教興寺の戦い①
皆様は畠山氏と聞いて何を思い浮かべるだろうか?
2022年のNHKの大河ドラマである『鎌倉殿の十三人』で畠山重忠という武蔵武士が登場する。畠山氏は武蔵国男衾郡畠山郷(現在の深谷市)を本拠地とする一族で武蔵武士で最も有名な秩父平氏の分家筋が畠山氏の始まりである。
秩父平氏が始まりの一族であり、伊豆の三浦氏や北条氏と濃い血縁関係を築いていた。武蔵武士が鎌倉幕府の支配体制の中で圧倒的な地位を築けたのは武蔵武士が源頼朝を平氏との戦いで勝たせた最大功労者の集団だったからである。坂東武士と言えば武蔵武士だった。
武士の起源として武蔵七党が重視されることがあるが、その理由は最も有名な日本史の武士団と言えば武蔵武士だからである。
ここで言う武蔵とは武蔵国である。何だか最近は武蔵=埼玉だと勘違いする人が多いが!武蔵国の国府は現在の東京都府中市だったので東京都も武蔵国である。明治維新で東京と埼玉県が分けられるまでは東京都と埼玉県は明治以前までは同じ国だった。
さて畠山氏の話だけで一冊の本が書けるくらいネタが多い一族である。日本史でもトップクラスの知名度を誇る一族が畠山氏である。
秩父平氏から始まり畠山重忠までの畠山氏を平姓畠山氏と言う!!
細かい話をすると長いので簡潔に言うと『北条氏と深い関係にいた畠山重忠は権力争いに巻き込まれて何も悪いことをしていないのに冤罪で処刑されてしまった。』という大事件が鎌倉時代に起きた。
無実の罪で平姓畠山氏は滅亡した!!!
余りにも酷い冤罪事件だったので畠山家を再興することが決定された。その結果として源氏一門筆頭に上り詰めていた足利氏の人間が畠山家に養子として入り畠山家を再興した。
足利氏の人間が入った畠山家を源姓畠山家と言う!!
以降、畠山家は足利一門として鎌倉時代を過ごし、室町時代に入ると同じ足利一門の細川・斯波と並んで管領職を世襲することが出来る一族として大抜擢され三管領一族として栄華を極めた。
応仁の乱で有名になる畠山義就は源姓畠山氏である。そして今回の主役とも言える畠山高政は尾州畠山家の当主である。
尾州畠山家というのは紀伊国(和歌山県)に力を有していた畠山一門である。戦国時代になると畠山家も衰退の道を辿り始めたものの依然として紀伊国と能登国(石川県の一部)では大きな力を持っていた。信長の野望というゲームでも和歌山と能登で畠山家が大名として存在していたりする程度には力を保っていた。
この畠山高政が同族である畠山一門を纏めあげて同じく同族の細川京兆家の細川春之、そして六角義賢と組んで反三好で挙兵した。
畠山高政は紀伊国から和泉国の岸和田城に攻め込んだ。久米田の戦いという戦いで三好軍を叩き潰し、三好長慶の弟の三好実休を討ち取り!華々しい勝利を挙げることに成功した。快進撃を始めた畠山軍は遂に三好長慶が立て籠もる飯盛山城を包囲することに成功した。
三好長慶「畠山如きに我が城が包囲されるとは……」
元々、三好長慶は大阪府高槻市の三好山にある芥川山城という城を本拠地として活動していた。しかし、この頃は大阪府内にある飯盛山城に本拠地を移し飯盛山城に居住するようになっていた。よって三好氏の本拠地は、この時点で紛れも無く飯盛山城だったのである。その飯盛山城を敵に包囲されてしまったのである。絶体絶命の状況に陥っていた。
このままでは三好長慶は畠山高政に倒されてしまうかも知れない状況になったのである。
畠山高政「六角は何をしているのか!」
その頃、畠山高政は苛立っていた。同盟者である六角義賢が援軍を送ってこないからである。その理由は前回説明したので省かせていただく
畠山高政からすれば三好長慶を討ち取る絶好のチャンスが来たのに同盟者が援軍を送ってこないという状況は納得いかない
畠山勢は飯盛山城を攻めようにも同盟者が援軍に来ないので立ち往生する状態に陥っていた。
一方その頃
三好義興「母上!父上を助けるため出陣致しましょう!!」
京都防衛司令官だった松永久秀は三好長慶の息子である義興と共に六角氏による京都侵攻を食い止めようと奮戦し将軍山城を落としたり、細川春之を討ち取るなどしたものの『久米田の戦い』で三好軍が敗北すると援軍が後方から来る可能性が低くなり戦線を維持することが出来なくなった。それ故に一旦京都防衛計画を縮小して後退せざる負えなくなっていた。
松永久秀「しかし、義輝様が京都市内にいる以上は我々が京都から離れるわけには……」
義興「何を言っているのですか!今が好機です。六角の動きが鈍いうちに移動して畠山を打ち破るのです。」
久秀「確かに……」
日本でも随一と言われる教養人だった松永久秀はどうしても京都を放棄することに抵抗があり、未練がましく京都周辺で六角軍が隙を見せるのを待つように六角軍の様子を窺うばかりだった。
義興「京都よりも父上を助けるが第一でしょう?」
久秀「確かに……」
どうしても京都を放棄することに躊躇する久秀であった。(大事な事なので!)
義興「では大阪で会いましょう!」
そういうと義興は久秀の元を離れて陣屋を出て行こうとする。
久秀「私も行くぞ……」
まだ躊躇する心を引きずりながら久秀は義興の作戦を採用することに決めた。
松永久秀と言えば非情で果敢な決断を即断即決でするイメージが強かったが応仁の乱以降興廃した京都を立て直して復興させ、日本一の教養人として名声を欲しいままにした久秀からすると京都を放棄するという決断は躊躇いがあった。
対して三好義興は京都を重視しつつも三好氏は元は四国勢力であり、大阪こそが三好氏の第二の本拠地だという意識が強かった。その辺の意識の差が京都を大阪より重視するかの意識にハッキリと現れていた。
義興も京都防衛の為に奮戦して前回の将軍山城の戦いでは大活躍した。京都放棄という決断をするのは中々大変なはずであったが……
三好義興は並みの武将では無かった。この大変優秀な次期当主に引っ張られる形で久秀は京都を後にしたのである。




