表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

64/172

白帝城の戦い

 美濃の斎藤義龍と言えば信長の義理の父である斎藤道三を殺したことで有名であること以外は特に知られていない。


 斎藤家に関しての様々な情報を整理すると斎藤家は道三以前からの名家なので美濃の支配をするのに問題の無い家柄であった。さらに道三の類まれなる統治により逸早く戦国時代に適応出来る大名へと昇格したのである。


 道三は成り上がり!というイメージが強いが…美濃の周囲には成り上がりが多いことから見るに道三一人が特出して成り上がりという訳では無かった。


 ※斎藤道三の周囲で『成り上がり』として有名なのが越前守護の斯波氏(本拠は尾張)を追い出した朝倉氏、近江守護を追い出した北近江の浅井氏、南近江の六角氏、尾張の守護代の分家筋の分家の織田信秀などが有名である。三河の松平家も『成り上がり』と言える。


 こう見ると道三の伝説は信長伝説の延長として補強強化されたものであると言える面がある。ただし、織田信秀の大軍と戦って勝っているので信秀より実力は上だったと見られる。


 道三の頃からなのか…美濃勢は周囲の強敵達に囲まれた。周囲の強敵と言えば尾張の織田氏、近江の浅井朝倉連合と南近江の六角氏、信濃を征した甲斐の武田氏などである。


 つまり勢力拡張先に困りだしたのである。


 勢力拡張に困ると言うことは国内を纏めるのに苦労するということになる。


 実はこうした問題こそが斎藤道三と義龍の親子争いの本当の背景であった可能性すらある。というのも道三は美濃統一後は美濃の支配を強化する一方で隣国とは友好関係を維持する外交をしていたからである。


 義龍は国内の統一を強化していっても将来的な行き詰まりを回避するのは難しいと考えた可能性があるのである。故に父親を倒す形で勢力拡張へと舵を切ったのである。


 斎藤義龍は強大化する尾張の織田信長に対抗する考えからか隣国の近江国に目を向け始めた。特に六角氏の力に負け始めていた浅井氏を吸収することを目指したのである。


 この為に斎藤義龍は足利義輝に接近して支持を得ると共に六角氏と友好関係を築いて浅井氏に攻め始めたのである。


 しかし、この近江攻めは上手くは行かなかった。失敗した理由は様々だが…一番の原因は尾張を統一し始めた織田信長が今川家と戦うと同時に美濃への圧力を強めていたことにあった。


 これが桶狭間の前後の斎藤家の動きである。


 こうした情勢の中で斎藤義龍は再び尾張の織田信長との争いに戻ることになった。


 斎藤義龍は斯波義銀の娘を自分の息子の義興に結婚させると同時に稲葉山城(岐阜城)を出陣して犬山城(白帝城)を目指した。


 犬山城(白帝城)は美濃と尾張の境界線にあり、木曽川の傍の丘上にあることから白帝城と呼ばれている。白帝城と言えば三国志の劉備が夷陵の戦いで敗れて最後を迎えた城として有名な城の名前でもある。


 斎藤義龍率いる軍勢は犬山城(白帝城)を攻めるために木曽川を渡り城を包囲した。



 この頃、松平秀康は今川義元と協議した結果、犬山城攻めを支援する目的で長久手方面から守山を攻めることにした。


 守山と言えば松平清康が攻めて『守山崩れ』によって死んだ地として有名である。同地は長久手、小牧山、名古屋の丁度中間に位置しており、交通の要所地であった。同地を占領出来れば織田軍の補給線に打撃を与えることが出来るので非常に戦略的に重要であった。


 さらに鳥居元忠、平岩親吉、本多正信、本多政重を伊勢へと派遣して斯波義銀の蟹江城包囲を支援することも決定した。


 これにより、犬山、蟹江、守山を攻めると同時に大高城にいる今川義元が織田軍の正面戦力を牽制することで織田家を包囲して降伏させることにしたのである。


 この今川方の動きを察知した織田信長は犬山城に向けて軍勢を差し向けた。


 犬山城を守っていたのは池田恒興である。恒興の母親は織田信長の乳母で後に信秀の側室になっているので池田恒興は信長の兄弟ということになるのである。


 彼が守る犬山城は要害の地にあるだけに守りは固く、力攻めで落とすのは愚策としか言えない城であった。


 ちなみに要塞や基地に立て籠もる戦術は第二次世界大戦以後も頻繁に行われており、現代においても都市や拠点に籠る行為は敵を数か月または一年以上に渡って拘束するのに有効である。一方で補給や援軍が来ることが不可能な場合は例え難攻不落の要塞であっても落ちるのは当然と言える。


