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新桶狭間の戦い 前編

 本編の話をしたいのは私としも当然の思いなのだが…改めて桶狭間について調べていると様々な疑問点が浮かんできてしまう。というか悪質な悪戯によって真実が曇ってしまうのである。そこで、もう一度だが…私の桶狭間の戦いの考察を述べたいと思う。


 まず悪質な悪戯としてハッキリ申し上げたいのが『古戦場跡』なる意味不明な物があることである。この古戦場跡なるものの位置が奇襲しづらい場所にあることが桶狭間の戦いを想像するのを阻害している。


 まず古戦場跡の歴史的根拠の薄さが酷いのは当然として…二つあるのも解せないのである。そのうちの一つに至っては東海道の直ぐ傍で陣屋跡まで存在してしまっている。


 陣屋とは簡易的な砦もしくは要塞を現す言葉である。例として挙げるのであれば小牧長久手の戦い時の両陣営の陣屋、もしくは関ケ原の戦い当時の陣屋がそうであるように…陣屋とは守りを固めた場所に強固な防衛線を敷いた所である。歴史を桶狭間の前に遡るのであれば応仁の乱や松平清康の守山への布陣を見れば容易に想像つくのである。


 ※桶狭間当時の砦跡は、ほぼ全て現存している。理由は当時から砦を築くのに適した土地と判断されるだけの立派な要害だったことに加えて極めて頑丈な設備の跡(土台)が残っている為である。


 東海道の近くに義元がいたのであれば…道は整備されており、大軍を用いた防御をするのに適していたことになる…つまりは今川方が圧倒的に有利になるのである。それに加えて周囲にいる味方に連絡するのも逃げるのも簡単で、これだけでオーバーキルである。に加えて陣屋(要塞)まで加わっている場所に奇襲を仕掛ける…


 そのような愚策を信長がするのは可笑しすぎるとは世間は考えないのだろうか…


 まして相手は東海道一の弓取りにして武田晴信と北条氏康を従えている三国同盟の盟主今川義元である。このような人物が圧倒的に有利な場所で負けるとは考えにくいのである。


 もう一つの古戦場跡は少し大高緑地から離れすぎているのが気になる。たぶん私が考えるに織田軍が最初に襲ったのは大高緑地の近くだと想像する。そして義元が態勢を立て直すために退却した結果、古戦場跡近くで激戦になったと考えれば…そこそこマシという程度だ。


 それ以外にもツッコミどころがある。桶狭間時の両軍の総兵力の計算方法についてである。兵力の量は大雑把に言えば人口、経済、政治力で動員可能兵力が決まるのは古今東西同じである。これを桶狭間の研究者達は石高(農業生産量)だけで計算していることに驚きを隠せない。このような計算方法を日本以外で見たことが無い!!


 まして石高制は豊臣秀吉以降から始まった制度であり、武士制度という極めて特殊な日本特有の徴兵制度に基づいた計算方法である。これらが確立するのは江戸時代に入ってからであり、確立する前の戦国時代に適用するのは可笑しいとしか言えないのである。(そもそも兵農分離がされていない時代だ!!)


 それ以前に駿河、遠江、三河は農業生産量では尾張に劣るが…東海道という大動脈の中枢部分に当たる地域である。この大動脈は当時も存在したし、今川家には優れた港湾施設と豊かな鉱物資源などがあった。これらから生み出される富は莫大であり、その富の強さで武田、北条、松平、織田を圧倒していたのである。この経済力から生み出される兵力は織田を圧倒していたはずである。


 ※ただし、戦争による荒廃で生じる人口減少や生産量の低下は計算に入れていない。この意味で考えると戦場になっていた尾張よりも今川の安定した統治で平和な駿河などの方が上であっても可笑しくない。


 また、兵力と言っても補給部隊などの非戦闘員も含めた数を記載しているのは古今東西皆同じである。もちろん誇張も含まれているだろうが…後の徳川家康、武田晴信の動員する兵力を見る限り、戦闘員だけで義元の兵力は三万近かったはずである。これに非戦闘員を加えれば総兵力五万以上と記載した『信長公記』の記載は必ずしも誇張とは言えないのである。


 そもそも西洋で、よく誇張と言われる歴史著作物の多くは書いた本人自身が書いた内容の時代の後に生きた人だから言われているのである。実際にカエサルの『ガリア戦記』に対しては誇張だと言う人は少ない


 ※カエサルは現実の戦闘をリアルで見ただけではなく作戦を考え指揮していて、敵の死体の数も正確に知ることのできた当時から唯一絶対の存在である。その彼が誇張している場合はワザとであり、それは政治的な理由から来るものである。


 だとするならば『信長公記』の著作者である太田牛一の表現は適切と言えるのではないだろうか?これを否定するのであればリアル同時代リアル参加(信長の傍)より確実な証拠か論理を示すべきである。


