細川春之が六角義賢と畠山高政と共に挙兵する!恐怖の大三好包囲網結成!!
応仁の乱が起きた。応仁の乱で六角氏は大きな影響を受けた。京都は周囲を山に囲まれて宇治川と桂川という大きな川が流れている。一見すると大坂方面と奈良方面つまり南側が開けていて平地なので南側が京都の弱点のような気がする。
しかし、大阪方面は淀川のせいで通り道が狭く、しかも桂川と宇治川が合流する地点があるせいで実は攻め難い。奈良方面は木津川が存在していて木津川を超えても宇治川が邪魔をしていた。
つまり、南側から京都に攻め込むのは想像よりも遥かに難しいのである。西側は大きな山脈と桂川が邪魔をしていて天然の要害が京都への道を塞いでいた。
対して近江国(滋賀県)がある東側は京都市内に入ることが出来たのである。鴨川に到達するより前に京都の中心地に入ることが出来た。比叡山・銀閣寺・吉田神社・清水寺などが京都の鴨川より東側に集中しており、戦国期に最も繁栄していたのは鴨川の東側地域だった。ちなみに『鴨川を渡った直ぐ傍に皇宮や室町通り』があるのである。つまり京都の中枢が鴨川の両側に極集中していた。
東側と西側どちらが重要か?
という議論をする場合、京都の西側から来た敵は鴨川を超えても東側にある拠点を落とさなければ京都陥落とは言えなかった。鎌倉幕府が築いた六波羅探題の拠点は鴨川の東側だったし、鴨川の東側にある拠点を落とさないと京都を落としたことにはならない程度には鴨川の東側は重要だった。
まだまだ長い話になる
六角氏の支配地域は近江国の中心地である南近江だった。六角家は京都の防衛上最も重要な京都東側を本拠地としており、足利将軍家が安定的に京都支配を実現するためには六角氏の協力が不可欠だった。
しかし、六角氏は応仁の乱が起きると早い段階で『足利将軍家の所領』や『敵対勢力の領地』を奪う行為を積極的に行った。
応仁の乱が『西軍が総大将死亡による解散で自然消滅』すると東軍に担がれていた第九代将軍の足利義尚が六角氏討伐を行った。
足利義尚の六角征伐は中途半端に終わった。近江国の中心地は奪えたものの近江国の甲賀市を中心とした地域に六角軍が立て籠もって抵抗し続けてレジスタンス活動のようなゲリラ戦を繰り返して来たからである。甲賀忍者は忍者の代名詞として余りにも有名だが、その最大の理由が六角氏が忍者を使ってゲリラ戦を展開したせいだと言えるのである。
つまり忍者の武勇伝の半分くらいは六角氏が作った。
将軍の足利義尚は結局のところ近江国で戦い続ける羽目に陥った末に早死にして終わった。その後、六角氏は次の将軍である足利義稙に取り入った。
この第十代足利将軍の足利義稙は!なんと!!
敗北したはずの西軍が担ぎ上げた足利義視の実の息子だった!!!
つまり廻り回って応仁の乱の敗者側の人間が将軍になってしまったのである。(笑)
こうなると情勢は大逆転してしまい
敵だった六角氏は足利将軍家から許されて一気に厚遇されてしまい……将軍家に奪われた領地を奪還して勢力を取り戻してしまったのである。
東軍が勝ったはずなのに……西軍陣営の人間が将軍になるという大逆転劇が起きてしまい、革命に近い状態になってしまった。そのせいで政治情勢が荒れないはずが無かった。
東軍側の総大将を務めていた細川京兆家は当然だが……西軍側の将軍を良く思わなかった。西軍側は逆に猛プッシュを始めた。何が何だか分からないメチャクチャな状態になってしまうのである。
六角氏は反逆者として振舞った。
自分達に都合が悪い将軍が就いたり政策を実行されると公然と反逆して東西関係無く利用して回った。とにかく京都という首都の防衛上、京都の東側を支配している六角氏は邪魔過ぎるために何度も何度も討伐軍を送られるんだけど……その度に強固な要塞となっていた観音寺城や甲賀忍者を使ったゲリラ戦術で攻め込んでくる敵に対して徹底して抵抗したせいで常に京都は安定せずに混乱し続けたのである。
六角氏「嫌じゃ!嫌じゃ!!」
常に何事にも『駄駄を捏ねる』子供のように振舞ってるだけなら可愛いのだが(笑)
厄介なのは優れた内政能力と外交能力を六角氏は持っていたことである。
内政能力で言うと織田信長が実行したことで有名な『楽市楽座』は実は六角氏が最初に行ったと言われているほどであり……統治者としては超一流だったので近江国の民衆は総じて六角氏の統治を好んでいたし、京都の市民からも人気があったと思われる。
