徳川劇場:教えて数正先生!徳川最強伝説⑤~清康公の偉業は実は謎だらけ!~
調べれば調べるほど謎が多い!戦国時代の資料は少なく、ほとんどの定説には全く物的証拠が無い!これが現実!!
数正先生「清康公の活躍ですが…実は曖昧で史実的な根拠は全くありません!」
三人「ええ!?」
数正先生「驚きですよねwウィキなどでは、さも定説が決まっていて史実的根拠があるかのように書かれていたり、歴史家の書籍でも、さも当然の理のように論じている本が沢山ありますが(笑)その根拠は『数少ない資料』と『断片的な証言』を元にしているだけで!あとは歴史家の想像力で書かれているだけです。」
忠勝「そんな適当でいいのか!」
正信「反徳川の時代になってからの主張が有利では!」
康政「名誉棄損だ!我の子孫たちは何をしているのだ!」
数正先生「例えば『長篠の戦い』は以前は『突撃して来た武田の騎馬隊が織田の鉄砲にやられた!』と言われていましたが…最近は『鉄砲は使っていなかった!』とか『騎馬隊は存在しない!』とか言っていますが(笑)、そもそも『信長公記』では『織田・徳川連合軍が武田側に攻撃を仕掛けて武田軍を誘き出したところを鉄砲隊で狙撃した!』とハッキリ書いてあります。」
忠勝「太田牛一は最初から答えを書いていた!」
正信「だから昔から言っているでしょ!おまえらが生まれる前からな!!」
康政「真実を正直に言っているのに信じないとは酷い奴らだ!」
数正先生「そうなんです!信長公記を直接読んで長篠の地を直接調べた上で素直に解釈すれば最初から答えは一つでしかありません。そもそも長篠の戦いに直接参加した司令官(徳川家康)・指揮官(太田牛一)・兵士(徳川兵)が生存している時代に書かれて大方の人から『一番真実に近い!』と太鼓判を押された資料である『信長公記』の記述が正しいのは当然なのです!」
忠勝「我らが一生懸命頑張って作った平和を享受した子孫達のくせに!」
正信「直系が途絶えようとも皆の平和のために我慢したのに!」
康政「日本史上で最も偉大な250年の平和を築いた徳川への酷い仕打ち!」
数正先生「清康公の話に戻りますが…どうやら清康公の実績は明確には伝わっていない!というのが真実なようです。」
忠勝「困った時の三河物語!」
正信「大久保フィルターばかりか…」
康政「腸が腐った物語とか書いとけよ!」
数正先生「三河物語では『清康公は山中城を落として岡崎城を手に入れて三河を平定した!』とだけ書かれていますが具体的なプロセス(過程)が曖昧かつ抜け落ちていることに加えて清康公は13歳という若さで大活躍しつづけた。というのには流石に無理があり過ぎる面があるため補強が必要になっている点が問題なのです!」
忠勝「そこで信忠公の出番なんだな!」
正信「前回の話だね!」
康政「なるほど!」
数正先生「はい、最近の研究では信忠公の活躍があった!というのが主流になりつつあると思います。世界史的に見てもイングランドの名君ヘンリー8世、フランスの絶対君主にして名君のルイ14世も直接意思決定をし始めるのは20歳過ぎてからが基本であり、それが当時の時代でも常識なので清康公も20歳前後から直接意思決定を始めたと考えるのが妥当でしょう。」
※ヘンリー8世及びルイ14世は共に問題行動も多いために暴君だと言われることも多いが…彼らに対する評価は極めて高く、それぞれの国の黄金時代の一つでもある。
忠勝「我ら忠実な家臣のお陰だ!」
正信「皆で清康様を支えました!」
康政「清康様に忠誠を!」
三人「おおおー!」
数正先生「仲が良いですね、信忠公のところで話した通り、清康公が岡崎松平家を吸収しました。その後についてですが…有力な説としては現在の岡崎城を作ったのも清康公だと言われています。」
忠勝「西郷家が作ったんじゃないの?」
正信「矛盾してません?」
康政「ようわからん」
数正先生「西郷家の作った岡崎城は明大寺付近にあり、これを今のところに移したのが清康公だという説です。」
三人「なるほど」
数正先生「『清康公が三河平定をしたのは嘘!』という主張をする学者もいますが…彼らの大半は近現代的な価値観を元にした解釈にしか過ぎません。例えば私は家康のことを家康と言っているのを違和感を感じる読者がいると思いますが…それは近現代的な価値観にもとづいた間違った考え方です。」
忠勝「違和感?」
正信「関東入府以前しかいないからね数正先生」
康政「数正先生は松本10万石の大名で徳川家から独立した。」
