足利家の政治的介入
足利家による政治的介入と聞くと読者の中には「将軍家は力を失っていたのでは?」と思う方もいるだろう。確かに将軍の権威は低下していた。しかし、足利将軍は初代から常に京都を追放されるのは当たり前であり、初代以降はお家芸と化している。追放されない将軍も大半が殺されている。死に方で言えば応仁の乱が起きた時の将軍でありながら夢のマイホーム銀閣寺の完成を見ずに死んだ足利義政が一番良いと言えるほどである。つまり、足利家の将軍で平穏無事に生きれた人間の方が存在しないと断言出来るほどである。最も鎌倉幕府の将軍も似たような物(傀儡)であった。
にも関わらず足利将軍家の権威と権力が常に一定以上あったのは足利一門(斯波、畠山、細川、今川、吉良など)と幕臣として仕える伊勢氏などの家臣達がいたお陰であった。それも第十三代将軍の足利義輝の時代には陰りが見え始めていた。
本編を読んでいればお分かりの通り、足利一門の多くは既に権力を失いつつあった。織田家に尾張を追放された斯波家、三好家に追放された細川家、いち地方勢力に成り下がった畠山家、松平家に吸収された吉良家である。今川家だけは単独で複数の国を支配しているという意味では今だに力があったが…足利家と今川家には因縁があり、今川家は将軍家に対して非協力的な面があった。
幕臣の方は元が小さいものの今だに力は保っていたので足利一門の没落と共に幕府での力は相対的に強くなって行くことになった。
こうした中で第十三代将軍足利義輝は将軍の権威の回復と自らの権力の強化に乗り出していくことになる。
将軍の権威回復の手段として彼が用いたのが和平交渉の仲介である。義輝は、どこかの大名が争いをしていると聞きつけると「仲介役になりますよ!」と声をかけて和平の橋渡し役をしたのである。
和平を仲介することで「将軍のお陰で和平が出来た!」と世間に言いふらすことで将軍が『大名の争いを止めるだけの力がある』と世間に宣伝したのである。他にも自らの名前の漢字を多くの大名に与えて名乗らせることで『名前を変更させるだけの力がある』と宣伝したりした。
小さいことのように見えるが…意外と効果的であった。世間の大名達は『将軍の命令に従うことで忠誠心アピール』したり、名前を貰うことで「俺は将軍とマブダチだ!貰ってない奴は将軍と仲が悪い!!」と言いふらす為に多額のお金を将軍に献金したのである。最近で言うところのボランティア活動や有名人との写真撮影のようなものである。
こういう風に多くの大名が将軍の傍に擦り寄れば世間は「将軍凄くね!」と思うようになり、世間が将軍は『偉い!!』と思えば思うほど『世間を気にする大名達』に『将軍の命令には逆らえない!』という風に思わせていくことに成功していた。
少し下品な方法だが将軍足利義輝は少しずつ自らの権力を高めていくようになった。そんな彼が目を付けたのが織田と今川の争いの仲介であった。
※義輝は史実において『毛利と大友』『武田と上杉』そして松平元康(家康)と今川氏真の和平を仲介している。
足利家の介入の元で織田と今川は和平を結ぶことになるのだが…
この和平交渉の真の目的は織田と今川の和平では無かった。
真の目的は東海地方の秩序の回復である。
足利義輝は元々は六角氏の支援を受けており、三好家とは対立する関係であった。しかし、桶狭間の前辺りから三好家との関係改善をして三好氏の保護の元で権力を高めていた。
そのような中で三好長慶の家臣であり、三好一門の松永久秀を足利義輝は次第に重用するようになり始めていた。簡単に言えば長慶からレンタルする形で幕臣として使うようになっていたのである。
足利義輝が松永久秀を重用する背景には幕臣で幕府を事実上牛耳る立場にいた伊勢氏への対抗処置という側面があった。伊勢氏は元々は将軍の政務を補佐する立場であったが…次第に幕政全体を牛耳るようになっていたのである。伊勢氏と言えば後北条氏の初代である北条早雲の出身母体であり、早雲の妹?(姉説もある。)今川義元の祖母にあたる北川殿の実家でもある。