外交面では確定事項としては伊勢国(三重県)の北畠氏と強固な婚姻関係を結んでいた。また織田信長の実の母親である土田御前は六角氏の出だった説がある。実際に織田信長は六角氏の領地に安土城を築いた上に六角氏の家臣から慕われていて信長自身も重用していたほどだった。
このように六角氏は無能とは程遠い戦国有数の問題児でキングメーカー(王様製造機)として君臨していた訳である。
ここから本題に入っていきます。
足利義輝が将軍になるのにも六角氏は絶大な貢献をしており、細川京兆家が三好長慶に京都を追われた時にも大々的に支援していたという面があった。細川京兆家の当主である細川春元の妻が六角家の人間だった。
三好長慶は京都の統治を安定させるためにも六角氏と和平する必要があったので細川春元の政権復帰を認めるしか無かった。六角氏は三好政権内に身内を送り込んで影響力を高めようとしたのである。
六角義賢「春元が逮捕されたというのは本当か?」
後藤賢豊「そうように報告が入ってきています。」
後藤賢豊は六角氏の有力家臣でナンバー2
義賢「政権の復帰を許した直後に逮捕するなど許せん!」
賢豊「春元様の妻は義賢様のご兄弟です!このような屈辱的行いを許すわけにはいきません」
義賢「しかし、我が家だけで三好と戦うのは……」
賢豊「浅井長政と織田信長に同盟を結ぶように促すのはどうでしょうか?」
浅井家は北近江を支配している勢力である。
義賢「敵に塩をくれてやるだけだぞ!」
賢豊「浅井家は近江を支配したいと思っています。しかし美濃の斎藤家が邪魔で我々を攻められません、織田家は斎藤家が近江に攻め込むと我々に配慮して美濃に攻め込まずに静観しています。これは浅井家が斎藤家の邪魔をしようとするのを理解しているからです。」
美濃斎藤家が近江を征服するには通り道として浅井領を通り必要があったが……同じく近江征服を狙う浅井家は当然だが斎藤家の近江侵略を許すわけにはいかなかった。故に浅井家は当然のように斎藤氏を攻撃する。しかし、この時に尾張の織田家は美濃に攻め込むのを辞める。何故ならば六角氏は織田家の同盟者であり、浅井氏は六角氏の敵なので『浅井と斎藤が戦ってる時は美濃に攻め込まずに静観した訳である。』そうすることで近江国の膠着状態を維持した訳である。
義賢「我々が京都に行く間、浅井を美濃攻めに向かわせるということだな」
賢豊「そうすれば美濃勢が近江に攻め込むことも浅井勢が我々を攻撃することも無くなります。」
義賢「それは分かったが……京都を攻略できるのか?」
賢豊「細川春元の息子の細川春之は長年三好長慶の寵愛を受けて兄の昭元を差し置いて細川京兆家を相続しました。」
義賢「嘆かわしい」
賢豊「しかし、今回の件でさすがに腹が立ったのか我々に味方したいと申し入れがありました。」
義賢「なに!ということは将軍山城が無傷で我が方の手に入るのか?」
現在の京都市左京区北白川清沢口町にある瓜生山に築かれた城の名前が『将軍山城』である。この直ぐ傍に志賀越道(下鴨大津線)がある。大津は近江国(滋賀県)の首都である。大津から京都に行くには『遠回りの山科方面』と近道の志賀越道がある。この近道の志賀越道を塞ぐようにあるのが『将軍山城』である。まさに京都の玄関口、中国で言うなら国門函谷関のようなものである。
賢豊「そうです!京都への道を塞ぐ、あの鉄壁の城が我が方のモノになります。」
義賢「三好の大軍に対して我々は勝てるのか?」
賢豊「ご心配無く、紀伊国(和歌山県)に退却していた畠山高政が我々に呼応して大坂へ攻め込みます。」
義賢「素晴らしい!我々は三好の軍勢を惹きつけておけば良いのだな!」
賢豊「さようでございます!敵は待てば待つほど苦しくなるのです。」
これほどの絶好の好機が到来したことは今までに無かった。六角氏は京都の玄関口に常にいるのに……基本的に常に『攻められる側』だった。しかし、今回は『攻める側』に回れるのである。
義賢「京都を占領出来れば我々が畿内を支配する未来も生まれる。これほどの機会逃すわけにはいかない!」
六角義賢は動員出来る全ての手段を講じて京都進出のための大戦を始めることを決定した。
ここに細川京兆家・六角家・畠山家連合軍が結成され、大三好包囲網が形成されたのである。