 とにもかくにも桶狭間を調べていると私としては憤慨せざるおえない話が多すぎるのである。


 それから桶狭間当時の状況を、より詳しく言うのであれば水野氏を包囲する今川方に対して織田方は水野氏を支援する意味で大高城と鳴海城を包囲したのである。特に大高城を落とせれば水野氏への包囲を崩せるだけではなく、鳴海城を孤立化させることも出来たのである。


 これを今川方は阻止しようとしていたのである。


 つまり、攻めていたのは実は今川方というよりは織田方であった。今川方は反撃していたのである。つまり不利な織田方が先に戦いを仕掛けたのである。


 これを今川側は追い詰められて仕掛けて来たと解釈した。対して歴史が証明するのは用意周到に勝利に向けて準備をしていた信長の姿では無いだろうか?


 さて、ここから本編の話に入ろう。


 織田信長が義元本隊を奇襲する上で気をつけなければならないことは無数にある。中でも一番大変なのは奇襲した後のことである。奇襲は『奇襲出来たら終わり』というものではない。何故ならば『奇襲の効果は短い!!』というのが古今東西の鉄板となっているからである。実際に奇襲の失敗で仕掛けた側が大敗して歴史が動いた事例は山ほどあるのである。


 逆に成功した奇襲作戦は古今東西どこでも貴重な戦史として語り継がれるほど有名であり、一つとして雑な準備と作戦計画で成功した例は無いのである。


 そのことを数多くの戦史から学んでいた信長は自らが奇襲を仕掛ける上での注意点を良く理解していた。


 最大の注意点は『敵の防衛体制を整えさせない!!』ということに尽きる。


 である以上は奇襲を仕掛けると同時に敵に突撃して肉迫して敵を分断させる。そして敵が混乱しているうちに包囲して各戸撃破していくのである。


「そして義元を討つのだ!」


 自分に言い聞かせるように信長は呟いた。


 義元を討つ!は極論の話である。何故ならば、これは結果論であるからだ…


 信長が奇襲して来れば、今川方は態勢を整えようとする。態勢が整えれないのであれば義元は直ぐに撤退を始める。そうなれば義元の位置は簡単に信長の知るところとなる。何故ならば敵が組織的に退却しようとする場所に義元がいる可能性が高いからである。


 だから信長は義元を狙える。


 ここで重要なのは義元を攻撃するのは『信長自身の手勢でなければならない!』ということである。


 何故かと言えば、奇襲自体を成功させなければならないからである。そのために優秀な武将達には奇襲の成功に全力を注いでもらうのだ。


 だからこそ、全体を見渡せる信長が唯一義元を狙える遊撃部隊になる必要があるのだ!


 ここまで考えていても本番に近づけば近づくほど緊張と焦りが高まっていった。


 信長の緊張は兵士達にも伝わったのか普段よりも兵士達の顔にも緊張が現れていた。


 奇襲させるまでは緊張を保っておくしかない!


 そのように皆が思ったために誰一人として緊張を解そうとするものはいなかった。



 桶狭間の戦いは周到に準備されて行われた。


 そういう意味では義元は信長の手の平にいたことになる。


 しかし、実際には机上の空論のようにはいかないのである。


 というのも信長のプランとしては敵の前衛部隊を砦に引き付けて時間を稼ごうと考えていたのである。そのために丸根砦に佐久間信重という重臣を配置しておいたのである。


 しかし、敵の勢いが予定よりも激しかったせいで…織田方の砦は次々と落とされてしまった。そのせいで佐久間信重を失ってしまったのである。


 これは想定外であった。


 敵の勢いは凄まじく、予定していたほど時間的余裕は無くなっていた。


「最後は勢いに任せるしかない」


 状況は厳しく、時間的余裕の無さが苦しい。しかし、いまさら籠城など愚策でしか無かった。奇襲は予定通りに仕掛けるしかないのである。


 この時点の義元率いる本隊の動きは鈍いものとなってしまった。それは義元自身にとってもイライラが募るものであった。


 なぜならば奇襲されるリスクを高めていたからである。


 織田は謀略に長けているので注意し過ぎて損ということは無かったのである。


 だからこそ、戦場では通常は輿には乗らずに義元は騎乗するか車両に乗るのが常であった。それでも輿に乗っていたのには理由があった。


 それは力を示すためであった。車両では逃げ腰に映るし、騎乗よりも輿の方が周囲に自らの力を示すのに良いと判断した為である。こうすれば下ってくる尾張の国人衆に対して力を見せつけれるし、遠江勢にも改めて義元の力を見せる良い機会になると考えられたからである。


