織田信長は動かない!!
松平家は織田家との戦いを通じて幾つかの戦利品を手に入れた。一つは豊富な武器弾薬である。今だに一号戦車が現役の松平家には鹵獲したM4シャーマン戦車は立派な戦力となった。それでも織田家は戦線を維持するのに十分な量のM4シャーマンを保有し生産している。
「缶詰が美味しいのだー」
そして最も喜ばれる戦利品は缶詰である。軍需生産に偏る西三河は食料の生産力が悪いために供給される食料の種類が少なく単一のものが多いという弱点が存在した。それに対して織田家から得た戦利品からは様々な種類の缶詰が手に入ったのである。これには本多忠勝も喜ぶのであった。
西洋の軍隊は西洋社会の文化の写し鏡である。現代は比較的マシ?かもしれないが…イギリスもフランスもドイツも『社会での階級=軍隊階級』なので貴族は貴族、市民は市民、労働者は労働者というように分かれている。具体的に言うと程度の差はあるが貴族生まれは後方の民家などの邸宅で生活する。これは第一次世界大戦時に如実に表れ、貴族階級などの豊かな人は塹壕での生活をしてはいなかったのである。
本多忠勝が食べる食事は一兵卒が食べる食事と大きくは変わらない。場合によっては一兵卒の方が豪華な場合もあり得る。このようなことを書くと驚く人もいるだろうが…上司が部下と変わらない食事と待遇を受けている光景が日本では比較的良く見られる光景である。これは数少ない日本の美徳である。
この伝統は現代においても日本企業に受け継がれており、オフィスで上司と部下の仕切りが無かったり、上司との飲み会、弁当を皆でオフィスで食べる等は意外と海外では行われていない日本独特の文化だったりする。これらは日本人にとっては悪い風習とされる面がある一方で上司と部下の垣根を無くして忠誠心を上げる効果がある。
こうした風習は『戦(人殺し)を生業とする職業』つまり武士にとっては『武士社会における平等』という概念において重要であった。武士は常に自らを殺人鬼として罰していたのである。これは殺人などの『穢れる行為は絶対にしない!!』と誓っている公家達とは対極にいたと言える。
※殺人鬼とは私的な殺人や犯罪のことを指している訳では無い!!ここで言う殺人とは『公家達の自らは汚い仕事はしない!!』という穢れ主義に対してのアンチテーゼ(皮肉)という意味合いがある。
※『穢れ主義』とは日本の伝統的な宗教概念である。身近な所で説明すると神社などで参拝前に手洗いする行為のことを指す。穢れ=怨念=恨み、嫉妬、憎しみなどである。これが溜まると祟りや災害、そして妖怪が生まれると信じられている。『穢れ主義』の究極の姿が『平和主義』である。平和主義と聞くと聞こえは良いが…平安時代後期には軍隊や警察といった組織が穢れを生む存在として軽視され『文字通り最低限』しか存在しなくなった為に一般国民が苦労する羽目になった。
公家と武士の対立は表面的には平安時代から始まっているように見えるが…根っこには大和朝廷による強引な日本統一(中央集権)に対するアンチテーゼ(地方分権)という面が濃かった。だからこそ公家達の『穢れ主義』や『贅沢な貴族生活』などに対して武士はアレルギー反応のようなものを持っていた。
東日本と西日本には地域性の為か異なる面はあったものの武士文化の根っこに公家に対する反感という概念が根強かったのは間違いないと言えるだろう。
話がズレまくったので話を本編に戻します。
守山に陣取る松平家に対しての今川家の圧力は強まった。織田家が停戦案の実行には守山からの撤退を要求したためである。今川家の圧力に対して松平家は酒井忠次を奔走させる形で今川家と話し合いを行うことで今川家の圧力を減らそうとしていた。
「いやぁ~ゴルフは良いですな!!」
呑気な口調で織田信広は秀康に語りかけてきた。
「そうだな…」
秀康からすると不思議を通り越して呆れるほど信広は呑気であった。
織田信広、彼は松平家との間には史実において因縁がある。というのも家康人質事件時に人質である家康を奪われた今川家が松平家の兵力を使って安祥城を攻略した当時に安祥城の城主であったのが信広であった。故に信広は生け捕りにされて家康との人質交換の材料にされた人であった。そのために情けない信長の兄というイメージがある。(もしくは影の薄い兄)
しかし、彼は優秀であった可能性がある。というのも信広は信長の腹違いの兄で正室の子供では無い、故に織田家の跡取りにはなれなかった人である。普通であれば弟に跡取りを横取りされた恨みを抱いていて可笑しく無い人物である。現に信長の実の弟や兄弟または親戚の多くは信長に逆らったために粛清されている。それに対して信広は不思議なことに史実において全くと言って良い程に粛清の対象にはならずに生きながらえている。それどころか織田家の重要拠点の一つである守山城を任されていて、織田家の一門のまとめ役で一門筆頭格であった。これは後に信長包囲網の最中に本願寺の一揆勢との戦いで無念の死を遂げるまで続いた。
もし彼が信長包囲網時の激しい戦いを生き抜いていたのであれば…もしかしたら天下人レースに参加していた可能性も決して無かったとは言い切れないかもしれない。少なくとも大出世していたはずである。
