徳川劇場:教えて数正先生!徳川最強伝説⑤~三河物語に愛されし広忠公~
最初は広忠公が実は優秀でした!という方向性にいこうとしたんだけど…どうしてこうなった…
数正先生「家康以前の松平家の人間で一番三河物語に愛されたのは広忠公です!」
三人「ええ?!」
数正先生「三河物語では『先祖代々伝わる、お慈悲、お情け、おん哀れみ、とくにすぐれていた!』と大絶賛しています。どこか機械的で形式的な言葉で書いていた面があった先代達に比べて随分肩入れしている感が強いと感じ、ベタ褒めと言っても良いと思います。」
忠勝「兄者の父君は優れていた?」
正信「そうかも?」
康政「…」
数正先生「ただベタ褒めするのには理由があります。大久保家は他の家に比べると元の大きさが小さい勢力だったのが…清康公以降から急激に成長した勢力だと言われており、特に広忠公の時に重用されたので肩入れするのは当然と言えるでしょう。」
忠勝「兄者の父君を悪く言うつもりは無い…」
正信「なんとも言い難いね」
康政「戦下手なのは間違いないだろ!」
数正先生「三河物語では長ったらしく妙に具体的に大久保家の貢献と広忠公とのエピソードを書きまくってるのですが…幾つか面白い話があります。」
三人「面白い?」
数正先生「例えば『神様に広忠公を岡崎戻さないと誓約書を書いて誓ってこい!』と信定に言われたので何千枚も書いたが『主君の為なら地獄に落ちても主君を岡崎に戻す!』と一族で話していた!とか広忠公が『百貫与えるから殺してこい!』と言っていた。」
忠勝「何か物騒なのだ…」
正信「素っ気ない言い方なのが三河武士らしい…」
康政「ぐぬぬ」
数正先生「この『百貫与えるから殺してこい!』を具体的に言うと佐久間全考と松平忠倫ことです。どちらも大久保家が直接関わったことでは無い風に書いてますが…わざわざ書いている事から察するに…という感じがします。」
忠勝「大久保家は策士」
正信「これは腸が腐ってる案件では?」
康政「…そうだな…」
数正先生「そして何より一番面白いのは酒井忠次が広忠公に不満を持っていて裏切っていた!と書かれていることでしょうか!」
忠勝「そんなはずないのだー」
正信「へぇ~」
康政「なん…だと…」
数正先生「ショックでしょうね~でも真実です。酒井左衛門尉と書かれているだけなので別人の可能性も無いことも無いですが(笑)」
忠勝「青天の霹靂なのだ…」
正信「別人の可能性が0.001くらいはあるかもよ?」
康政「…」
数正先生「話はズレましたね。三河物語を読んでいると広忠公は無能とは程遠く、13歳で追い出されるものの阿部定吉の支えを借りながら吉良家や今川家に助けを求め、遂には家臣や一門の支持を取り付けて岡崎に舞い戻り、自らの邪魔になる者を積極的に排除しようとする君主というイメージになります。」
忠勝「だけど…」
正信「家康ちゃんの手前素直には褒められない。」
康政「平八郎(忠勝)の父(平八郎)と祖父(平八郎)のことを考えると…」
数正先生「そうですね…大久保家にとってはベタ褒めする理由が有ったのかも知れませんが…その策士然とした狡猾さが織田家による侵略と今川家への服従を招いたとも言えます。」
忠勝「説明を求む!」(いつもに増して真剣)
正信「納得出来ない!」
康政「そうだ納得出来ん!」
数正先生「松平信孝が岩津の領地を無断で奪うと逸早く信孝を今川家に追放する手腕も見事と言えます。」
忠勝「ウィキでは阿部定吉達の企みだと書いてあったぞ!」
正信「ウィキの言う三河物語と私たちの読んでる三河物語違くない?」
康政「なんか変だぞ?」
数正先生「ええ、ウィキの指す三河物語が何なのか知りませんが正式な広忠公の発言は『どうして生け捕りにしてくれなかった。日頃、蔵人殿(信孝) はわたしにひとつとしてそむいたことがない。今度敵となったのも、もっともなので、すこしも恨みに思っていなかった。将来のことを疑って、私の方から追い出した。いろいろ謝罪なさったが、聞き届けなかったので、怒り、顔を赤くして心ならずも敵になった。私の方から無理に敵にしたのだ。内膳(信定)が敵になったのとは大違いだ。』です。」
忠勝「ウィキの情報違うね」
正信「私の方から追い出した。」
康政「自分の責任にしてるところが立派だ!名君に違いない!!」(感化されやすい)
数正先生「当然のことですが!蔵人こと信孝が無断で岩津の所領を奪い取っていて広忠公の所有していた領地よりも大きくなっていたのは事実であり、これは当時でも見過ごせない行為だったのは間違いありません。ただ、反逆の意思が確実になる前で過剰防衛一歩手前の事前防衛という罪悪感があったというだけです。だいたいウィキだと数少ない肉親とか意味の分からない単語が入ってる時点で理解不能です。」
忠勝「砂糖小さじ一杯くらい?」
正信「多すぎて困ってんのに…」
康政「そうだな…」
数正先生「本来なら腹黒い君主と受け取られかねないエピソードですが…広忠公が当時置かれていた立場的に考えると広忠公が如何に自陣営(信忠派)の勝利と後に生まれる息子達(意味深)のために頑張っていたかが分かりますでしょう?」
忠勝「苦しい」
正信「本音が隠しきれてませんよ!」
康政「さすがに擁護できん部分はある!」
※広忠公を褒めようと思ったが…無理な部分は無理です。
数正先生「そうですね…どうも信秀の三河への侵攻を招いたのも信孝を追放したことが新たな原因になっているようです。」
忠勝「来たな父祖の仇!!」(憤怒)
正信「信定じゃないの?」
康政「頭が混乱してきたぞ!」
数正先生「信定なのですが…清康公の時は対立していました。それは先ほどの広忠公のご発言からも間違いありません。しかし、どうやら広忠公の時に和解が成立していた?としか三河物語からは読み取れません。さらに言えば広忠公の時代に信秀が攻め込んで来る大分前に死んでいます。それもあって長親公とも和解が成立していました。だから家康は幼名が竹千代なのです!」
※竹千代は長親公の幼名で長親(竹千代)→信忠(竹千代)→清康(竹千代)→広忠(仙千代)→家康(竹千代)だった。つまり清康公が生まれた頃までは信忠公と長親公は親子戦争をしていなかったが…親子戦争中に生まれた広忠公は竹千代を名乗れなかった。信秀が攻め込んで来るのが水野家との離縁時だと仮定しても三歳であり、小豆坂の戦い時だと6歳ということになる。どうも信定とは関係なさそうである。
数正先生「信秀との因縁はあったかも知れませんが…勝算も無く信秀が攻め込んで来るというのもあり得ません。ということは信孝を追放した副産物が信秀の三河への侵攻だったと言えるでしょう。広忠公は、よく頑張っていたと思います。もし、この後の展開が良ければの話ですがね…」
三人「…」
数正先生「まぁ、この後の展開は本編でも大分触れていますので読者の皆様はご存知だと思います。ですので広忠公の名誉のためにも今回の講義は、ここで終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。」
広忠公を褒め過ぎると犠牲になった人たちが浮かばれない。そして最大の苦労人である家康が報われないことに気付いた…