数正先生「まあ、それもありますが…『家忠日記』という史料でも松平家忠が『家康』を呼び捨てにしていたことが判明しております。これに『様もしくは殿』が付き始めるのが家康の関東入府後となります。これが史実です!」
忠勝「関東入府後も兄者は兄者!」
正信「家康ちゃんは天下人になっても家康ちゃん」
康政「そもそも家康という名前自体が敬称だろ!」
数正先生「そうですね、小平太(康政)の言う通りです。戦国時代において親しい場合は、そもそも幼名で呼び合うのが慣習化していた時代です。この文化は現在でも名残が残っておりますね。例えば幼い子を呼ぶ時に付けていた愛称が、その子が大人になっても続いたり、逆に幼い子が付けた愛称が大人になっても続いたり、もしくは親友にあだ名を付けたりすることです。戦国時代は元服すると自分で好きな名前を名乗れるので!元服名自体が敬称という意味を含んでいました。」
忠勝「タダ勝!兄者から貰った大事な名前!」
正信「名付け親は重要!」
康政「この名前も主から貰った名前だぞ!」
数正先生「私も徳川家から離れたケジメで家康ですが…実際は若君か竹千代が多かったと思います。」
三人「せやな」
数正先生「また話がズレましたが…何が言いたいかと言うと…秀吉以前の君臣関係というのは今でいうところの企業連合のようなもでしかありませんでした。もっと分かりやすく言うと小中学校の友達グループの強いバージョンです。理論的には企業連合も友達グループも抜けることが出来ます…もしくはトップの座を奪い取ったり、独立して叩き潰すことも出来ます。これが下剋上ですね!、つまり、企業連合や友達グループは一人の人間の強さで成り立っているというよりは皆の合意で成り立っているのです。」
忠勝「兄者の敵は忠勝の敵ぞ!」
正信「抜けられますよ!ただし、抜けようとしたら…」
康政「分かってるよな!」(脅迫)
数正先生「その程度の力関係だった訳です。それが企業の社長と部下の関係になったのが実は豊臣政権の時代になってからというのが史料により解ってきているのです。例えば佐竹氏などの多くの大名は豊臣時代になると配下の領域の子分共で意のままにならない奴を攻撃して領地を奪い取っています。逆に言えば豊臣時代以前は出来ない関係だったのです。」
三人「ふむふむ」
数正先生「清康公の時代の『三河を統一した!』は当時の時代の価値観でという意味なので現代の価値観で考えるのは理不尽と言えるでしょう。」
三人「せやな」
数正先生「清康公の『守山崩れ』ですが…これは前回話した親子戦争の続きだったことが最近判明してきております。」
忠勝「まだ争っていた!」
正信「もう諦めて投降してください!」
康政「往生際が悪いぞ!」
数正先生「信忠公の弟の信定は自らが正当な安祥松平家の当主だと主張して織田信秀の妹を妻にして抵抗しており、信定を倒す目的で守山を攻めたのではないか?と最近は言われ始めています。可笑しいことに実は守山を含む地域(尾張国南部)は実は松平信定の領地だったという主張も出てきており、今だに謎が多い『守山崩れ』ですが…背景には織田家の内部抗争と松平家の内部抗争が相互にリンクしていたというのが最近のトレンドになります。」
忠勝「松平家の宿敵は織田家だが織田家は織田家でも信秀の一族のことだぞ!」
正信「間違いなくピンポイントで信長の一族と仲が悪かったということです!」
康政「徳川家は織田家と仲が良かったという雰囲気が気に入らない!」
※数正先生以外、反織田臭がする三人である!
数正先生「いずれにしても『守山崩れ』には『織田信秀』が深く関わっているというのは間違いない!と言えるでしょう…ところで…織田家と松平家の関係は何だったのか?謎ですよね?松平家の発祥の地は豊田市ですが…三河国加茂郡には『みよし市』も含まれています。つまり尾張です。境界線は曖昧で松平家が直ぐ隣の豊かな尾張に進出していないのは不自然です!」
忠勝「聞きたくないのだ><」
正信「本多家の公式の歴史では実は尾張国に領地があったことが書かれている。」
康政「榊原家(康政系)は伊勢から来たぞ!ただし、榊原家の家紋は尾張でも使われていた…」
数正先生「そうなんです!松平家と織田家の関係は複雑であり、パンドラの箱のような存在なのです!歴史のは謎が多いのです!!」
根拠の無い定説を口にしている学者達が多いが分かると落胆すると同時に自分の考えた考えが間違ってる証拠もほとんど無いということに気付かされる。