そういう意味では決して影が薄かった訳では無い、薄いのは彼の存在を重視しない歴史学者や大河ドラマのせいでしか無いのである。
さてそんな信広だが…今現在は松平勢に自らの居城を包囲されている最中である。絶賛松平家と戦闘中である。にもかかわらず信広は城から出てきて秀康と仲良く守山にあるゴルフ場でゴルフを楽しんでいた。
切っ掛けは停戦交渉中のことである。
「今日は天気が良いですな!こんな日はゴルフでもして楽しみたいですな!」
と信広が世間話をする。
「ゴルフとはなんぞ?」
ゴルフを知らない秀康が聞くと信広は目を丸くして驚きながらも秀康に「ゴルフを知らないとはもったいない!」と言いながら「今度、一緒にゴルフしましょう!」と言ったのである。
その結果、停戦交渉を兼ねて両陣営主催のゴルフコンペが行われることになった。
基本的にゴルフ経験の無い秀康に信広が懇切丁寧にゴルフを教えて褒めちぎる展開となった。信広からすれば秀康のご機嫌をとって少しでも早く松平勢に守山から撤退してもらおうと考えていたのである。
そんな信広の思惑は成功しつつあった。秀康と信広が仲良くなれば家臣の三河武士達も守山を守る織田家の家臣達と仲良くしない訳にはいかなくなる。それを感じ取った織田家の家臣は早速とばかりに松平家の家臣達と仲良くなるために様々な努力をして両者の溝を埋めていったのである。
溝が埋まれば情が生まれ、松平勢も今川の撤退で攻める大義が無くなっただけに強引には守山を攻めれなくなっていった。
そんな信広の思惑は秀康も理解していた。しかし、あえて信広の策略に乗っていたのである。正直言えば既に守山に陣取り続けるのは今川家の支援無しでは松平家の財政的に厳しくなっており、撤退は避けれないからである。ここはより良い条件を織田家から引き出しての撤退をしたいという魂胆があったのである。
そんな和やかな雰囲気を、ぶち壊しかねない人物がいた。
その名は吉良義安という。
義安は、ここぞとばかりに自らがゴルフが得意だと言わんばかりに活躍したのである。
周りから「空気読めよ!」と言われかねない程である。
だが名門吉良家の当主に直接文句を言える人間はいなかった。
吉良義安について語っておくと義安は秀康の側近で主に家系図の管理や礼儀作法、儀式などの指導を担っている。他には公的文書の作成と代筆をしていたりする。平時から意外と忙しい仕事をしている人物だったりする。戦時には秀康の護衛として従軍しているし、家臣の吉岡定勝は立派な松平勢の一躍を担ってもいる。形式的には今川家臣だが事実上は松平家の家臣と言えるほど既に吉良家は松平家に吸収されていた。ただし、名門であり、彼女の妻は家康の祖父の清康の子なので松平家の御一門と言える立場でもあった。故に誰も彼女を注意することは出来ないのである。
また注意してはいけない!存在でもある…何故ならば義安もご多分にもれず三河武士である。下手に注意すればヘソを曲げて面倒臭いことになるのは必至であった。
とにもかくにもゴルフコンペは織田と松平双方の思惑を反映して和やかムードで終始した。
織田と松平の緊張が和らぐ中で今川家と松平家の緊張は高まり始めて来たのである。
酒井忠次の胃はギュウギュウに締め付けられて今川家との交渉中も忠次の表情は苦しいものとなっていた。
今川家は織田家との和平を理由に南尾張に駐屯する兵力を減らして松平家に南尾張の防衛を一任してきた。結果松平家は広大な戦線をほぼ単独で防衛せざるおえなくなっていた。
ここで織田家が松平家を攻撃すれば松平家は苦しい状態に追い込まれるのは避けられない事態になっていたのである。
にもかかわらず、織田信長は動かなかった。
意図は明確であった。彼は美濃攻めに集中していたし、松平家との和解を望んでいたのである。
これは当然、今川家にも伝わっていた。
史実においても、そうだが今川家は次第に松平家が織田家に味方するのではないかと疑い始め、松平家に対する圧力を強め始めたのである。こうした今川家の圧力は元々反今川色の強い松平家臣に不信感を抱かせるのに時間はかからなかった。
今川家と交渉している酒井忠次も今川家の方針転換と強すぎる締め付けに不信感を抱いていた。とは言っても反今川より反織田を重視して親織田派を弾圧してきた主流派の忠次は簡単には親今川路線を変更する気は無かった。
故に粘り強く忠次は今川家との交渉を続けたのである。
松平家と織田家との停戦交渉は実現した。
松平家は遂に守山から撤退したのである。
この時に松平家は幾らかの賠償金を手に入れた。この賠償金は本来は松平家の領地経営や軍備の拡張に使用されるべきであったが時期が時期だけに使い道には慎重にならざるおえなくなっていた。
特に軍備拡張は次の戦の準備をしているというメッセージを織田今川双方に与えかねなかった。特に今川家は松平家に対して神経質になっているだけに下手をすれば間違ったメッセージを送りかねなかった。
そんな時に京都から織田今川の和平及び東海地域の秩序と平和の確立の為に幕府が仲介役として介入してくることになった。




