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侵略の正当化は難しい!~なぜ六角氏の場合~

侵略の正当化はリアルな政治ネタに見えるが世界史どころか日本史の永遠のテーマと言っても良い、これだけで一生は研究出来るし生涯解決しない研究テーマと言える。戦国時代においても侵略の正当化は非常に難しかった。侵略の正当化はなぜ難しいのか?


考えて見て欲しい!神奈川県知事が東京都都知事選に立候補して当選するだろうか?答えはNOと言わざる負えない。なぜそうなるかと言うと神奈川県民は自分達の知事が都知事になれば鼻高々かも知れないけど東京都民からすれば一種の侵略行為そのものであるからだ。


戦争では無いから戦国時代の話とは違うと考えるかも知れないけど、実際は同じ話である延長線上の話である。今川義元は三河国の支配者にはなれたが尾張国の支配者にはなれなかった。


今川義元が史実なら松平元康(後の家康)に一門の瀬名姫を嫁がせたのは三河支配のためだけでは無く尾張侵略の正当化のためだったとも言える。ちなみに瀬名氏は本家では無いが今川一門であり、考え方によっては今川貞世の直系と考えた場合は今川一門で一番有名ですらあったくらいで井伊氏と血縁関係にもあった。瀬名氏の当主は関口親永だった。義元は松平家と縁戚になることで三河支配そして尾張支配を正当化しようとしていたのである。


※姓が違っても同族である。大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』でもそうだが兄弟で統治している地域を分けている場合は便宜上の都合で姓を地名にしている場合があったりするなど姓の違いは同族かどうかには関係無いのである。


三河の松平氏は三河を統一すると尾張国に攻め込んだように尾張の織田家も何度か三河に攻め込んでいる。三河と尾張は別の国として区分されていたが現在は愛知県という一つの県なのと同じで戦国時代でも尾張と三河は文化的に似ていて経済的に強く結びついていた。例えば八丁味噌を三河と尾張の人は好んで食べていたのと同じである。日本語も地域差が激しい時代だったけども三河と尾張は比較的似ていた。それだけ地理的に三河と尾張は近かったし、経済的に文化的に結びついていたのである。


三河の人は三河を統一すると尾張へ、尾張の人は尾張で力をつけると三河へ、それぞれ攻め込んだ歴史があるのは三河と尾張が互いに引き寄せあったからである。


だからと言って三河の人間が尾張に攻め込めば尾張の人は必死に抵抗したし、逆に尾張の人間が三河に攻め込むと三河の人は必死に抵抗したことから考えても侵略は容易では無かった。


実は『武力による侵略』では無く『話し合いによる共同支配』という概念は日本史においては存在していた。しばしば共同統治という概念自体は戦国時代にも度々登場しており、かつては半国守護などという概念まで存在していた。


例えば三河の松平家と尾張の織田家は血縁において非常に強く結びついており、松平家の尾張侵略の時も織田家の三河侵略の時も『話し合い』は行われており、松平家の尾張支配を容認する織田家、三河の織田家支配を容認する松平家は存在していた。要するに選挙を行ったら下手したら勝てるくらい、もしかしたらいたかもしれない


しかしながら反対の人は断固反対なわけであり、選挙をすれば納得するという類のものでは無かった。だから戦争になるのである。民主主義なら『武力衝突は起きない』などというのは大嘘であり、実際に日本を含めて選挙結果に不満なせいで武力によるクーデターや内戦なんて珍しく無かった。


最初の話に戻るけども、神奈川県知事が例え東京都都知事に当選したとしても片方の職は辞さなければならなかったわけであるし、両方とも行うなんて出来ないわけである。両方ともやるならば、やはり相当な力技が必要になる。ルールを曲げるには力が必要だ。それが国民の支持によるものか賄賂などの金の力か武力によるものかの違いにしか過ぎない


当然だけどもルール変更に反対な人達は、それが国民の意志だったとしても、つまり過半数の国民の支持だとしても容認できないと考え、これは武力を使ってでも阻止しなければならないと考えるレベルまで行くならば余裕でクーデターや内戦が起きるのである。


ここまで長々と話してきたが本題に入るとしよう!


六角氏は近江国、つまり現代の滋賀県を支配していた。滋賀県知事(近江守護)は六角氏だったのか?これについては議論が必要である。もともと近江守護は京極氏という一族が担っていた。京極氏が健在な頃、既に六角氏は近江国で京極氏の命令を無視して近江国を支配し始めており、つまり県知事の命令に従わなかったのである。そして追い詰められた京極氏は最終的に北近江の浅井氏によって近江国の守護を降ろされてしまったのである。滋賀県知事(近江国守護)は武力によって地位を引きずり降ろされたというのが真実だった。


その後、六角氏は北近江の浅井氏を屈服させ、足利将軍家と争った。応仁の乱の後、将軍になった第九代将軍の足利義尚は近江国の六角氏を討伐するために何度も何度も攻め込んだ。つまり六角氏は正当な日本の支配者だった足利将軍から討伐を受ける側だったのであるけども甲賀郡に逃げてゲリラ戦で徹底抗戦して今のアフガニスタンのような戦い方をして足利将軍を苦しめた挙句に応仁の乱の後に復活しつつあった足利将軍家による支配の復活を妨げたのである。


応仁の乱で戦国時代になったと言うけども、応仁の乱の後に将軍になった足利義尚は大軍を率いて近江に攻め込んでいたのだから相当な力を持っていたし、全国支配はしていたのだから、まだ戦国時代だったわけでは無かった。問題は足利義尚が若くして六角氏を討伐している最中に死んだことだった。


つまり六角氏というのは応仁の乱の後に天下が再び平和になるのを阻止した元凶とも言える一族だったのである。


ここから複雑な話になるけども!