※今川義元の祖母ということは武田家とも血が繋がっているということになり、武田家との血の繋がりは本願寺家との繋がりもある。というように伊勢氏は源氏の名門や巨大宗教勢力とコネを持っていたことになる。
伊勢氏は戦国時代になってから力を付けてきた面もある。それは足利一門の弱体化も理由の一つだが…それだけでは無く、もしかしたら後北条氏や今川家の台頭も大きな原因だったかもしれない。
とにかく、この時期に伊勢貞孝という伊勢氏の当主が影の幕府の支配者として権力を握っていた。このような事態を危惧した足利義輝は松永久秀を重用することで伊勢氏の権力を抑制しようとした。
今回の和平仲介で幕府としては幕府に協力的な斎藤家への織田家の攻撃を止めさせたいと考えていた。他にも足利一門の名門である斯波家の復活も幕府としては願っていた。
一方で松永久秀から見た場合、京都の安全保障及び自己の支配領域である大和国の安全保障を考えれば六角家の勢力拡大の阻止及び六角包囲網の構築を目指したいという思惑があった。
六角氏は足利義輝と関係が深く、当時の日本トップクラスの経済地帯で京都の隣の近江国を支配していた。この近江国には大津や草津と言った大都市に加えて甲賀忍者の里などがあった。いずれも六角氏の支配下である。六角氏は血縁的にも当時勢いに乗っており、斯波氏、織田氏、将軍家と血縁を結んでいた。信長の楽市楽座の原形も名君六角定頼の統治政策の一つであったと言われている。
この六角氏の力は強く、細川氏を打倒し、四国の阿波国から京都周辺まで勢力を伸ばし、近畿地方を支配下に置きつつあった三好氏でさえも六角氏を倒すのは難しいというほどであった。
六角氏がいる限り三好氏による京都支配は難しいという状況が続いていた。さらには松永久秀が自己の支配地域として支配していた大和国の隣の伊賀国にも六角氏の力は強く及んでいたことに加えて同じく隣国の伊勢国の有力大名である北畠家と六角氏は婚姻を含む強力な同盟を結んでいた。
伊勢の北畠家は伊勢国を統一しつつあった。伊勢統一後に次に攻め込むことが出来る地域は限られていた。同盟者である六角氏の勢力圏を除けば、事実上選択肢は二つである。つまり尾張国と大和国である。尾張には既に支配を固めつつある織田信長という強敵がいた。
これに対して大和国では松永久秀は優勢とはいえ、今だに強力な力を持つ筒井氏がいたことに加えて六角氏の支援を受けることも可能という有利な条件が揃っていた。
このまま北畠氏による伊勢国統一を許せば、いずれは北畠氏が大和国に攻め入ってくるのも時間の問題と言えたのである。
このようなことを考えて松永久秀は六角氏の弱体化と北畠氏の伊勢統一の阻止を今回の和平仲介の目的の一つにしていた。
松永久秀は足利義輝と伊勢貞孝の意向に従いつつも武田晴信と織田信長に対して便宜を図った。ここで武田晴信が登場する。武田晴信は東美濃の利権問題に加えて織田家を裏で支援していた。そして武田家は本願寺家と繋がりがあり、本願寺家は三好家との交渉時に松永久秀と懇意にしていたのである。
本願寺家を通じて松永久秀は武田晴信と通じていたのである。武田晴信と通じるということは織田信長とも通じるということであった。
織田家と今川家の和平を通して東海地域全体の様々な事柄が決められていった。
和平条約の内容
①今川及び織田家は停戦に合意し、織田家は大高城と鳴海城の包囲を止める。代わりとして今川家も水野氏への包囲を止める。
②織田家は美濃への侵略行為を止める。斎藤家は織田家との対立を解消し、融和に努めなければならない。美濃国及び尾張国の通商及び木曽川での行き来は如何なる国も自由に行うことが出来る。
③伊勢の北畠氏は北伊勢への侵略行為を止めなければならない。特に桑名市の自治を認め、同市の自由な通商を認めることとする。
④同条約は足利将軍家第十三代征夷大将軍である足利義輝の意向であり、同条約に違反する場合は反逆行為と見なし、これに対しては将軍の力を持って厳罰とする。
署名者:足利義輝、三好長慶、今川義元、織田信長、斎藤義龍、武田晴信、松平秀康、伊勢貞孝、松永久秀
こうして和平条約は結ばれた。




