浅井長政 登場
近江国(滋賀県)は六角氏の支配下だったかと言うと難しい部分がある。まず第一に近江国は日本の交通の要衝地であり、江戸時代でさえ内陸ルートの中心地であり、琵琶湖を使った水運が盛んに発達していたこともあって非常に栄えたことで知られている。近江商人という単語が日本には存在しており、数多くの有名企業を生み出したことでも知られており、一つのブランドとして定着している。現在でも時たまテレビなどで近江商人特集みたいなものがあったりする程度には知名度が高い
近江国(滋賀県)は戦国時代の頃までは江戸時代以上に重要な地域だった。とくに大きいのが海路による流通網が戦国期は江戸時代よりも劣悪だったことである。『天下の台所』と言われる大阪の繁栄が弱かったこともあるものの最大の原因は海上交通を支える艦船が貧弱であり、海賊も多く出没したことも重なっていたためである。そうした事情もあって近江国は当時の日本では非常に繁栄した地域だった。
ところで近江国と言えば!『比叡山の裏庭』と言って良い場所だった。比叡山がそもそも山城国(京都府)と近江国(滋賀県)の丁度中間にあるので半分が京都側、もう半分が滋賀県側にあるということもある。
また近江国には三井寺(園城寺)が存在しており、三井寺は天台宗の第二の本拠地でもあった。天台宗とは比叡山の宗派であり、その天台宗の二大拠点が比叡山と三井寺というわけである。こうした事情から比叡山の麓街である坂本は比叡山の城下町だったし、滋賀県の県庁所在地がある三井寺の大津市などは基本的に比叡山勢力圏だった。
そうした事情を考えると六角氏の支配地域というのは物凄く少ないことが分かるだろう!
この他にも近江国には浄土真宗が多数の拠点を構えていたり、六角氏には属さない勢力が多数存在していた。そのことを考慮すると六角氏が足利将軍家や三好氏と単独で戦い苦戦させるほど戦えたことは凄いことなのである。近江国の大部分や中心地が無くても苦戦させるほど戦える程度の国力が持てるくらい当時の近江国は日本で屈指の繁栄をしていたということである。
前置きは良いとして!
浅井長政という人物は、どのような人物だったのか?
そもそも浅井氏とは何なのか?
という話をしていこう!!
赤尾清綱「浅井氏が六角氏の支配下に入っていることは断じて許せるものでは無い」
海北綱親「まったくです。」
二人の浅井家の重臣が不満を漏らしていた。
浅井家は現在六角家の支配下に入っていた。
浅井氏は元を正せば京極氏の家臣だった。京極氏は佐々木氏という氏族に属しており、六角氏も佐々木氏に属していたので京極氏と六角氏は元を正せば同族だったということになる。
京極氏は一時は複数の国の守護を務めるほど繁栄したものの応仁の乱前後から急速に衰退し始めた。
実は毛利元就の最大の敵として立ちはだかることになる出雲国の尼子氏は元を正すと京極氏の家臣だったほどである。しかし、尼子氏の尼子経久に出雲国の城である月山富田城を取られて以降から落ち目になったとも言える。
力が衰退した京極氏は北近江にまで追い詰められ、同族の六角氏からも見捨てられて最終的に家臣だった浅井氏に北近江の領土すらも奪われて一時的に消滅する羽目になった。(消滅したと言っても滅んだわけでは無く、足利将軍家の側近として実は生き残っていたけど)
浅井氏は京極氏から北近江を奪った後は南近江の六角氏との争いに発展していくことになる。主家が消えても主家が行っていた政策や敵は引き継いだのである。
主家が追い出しても主家の政策や敵は受け継ぐことは珍しく無い、織田家や松平家も実は主家筋時代からの争いを引きずって争いあっている面があったほどで……
『子が親から独立しても親の価値観を引き継ぐのと同じ』で『武士の世界でも主家から独立した家臣は主家の価値観をそのまま継承する』傾向があった。
話は長くなっているが大事な話なので
ということで六角氏と浅井氏は水と油だった。浅井氏と六角氏の双方が激しく争った結果、近江国は何時までも統一されないままの状態が続いた。このような状態を嫌った六角氏側は浅井氏から北近江を奪うのでは無く、従属させる形で共存する方向性に舵を切った。
赤尾清綱「六角氏側は『対等な同盟関係の構築の為』とか言って我々に様々な形で自分達の価値観を押し付けてきている。こちらの若君(後の長政)が幼いことを良いことに名前に六角義賢の賢を無理やり付けさせようとするのも我々を従属させるための策略にしか過ぎない」
海北綱親「まったくその通りです。許し難い、我々の関係は対等なはずだった。」
六角氏は楽市楽座を行っていたり、高名な忍者集団である甲賀忍者を有していたり、細川家や北畠家のような力ある大名家と同盟を結んだりと大きな力を得たのに対して浅井氏は力が振るわずに苦戦していた。そのため立場が六角氏に対して不利となっていた。
赤尾清綱「こうなったら独立戦争を仕掛けるしかない!」
海北綱親「どのような理由で正当性を確保するのですか?」
赤尾清綱「若君に挙兵していただくのだ。」
現浅井家の当主は浅井久政であるが……若君である浅井賢政(後の長政)に当主を代えた上で浅井家の政策を変更することで大義名分を得ようと言う計画である。あくまで浅井家と六角家は対等な同盟者という形式上なっているのだから問題無いという考え方なのである。
こうして二人の浅井家の重臣の発案により浅井家の当主交代劇が起きるのである。当然だが六角家が許すはずも無い
六角家側からすれば浅井家は六角家に従属しているわけであり、主は六角家側にあると考えているのは間違い無いからである。
こうして両者は決定的な対立をすることになるのである。
この時点で浅井賢政は名前だけでは無く、六角家の家臣の娘が嫁いでいたが、このことも浅井家臣の怒りの原因にもなっていた。浅井家と六角家は対等といいながら実際には六角家が有利だと考えている六角家側の思惑が全面的に受け入れられている状態だったからである。
浅井家臣達は自分達の力なら六角家に勝てると考えていたことも浅井家の挙兵に繋がったと言える。
15歳の若者だった浅井賢政は父親が健在であるにも関わらず浅井家の当主になることになるのである。
こうして後の浅井長政が歴史の表舞台へと登場することになる。
時は永禄三年(1560年) 桶狭間が起きた年である。
織田信長が1534年、豊臣秀吉が1537年、徳川家康が1543年、浅井長政は1545年に生まれていた。桶狭間の前後は正に戦国の転換期だったのである。
毛利元就が厳島の戦いで勝利したのが1555年で1560年には現在の広島県と山口県を支配下に置き、宿敵尼子氏との本格的な戦闘を開始した時期であったし、上杉謙信の『関東侵攻』が始まったのが1559年、前回までの話である『三好VS足利』『三好VS六角・畠山・細川』の戦いも、この時期である。『武田信玄が越後侵攻を諦めた原因』となった最も有名な『川中島の戦い』として知られる第四次川中島の戦いが1561年だった。1560年は『桶狭間の戦い』
1560年前後は戦国期の主要勢力が勢力拡張を本格的に始めた時期であり、天下統一を巡る争いが激しくなり始めた時期である。中小の大名家は急速に大大名家に吸収される時代へと突入した。
まさに戦国時代最大の転換期(大事な事なので)
そんな時代に徳川家康は17歳、浅井長政は15歳で大名として荒波の中に放り投げられたのである。