 犬山城を包囲する斎藤家の美濃勢と織田軍の戦いは激しい航空戦と砲撃戦を交えた攻防戦となったが織田軍は美濃勢の強固な陣地を突破することが出来ずに戦いは膠着状態となった。


 ここで信長は奇策に出る。


 信長は本隊を率いて戦線を離脱して蟹江城を包囲する斯波義銀の軍勢に攻撃を行うことにしたのである。


 蟹江城には滝川一益率いる軍勢が居た。この蟹江城を包囲するのは今川家の支援を受けた斯波義銀、毛利秀頼、津川義冬の他に北畠勢などである。それと鳥居元忠ら松平勢であった。


 織田軍は蟹江城の包囲を解こうと攻撃を仕掛けるが斯波勢の猛烈な反撃にあった。


 毛利秀頼の手勢と鳥居元忠の手勢は攻めてくる織田軍に対して頑強に耐えた為に織田軍は包囲軍の防衛線を突破出来ずに後退した。


 ちなみに、この時、本多正信は砲兵隊を率いて敵軍に砲撃を食らわせるだけではなく、自ら砲兵と共に敵の側面に回り込んで織田軍を奇襲して散々に打ち破ったりしている。


 本多政重は相変わらずぬ無双ぶりで織田軍を苦しめた。


 このように斯波軍は善戦するも北畠勢が動かないために戦力不足に悩まされ始めた。


 斯波義銀は北畠氏に対して再三救援を要請するが川向うの後方の陣地から北畠勢が動かないために義銀の本隊は動けずにいたのである。


 その後、再び織田軍が攻撃を仕掛けてくると包囲軍は織田軍に抗しきれずに川向うへ撤退した。


 その後、包囲を破られて不機嫌となった斯波義銀は北畠家に抗議するも北畠家は「美濃への支援をした方が得策」と言い出して話を変えて取り合わなかった。


 この頃、美濃勢は物資に困りだしたので今川家に支援をしきりに要請し始めていた。


 今川義元は伊勢を経由しての美濃への支援を始めた。具体的には美濃への軍事顧問団を派遣しての総力戦態勢の構築であった。つまり美濃の生産性を高めようとしたのである。


 これが必要なほど白帝城の戦いは激烈さを増していたのである。


 この頃、織田信長が犬山城に戻ろうとしているという情報が入り、守山城を包囲しつつ松平秀康達は信長の軍勢を奇襲するべく準備を整えて待ち構えていた。


 ここでも織田信長は奇策に出て来た。


 自ら単身で僅かな手勢のみで小牧山へと入り、小牧山で製造されていた大量の兵器と共に犬山城にいる織田軍と合流するということをしたのである。


 これにより、犬山城にいた織田軍の士気は上がり、織田軍の攻勢は強まった。


 しかし、美濃勢の抵抗も激しく、織田軍は美濃勢の強固な防衛線を突破出来ずに苦戦した。


 こうした中で斎藤義龍は長期に渡る消耗戦による疲弊と美濃の厭戦感情を危惧して遂に犬山城の包囲を解いて美濃本国へと撤退することを決意したのである。


 この結果、白帝城の戦いは戦術的には多くの被害を与えた美濃勢の勝利となったが戦略的には犬山城を落とさせなかった織田軍の勝利となったのである。


 こうした中で秀康達は新たば一手を打つことを求められていくことになったのである。

会話文考えるの面倒くさい、そして会話文ばかりの小説が『そんなに好きじゃない』から考えるのが嫌いなんだろうなと自分を分析してみたりしています。


話の展開を早くするためにも必要な所は話しつつも細かくは書きません。というか個人的に有名小説を改めて読むとそんなに細かく描写していないことに気付きます。


よく心理描写を描くのが小説だと『私も勘違いしていますが…』実は心理描写に拘っている小説って多くはないんだよね…と思ってきています。


心理描写とか細かいところを描くのは力量が求められる以前に必要以上に描くと文章が読みにくくなるので有名作家も意外と必要なところ以外は避けているのかな?と思ったりしています。


あと小説は漫画とかと違って読者の想像力を尊重するべきだと思ったりします。それが唯一の小説の利点と言えるのでは?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