を示し始めるのです。これを見た劉邦は驚き「項羽を倒してくれたら楚をあげるよ!」と言いますが韓信は首を縦に振りません。劉邦は憤慨するも周りの家臣達に諫められて「斉も一緒にどう?」と劉邦が言うと、やっと韓信は劉邦の味方に付くことを決めて項羽を攻撃します。しかし、なおも項羽は勝利を続けますが…元々本拠地にしていた場所が交通の要所過ぎて防衛に不向きなだっただけに劣勢に立たされます。家臣は「本拠地を移した方が良いです。」と言います。しかし、項羽は本拠地は移さないし、次第に傲慢さが益々強まった為に遂には叔父の項伯にまで裏切られてしまい。追い詰められてしまいます。家臣が言います。「追い詰められたとはいえ、我らの支配下は大きいです。ここは一旦逃げて別の場所で態勢を立て直しましょう!」しかし、項羽は逃げることを潔しとせず本拠地に籠ったまま籠城戦を続けます。」
秀康「項羽ってバカなの?と思いつつも、そこが項羽が項羽たる由縁だよな……」
富正「誰の意見も聞かず、己の力のみを信じる。それが項羽」
成重「西楚の覇王、ここに極まる。」
正信先生「遂に項羽は漢軍に自ら突撃し、そこでも無双ぶりを漢軍に見せつけますが……命運は遂に尽きます。そんな時です目の前に元自分の部下が現れると言い放ちます。「漢は私の頭に千金と一万戸の邑を懸けていると聞く、旧知のお前にその恩賞をくれてやろう」まさに項羽ですね。」
秀康「漢の中の漢だな……」
富正「まるで真田幸村のようですね。私が打ち取りましたけどね(笑)」
成重「大坂の陣は大変だった。」
正信先生「中国ドラマの『項羽と劉邦 king's war』では勝利後、皆で喜んでいる姿が映しだされますが……これまた意味深ですよね。特に劉邦の妻である呂雉などはドラマでは『なんだ、この良妻は!?』と言いたくなるほどメッチャ良い妻なんです。後の呂太后として世界史でも屈指の悪女とは思えません。劉邦もドラマだけ見るならば最高の名君であり、始皇帝越えまった無し!という感じですが……」
三人「ですが……」
正信先生「劉邦は後に名君要素しか無い息子を虐げ、英布や韓信といった功臣を次々と粛清し、始皇帝が圧勝した匈奴に『白登山の戦い』で大敗北を喫して、かの有名な冒頓単于に全面的な降伏をして以後『武帝』の時代まで漢は匈奴の属国と化してしまいます。後継者を立てなかったので鎌倉幕府のように外戚である呂太后の一族に、危うく帝位を奪われそうになったりもしました。まさに孫権並みの晩年で暗愚ぶりを見せます。孫権と違って王朝は長く続きましたけどね。」
秀康「項羽と劉邦って日本で言うところの『足利尊氏VS新田義貞』に似ているよな……」
富正「新田義貞は強かったけど……不利で可哀そうな立場に追いやられた結果ですから違う部分も多いですけどね。」
成重「いろいろな意味で『史記』の内容は考えさせられるよな……」
正信先生「ただし、忘れてはいけないのは韓信に関しては『無名な状態でありながら大抜擢』された恩を忘れて軍を私物化し、己の利益しか考えない態度が要所要所で見られていました。劉邦からして見れば韓信は明らかに不忠で身分不相応な領地を持っていたように見えたのは間違いありません。盧綰、樊噲、蕭何、曹参、夏侯嬰、張良などの主要な家臣達は生涯を全うしており、少なくとも劉邦とは対立せずに終わっています。その子孫から後の曹操や夏侯惇などが登場してきたと考えれば劉邦は『本当の家臣』のために英布や韓信を粛清したのだと言えます。」
秀康「譜代の家臣のために外様家臣を粛清したと言えるな……」
富正「江戸幕府は、外様の為に親藩や譜代を粛清してますけどね(白目)」
成重「是非にも及ばずだ!」
正信先生「面白いのは秦が中華統一後、項羽らが秦を滅ぼすも秦の本国の地に出来た漢が元秦の民を率いて再度中華を統一したことです。後に『飛将軍』と名高い李広は秦の将軍李信の末裔だと言われています。つまり、秦の始皇帝に仕えた家臣や名族は生き残り、劉邦に仕えて中華統一に貢献していたという事実が見えてきます。やはり、秦は偉大な王国で始皇帝は超絶凄い化け物だったということが証明されてしまったとも言えます。」
秀康「始皇帝死してこそ偉大さが上がり続けているな……」
富正「始皇帝が不老不死を求めたのを笑いつつ今だに不老不死を求める馬鹿な金持ちが多いこと……」
成重「いつの世も浅ましい人間は多い、科学的に不老不死が可能かどうか以前に浅ましさが目立つ行為だよな」
正信先生「ただ、始皇帝よりも劉邦が優れていたのは単に有能な人間の言うことを聞いていたのではなく、相手の誠実さや人間味を観見して相手への態度を変えたことです。相手が老いて無能になっても相手を見捨てようとしなかったことも重要です。また匈奴との戦いに負けた後は自らの限界を理解し、『戦争を求めずに平和を求める国民』の声を重視して国の経済を重視した政策に切り替えたのも有能さの表れと言えるでしょう、それが後の武帝へと繋がっていったのです。」
中国ドラマを見ていると日本の大河ドラマの作りが箱庭モノでスケールが小さくなりすぎていて泣けてきます。仰々しくも偉大な人物を偉大な描き方で描くことは大切です。
鎬京、咸陽、長安、そして西安へと名前を変えました。西安は西安事件で『日中戦争』の国民党の蒋介石が拉致られて共産党と手を組む羽目に陥り、後に日中戦争の混乱に乗じた中国共産党が中華を統一してしまいます。そういう意味で日本と深い関わりがある地です。
『史記』は後の『後漢書』『三国史』へと繋がりました。日本では『平家物語』『太平記』へと繋がり、明治維新の原動力ともなった水戸黄門で有名な徳川光圀の『大日本史』へと繋がります。それは明治維新の影響を受けた『三民主義』で有名な孫文へ、孫文の弟子が蒋介石であり、毛沢東です。
『史記』を正史と言い、正史を作ることが正当な中華の支配者と言われています。中国共産党は現在、自らを正当な政府と主張するために正史を編集中だと言います。そういう意味でも日本と史記は切り離せません。




