教興寺の戦い②
皆様こんばんは!今日は前回の続きの『教興寺の戦い』の話になります。
飯盛山城を攻めていた畠山勢だったが不思議なことに軍勢を二手に分けて駐留させるという作戦に出ていた。
一つは三好長慶が立て籠もる飯盛山城を包囲する紀伊国の最精鋭である根来衆と畠山家の重臣である湯川直光の軍勢だった。もう一つは八尾市の教興寺に本陣を置いた畠山高政の本隊だった。
大阪の人は気づくかも知れないが!
飯盛山城は大阪府四條畷市にあるのだけど、同じ大阪府といっても八尾市とは相当離れていた。直線で13㎞くらい、約15㎞は離れていた。
なぜこんな離れた場所に畠山高政は本陣を配置したのか?
一つの答えとして
実は教興寺の直ぐ傍には信貴山口駅というケーブルカーの駅が存在している。そう教興寺は大和国の境界線に存在しており、直ぐ隣が信貴山だった。
信貴山と言えば!信貴山山城!!
信貴山山城と言えば!松永久秀!!
という訳で松永久秀の本拠地とも言える信貴山山城が教興寺の傍にあった。偶然のはずも無く、当然だがココに畠山高政が本陣を置いたのは三好方への牽制、もしくは松永久秀への牽制が目的だった。
畠山勢が松永久秀を牽制する理由は二つあった。
元々、松永家の元来の主君は畠山家だったと言われており、松永家の出身は河内国だったと言われている。河内国は大阪府の奈良県より、つまり教興寺のある地域である。当然だが松永久秀は大和国と河内国に領地を持っていた。
つまり松永久秀は畠山家にとって今回の戦争で一番取り戻したい河内国という地域における最大の敵であり障害だったのである。
第二に松永久秀は三好方の京都防衛司令官だったわけであり、対六角家を担当していたわけであるから、松永久秀の本拠地の傍に畠山勢が近づけば松永久秀に対して圧力をかけることが出来る。それにより六角家の動きを少しでも良くしようと考えてのことだったと思われる。
京都にいる六角家が大阪まで援軍に来ることを期待していた畠山高政としては教興寺に本陣を置いて松永久秀を牽制しながら六角家に使者を送って援軍の催促をしていたのだろうと思われる。
永禄5年 (1562年) 5月
大阪湾にて
和歌山の人達「三好の大艦隊だ!」
阿波国にある複数の港から次々の大小さまざま軍艦と民間船の両方が汽笛を鳴らして次々と出港していくという光景が繰り広げられた。
大勢の軍人や戦車などの兵器を載せて!
目指すは大阪府であり三好長慶のいる飯盛山城救援である。
久米田の戦いで敗北した三好勢の中には三好康長がいた!
三好康長は敗北後、三好家の根拠地といえる阿波国へ退却し、軍勢を再編すると共に四国の三好方勢力に召集令を発動して総動員し、海上戦力を結集させたのである。
その大軍勢が遂に反抗作戦のために阿波国の港を出港し始めたのである。
三好義興「進め!進め!!我が主君(父上)を救うために全隊休まずに進め!!!」
一方その頃
京都防衛を担っていた三好義興率いる軍勢が京都方面から転進して飯盛山城へ向かって進軍を開始した。
阿波国から来る四国勢の動きに連動するが如く、最高に良いタイミングで三好義興が軍勢を率いて飯盛山城への攻勢をかけるべく進軍して来てしまったのである。
畠山の兵士「敵軍が!」
湯川直光「なんだと……」
畠山勢が三好勢の動きに気付いた時には時すでに遅かった。
三好義興「攻撃を開始せよ!」
三好康長「義興に遅れをとるな!!」
三好義興の軍勢が飯盛山城を包囲していた根来衆と湯川直光の軍勢に襲い掛かると三好康長率いる四国勢も総攻撃を開始した。
京都で度重なる戦闘で勝利を重ねた三好義興率いる軍勢と四国の三好本軍ともいえる三好軍の最精鋭軍団である四国軍団の二つの軍勢に挟まれる形で畠山軍は劣勢に陥ることになった。
三好長慶「敵方から爆煙が上がったぞ!これは好機だ、門を開けて敵軍に総攻撃をかけろ!!」
飯盛山城に立て籠もっていた三好長慶は反撃の絶好のチャンス到来を見逃さなかった。味方が来たことを理解した瞬間に城の兵士達に出陣を命じたのである。
飯盛山城を包囲していた畠山軍は外から来た敵軍に対応している隙を突かれる形で飯盛山城から出陣してきた軍勢に背後を突かれて圧倒言う間に包囲殲滅される事態へ
湯川直光「戦え!ここで退くのは畠山の名折れだぞ!!」
必死に戦線を立て直そうと奮戦する湯川であったが……
形勢は覆せるものでは無かった。
湯川直光は戦場で戦って奮戦するも戦死してしまう!
畠山高政「なんということだ」
教興寺で敵の襲来を知った畠山高政は救援に向かおうとするものの既に時遅くだった。状況は覆しようが無かった。
畠山高政「高屋城に一旦引いて態勢を立て直すのだ!」
畠山家にとって高屋城は栄光の時代を象徴する城であった。その高屋城を三好方から取り戻し、一時は河内国を再び完全な支配下に戻すことが出来た。
畠山高政「高屋城だけでも防衛せねば……」
畠山家にとってみれば、河内国を取り戻せただけ万々歳だっただろう!
それだけで良い
しかし
叶わぬ夢である。
教興寺の戦いと言われる一連の戦いにより
細川春之、六角義賢、そして畠山高政の反三好の挙兵は終わりを迎える。
三好長慶は窮地に追いやられたが……
三好家には三好義興という優れた次期当主が存在することが世に広まった瞬間であった。
三好の天下は盤石なものとなったと世間が認識する戦いとして教興寺の戦いは象徴的な戦いとなった。
そして
悲しきかな……
斯波氏が越前国の守護を朝倉家に奪われてから始まったとも言われる下剋上の風潮、戦国乱世の始まりは遂には斯波氏が本拠地である尾張国を織田信長に奪われて斯波義銀が斯波姓を捨てて津川姓に変更
その頃、細川氏は管領として足利将軍を傀儡化して強大な力が健在なように見られた。崩壊は一瞬だった。細川春元は三好長慶によって下剋上されて転落、これを契機に細川家は急速に衰退
畠山家も衰退の道を少しづつ歩んでいた。ある意味で旧家臣だったとも言われる松永家が三好家に仕え始め、松永兄弟(久秀と長頼)が頭角を現して圧倒的な三好家の力を盤石なものとした。
そして今回の『教興寺の戦い』は!まさに畠山と細川の両家が手を組んで栄光の復活を目指して戦った。
その最後の輝き(いやまだ当分先まで畠山も細川も存続するけど)
足利一門として考えた時
細川と畠山が単独で政権を奪取するほどの力を見せた最後の戦いである。
以降は両家共に一族生き残りのための戦国サバイバル時代へと突入していくのである。
一つの時代の終焉を象徴する戦いであった。
※大事な事なので捕捉
細川家と言えば細川藤孝の細川も有名、こちらが現代まで名門として続く細川氏なのだけども……
細川藤孝は三淵晴員の息子で三淵氏は足利一門であるけど、細川氏では無い
藤孝は足利義輝から細川姓を名乗ることを認められた足利一門にしか過ぎず、細川京兆家のような元々の細川氏では無いのである。三管領の細川、鎌倉時代から続く細川という意味では正に今回が単独での最後の大戦となる。
名門最後の輝き!そして最後の戦い、それが教興寺の戦いと言える。