だからと言って六角氏が悪だったかと言うとそうでも無い


そもそも論で言うと足利義尚のせいで応仁の乱が起きたわけだし、正当な足利将軍は足利義尚では無いとまで六角氏は考えていたわけである。ある程度の正当性があったから近江の人々は足利軍と戦ったわけだし、六角氏に付き従う家臣がいたことは、それなりの正当性が六角氏側にあったことを示すとも言える。


何よりも六角氏は楽市楽座を行った最初の大名とも言われており、後には織田四天王の滝川一益が旧六角家臣だったとも言われている。信長の娘を娶ったことで有名な蒲生氏郷も旧六角家臣だった。織田家と六角氏は同盟を結んでいたり、伊勢の北畠と縁戚を持っていたりした。一説には織田信長の母親が六角氏の出だったとまで言われたりしている。六角家は善政を敷いていたことで有名であり、わりと地元である近江国では庶民の人気が高かったのだから優れた統治者だったわけで甲賀忍者は日本で一番有名な忍者集団として広く全国どころか全世界に知られてすらいる。


そんな六角氏は様々な有力大名家と婚姻関係を結んでおり、細川京兆家の細川春元の息子の細川昭元は六角氏の娘との間に生まれた子供だった。


細川春元と言えば三好長慶に『悪の権化』として糾弾されて天下の大悪人として討伐されて幽閉された三好長慶の元主君である。要するに下剋上クーデターを三好長慶にされてしまい命は奪われなかったが保有していた領地や地位は三好長慶に全部持っていかれた人物である。


『腐っても鯛』という言葉があるが!まさに細川京兆家は没落しても『天下の細川』の本家だけのことがあり、三好長慶にとっては元主君でもあった。主君殺しは長慶にとっても避けたい行為だった。だから殺さずに幽閉した。一時は細川家が持つブランドを利用するために細川春元を家臣にしようとして懐柔策として領地を与えたりした。その最たる例が春元の次男の春之に将軍山城を与えたりしていたことである。


だけれども


細川春元から見れば納得いくはずも無かった。


細川家は足利将軍家の分家筋であり、三河国額田郡細川郷を発祥とする超名門である。三管領(細川・斯波・畠山)の細川である。管領は将軍のナンバー2であり、室町幕府の事実上の支配者だった。実際に三好長慶が下剋上クーデターをする前は足利将軍を傀儡化して日本を支配していたのは細川春元だった。


それほどの人物だった細川春元が元部下の三好長慶の支配下に甘んじるはずも無く、下剋上クーデターされたなら今度は自分が三好長慶に下剋上クーデターしてやろうと考えるのも時間の問題だった。


三好長慶による細川春元への懐柔策は失敗に終わった。だから再度逮捕して幽閉して領地も地位も取り上げようとしたのである。


そこで六角氏は幽閉されなかった細川春之と紀伊国にいた畠山高政(本家筋)と組んで三好長慶を討伐するべく挙兵したのである。だがしかし、開戦後すぐに三好長慶の家臣で筆頭家臣とも言える腹心の松永久秀と長慶の息子である義興の二人の活躍で呆気無く盟友の一人で大義名分を支えていた細川春之を失ってしまった。


三好長慶による日本支配を良く思っていないはずの時の足利将軍である足利義輝は六角氏の見方をするどころか徹底抗戦の構えを見せて六角氏に敵対的な態度を取って来たので京都の支配を巡って争う羽目にまで陥ってしまった。


六角氏よる日本支配計画は最初から破綻する方向に向かったのである。


三好氏の本拠地は阿波国(現在の徳島県)にあるのだけど四国における三好氏の支配は盤石であり、崩しようが無かった。四国から京都までの間には海があるのだけども、その海の支配圏も三好氏は盤石な支配体制を築いており、これに対抗出来る海上戦力も持つのは中国地方の毛利氏くらいなものだった。


三好氏の第二の本拠地とも言える大阪府における三好氏の支配事態は畠山高政が奪う勢いまで行くものの大阪府民(河内・摂津・和泉国の国民)は畠山高政による大阪支配を望んでおらず、反抗的であり抵抗が激しかった。すなわち武力で侵略しても民心を得るのは絶望的ですらあった。


何よりも敵である三好は四国から幾らでも兵力と物資を運んで来ることが可能だった。資金は堺の商人や本願寺勢力などから潤沢に貰ってすらいたので尽きる可能性は無かった。それらを切り崩すほど六角も畠山も力が無かった。


京都の南にある奈良県つまり大和国には松永久秀と三好義興が大軍を率いて反撃の機会を狙って虎視眈々と六角軍の動向を探っており、彼らは大阪を防衛中の長慶の支援に回ることすら可能だった。対して六角軍は大和国に攻め込むなど不可能だった。


畠山高政からは援軍要請が来ていたが援軍に向かえば松永久秀が大挙して京都に攻め込んでくるのは分かりきっており、それに足利義輝までもが加勢する情勢では六角氏は退路を断たれて近江に撤退することすら出来ずに全軍が壊滅などという悲劇もありえた。


つまり万策尽きたのである。

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