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三好政権VS足利将軍家①

将軍足利義輝は将軍家を食い物にする三好長慶を排除しようと画策していた。足利義輝の側近細川藤孝らと結託して三好政権を打倒しようとした。その策の一つとして上杉景虎と上杉憲政ら反北条勢力を結び付けて関東平定を目論んだ。さらに言えば現職の関白となっていた義輝の義理の義理の弟(義輝が三月生まれなので同い年とは言え、恐らく弟と思われる。)近衛前久をまでを下向させて支援したりもしていた。


足利義輝「なんとかして三好政権を打倒出来ないものか?」


 三好家と足利家の権力争いは一般的には足利家から権力を奪い取ろうとする三好家という風に現代の人は見るかもしれない。しかし、現実的には当時既に足利将軍家の権威は失墜し始めていた。なによりも重要なことは応仁の乱も、その後の将軍家の格を落とすような京都での行為や戦乱は全て将軍家と分家筋(斯波、畠山、細川など)によって行われたという事実は隠しようの無い事実であった。


 直近の三好家の台頭も身内の細川春元による支配から足利家が抜け出すためという大義名分で行われたのが始まりである。つまるところが身内同士の争いに三好家が巻き込まれた挙句に細川春元が弱くなると今度は三好家を排除しようと足利家が画策し始めるという理不尽極まりない状況となっていた。


(要するに邪魔者=誰かに排除させる。=排除した奴も排除させる。の繰り返しをしていた。もっと悪く言えば自らは手を汚さずに必ず誰かの力を借りる所が益々話を複雑化させて争いが止まらない理由となっていた。)


伊勢貞孝「毛利を味方に付けましょう。」


伊勢氏と言えば!後北条氏の北条早雲が北条を名乗る前の姓が伊勢宗瑞だった。伊勢氏は代々足利将軍家に仕える筆頭家臣の一家だった。元を辿れば平氏であり、平清盛を出した伊勢平氏の残党と言われている。『平家物語』だと平氏は全滅したような感じに聞こえるが実は伊勢平氏は室町時代そして戦国時代でも強大な力を持っていた。


義輝「飛ぶ鳥を落とす勢いとはいえ、毛利元就は高齢故に上洛しても長くは統治出来ないだろう…」


 義輝は上杉景虎を贔屓していた。景虎による関東侵攻を大々的に支援していて関東侵攻が成功したら景虎に京都に上洛させようとさえしていた。だが越後の上杉景虎による関東平定は泥沼化しており、残念ながら将軍家への直接的な支援になるほどの効果を上げることにはならなかった。それどころか上杉景虎の京都への上洛すら怪しくなってしまった。これは大誤算としかいえない事態である。


貞孝「そうですね、だからこそ毛利は我らの味方として最適です。」


 そこで今度は西の毛利家に目を向けようと貞孝は提案していたが……この提案の陰には同族である後北条氏(伊勢氏)を重視している貞孝としては上杉景虎が後北条氏を倒して京に上洛するなどということは許し難いと言う面があり、足利義輝による上杉氏支援の流れを中止させて別の勢力の上洛を促したいという思惑があった。


義輝「毒を持って毒を征するか…」


 毛利家は元々はお世辞にも大名とは言えないほど小さな国人領主だったが…毛利氏の跡目争いで甥の執政となった毛利元就が甥を謀殺して跡目を相続した。その後、尼子氏との抗争で大内氏を利用した後に今度は大内氏を滅ぼして中国地方で最有力勢力へと成長していた。


その毛利氏のトップである元就は既に高齢である。上洛しても大きな脅威にはならないという思惑もあって両者にとって魅力的な相手に見えた。


貞孝「既に毛利とは本願寺を通して接触をしております!」


 本願寺(浄土真宗)は極めて巨大な宗教勢力である。開祖親鸞は比叡山で学んだ後に浄土宗の開祖法然の一番弟子となった。後に法然の思想を受け継いで女性を抱いて結婚した。日本の仏教においては唯一の公式で妻を娶ることを認めた仏教である。浄土真宗は現代においても日本最大級の宗教勢力のために親鸞の時代からそうだったように思われるが…親鸞が死んでから孫の代になるまでは北陸の弱小ローカル宗教でしか無かった。それが鎌倉時代の中盤辺りから急速に勢力を拡大し始めていき、今や日本全国に勢力を広げていた。


 前にも触れていたが…本願寺の勢力が一番強いのは関東である。こう聞くと「本願寺って関東なの?」という疑問が出るだろうが、その理由は関東の場合は直接信長の勢力が関東にまで及ぶまでが遅く、本願寺と織田家の争いが行われていた間は直接信長と争わなかったことが原因である。これと同じで広島の本願寺勢力も実は強かった。こちらは毛利家と深い縁があり、後に毛利が織田包囲網に加わる理由にもなっている。


 浄土真宗は僧侶でも結婚できるために本願寺家は現代でも全て親鸞の血を引いていることになっている。つまり世襲制の仏教となっている。こう聞くと俗ぽい宗教になるかもしれない…確かにそうなのだが…あえて擁護しておくと…それだけ一般大衆に寄り添った宗教と言える。実際に他の仏教勢力と比べると極めて大衆のお布施に依存しており、そのことが原因で貧しい人にも非常に優しい宗教でもあった。(貧しい人は少なからず罪を犯していただけに…それを許す寛大さが浄土真宗にはあったのである。)


貞孝「毛利に三好を潰させて今度こそ!我々が天下を牛耳るのです。」


義輝「将軍が統治しなければ世の中は平和にはならないからな」


 応仁の乱の後というもの常に救世主という名の災いを京都に持ち込んでいたのは常に将軍家であった。前の話の繰り返しになるが…大内義興も京都に上洛した時は将軍家を救うためであった。それを排除して権力を握ったのが細川春元であり、その春元から将軍家を救ったのが三好である。(単純化しています。細かく話すと複雑すぎて業が深くなり過ぎる。)


 まさに「訳が分からないよ!!」な状態であった。


 こんな訳の分からないことをする外道が正義ヅラ出来るのは征夷大将軍という役職が現代の我々では想像できないほど強大な権力と権威を持った地位だったためである。


 後北条氏を代表とする多くの戦国大名が幕府の動員に応じなくなると将軍家の力が弱まったように見えるだけで足利幕府の基本構造は初期から何ら変わらずにいた。もちろん幾度かは改革の機運が高まり中央集権化(俺様最強状態)にしようという将軍もいたが…何れも様々な抵抗勢力により挫折していた。


 このまま改革が上手くいかずに動員出来る大名がいなくなれば幕府は自然消滅するのだが…その権力と権威を利用しようとする者が後を絶たずに群がり続けたために悲劇は起き続けていた。


 現代の我々からすれば将軍家を上回る一つの強力な勢力として存在するはずの朝廷は鎌倉時代の承久の乱、南北朝、応仁の乱という大きな事件の間に将軍家以上に消耗していた。将軍家のイエスマンに成り下がったわけでは無いが…武士に対する命令権という意味では武家の棟梁とされる征夷大将軍の方が任命する朝廷よりもあったという『訳が分からない!』状態が常識となっていた。



何度も繰り返される征夷大将軍による京都を戦場とした戦いが永遠のように繰り広げられてた。

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