 こうした政治的な動機が義元率いる本隊の行軍を遅くしていた。


 義元が大高城に入ろうとした理由は様々であるが…一番大きいのは最前線で戦っている味方の奮戦を褒めるためであった。そして大高城で織田家の尾張統治に終止符を打つべく周囲の諸勢力との交渉を推し進めるつもりでいたのである。


 信長が奇襲するのに最も良いタイミングとなるのは義元の軍勢が大高城に向かううために東海道から外れて桶狭間を横切ろうとした時であることは言うまでも無いだろう。


 織田方は大高緑地を『アルデンヌの森』を突破するが如く一気に突破して今川方の軍勢に突撃した。


 横合いを突かれた今川方は混乱した。


 最初に現れたのは織田方のM4シャーマン戦車を主軸とした戦車隊であった。この戦車隊は今川方に砲撃と機銃掃射を加えながら突撃して今川方を分断し始めたのである。次に歩兵のバズーカ砲が火を噴き始めた。


 今川方の精強な戦車隊も横からの攻撃には脆弱であった。態勢を整える前に撃破される戦車が続出した。


 それでも今川方は直ぐさま反撃の態勢を整えようとした。


 その中でも真っ先に動こうとしたのが最前列にいた井伊隊であった。井伊氏は一度破滅しかけたが今川家によって再興した家である。武田家で言うところの真田家に近い存在であった。事実として今川家との血縁関係は濃かった。というのも有名な瀬名姫の母親が井伊氏の出であると言われているからである。


 先の戦いでの有能な活躍をした井伊直盛は遠江勢の中では最も忠実な今川家の武将の一人であった。


 その彼は指揮車両に丁度乗っていたこともあり、直ぐに反撃しようと指揮を執ろうとしたが…


 運悪く、織田方の砲撃が彼の乗っていた車両に命中して車両が吹き飛んでしまったのである。


 それを見た井伊隊の兵士達は大混乱してしまった。それが他の隊に波及し始めてしまう。


 これが決定的になったのか義元は指揮をすることを諦めて直ぐさま逃走に入ったのである。


 この判断の速さは流石名将といったところであったが…


 ここに来て輿に乗っていたことが大きなハンデになってしまった。


 というのも動きに無駄が出てしまったのである。この些細なロスは本来なら致命傷にはならないはずであった。なぜならば義元の判断能力は優れていたからである。


 しかし、義元が優れているように信長も優れていた。


 故に些細なロスが致命傷になりかねないのである。


 逃げようとする義元に信長が率いる部隊が迫って来た。これに対して今川方の抵抗は凄まじく、織田方と死闘を繰り広げ始めた。


「義元様を、なんとしても逃がすのだ!」

「皆突撃しろー」


 義元の傍にいた側近達も刀を取って口だけではなく、実際に自ら率先して敵陣に突撃するほどの勇敢さを見せて敵を食い止めようとした。


 故に次々と今川の重臣達が討ち死にしたのである。


 そこまでの犠牲を払っても信長達は止まらずに義元に迫った。その勢いを見た義元は逃げきるのは無理と判断したのか信長を向かい打つように逆に突撃してきたのである。


 この突然の逆突撃に今度は信長の命が危うくなり始める事態になった。


 まさに両軍入り乱れた乱戦と言う名の死闘が始まったのである。



 義元の位置を容易に織田方の武将達は知ることが出来た。何故ならば次々と織田方の兵士達が義元に返り討ちにされて死体の山を築いたからである。


 信長もギョッとするほど義元の一騎当千ぶりは凄まじかった。


 この時、弓の一つでも義元の傍にあれば義元は信長を射抜いていたと言えるほど両者の距離は近かった。


 そして両者は実際に目が合ったのである。


 瞬時にお互いにお互いが誰なのか理解出来るほど両者は大勢が入り乱れる中でも存在感を薄くしないほど迫力があった。


 さて、ここで本来なら毛利新助の登場といきたいところだが…


 残念なことに新助は斯波義銀の陣営に加わっていたために新桶狭間の戦場にはいなかったのである。


 そのため両者は睨み合いながら膠着状態になってしまった。


 時間が迫って来ているだけに信長達は何としても義元を討ちたいと思い攻めかかろうとした。


 まさに、その時である。


 戦場に新たな軍勢が殴り込んで来たのである。



桶狭間を調べてて分かることは、あまり本やwikiが役に立たないこと…


一番役に立つのはグーグルマップですね。(笑)


本にしてもwikiにしても『雨が降ったから…』とか抽象的で結果論の話ばかりでウンザリします。「じゃあ雨が降っていなかったら奇襲は失敗したの?」と言いたくなります。


そんな運否天賦の戦いを仕掛けるような人が天下人になるはずがありません。


桶狭間の前も以降も信長は常に狡猾で冷静で戦略的な合理主義者です。まさにカエサルやナポレオンのような人だと断言できます。


そういう視点が日本史は欠けてて嫌いです。


次から新しい展開に入っていきます。


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