松平家の意地!!
今川義元と織田信長の停戦は呆気ないほど簡単に結ばれた。内容は簡単に言えば第一次尾張侵攻時の和平案の強化版という感じである。中心となっているのは未払いの賠償金を含む賠償金の増額であった。
織田家との戦いの継続を望む松平家の意思は完全に無視されていた。
この停戦案に納得のいかない松平家臣と秀康は守山からの撤退を拒否して守山に留まり続けることとなる。
さて読者の皆様も今後の流れは予想がついてきていると思われる。それは歴史の定説であり、当然の方針転換である。
しかし、当然の方針転換を当然として片づけるのは過去を過去として客観的に見れる後世の人々の特権であり傲慢さの表れでもある。
歴史上には当然の結果を当然としては受け取れずに滅んだ大名や武将は数知れずであり、滅んだ者を研究するのも大切ではある。
だが戦国史に残る最も重要な同盟になる織田松平の関係は複雑である。
本編でも幾度も語られていることだが…
織田と松平は仲が悪い!!
これに尽きるのである。
ハッキリ言えば犬猿の仲である。
特に松平元康(家康)からすれば祖父清康公、父広忠公を暗殺した黒幕として織田家は常に有力であった。(特に祖父の清康公の暗殺は断定に近い形で当時の日記や回想録でも語られているほどである。)
さらに両者は戦国時代の『武田上杉の争い』よりも熾烈な戦争をお互いの国で戦っていた。まさに天敵同士であった。付け加えると織田家の場合は親子二代だが…松平家の場合は長親の時から数えると約五代(長親、信忠、清康、広忠、家康)である。これに主家筋の斯波や吉良の争いまで加えると天文学的な争いがあった。
この両者の同盟は絶望的であった。
そもそも家臣が許さない!
例えば一番有名な家臣の家(本多平八郎家)の本多忠勝の父忠高、祖父忠豊は織田信秀率いる軍勢との戦いで歴史に残る壮絶な死を繰り広げている。(織田のトラウマ)
まさに絶望的である!!(大事なことなので二回言いました。)
史実において、そうであるが…桶狭間後、直ぐに織田松平は同盟を結んだわけでは無い!!
松平家が今川家と袂を分かつまでに約一年、そこから今川家との争いを始めてから清州同盟を結ぶまでに約一年の合計二年の月日がかかっているのである。(桶狭間が1560年、清州同盟1562年)
さてさて織田家と松平家との争いばかり語っていたが…
ここで今度は松平家と今川家の争いを見ていこう
今川と松平家の争いも織田家と松平家の争いに負けないほど根深い
簡単に言えば松平家で二大勢力が存在したほどである。つまり織田家への復讐を先にするか今川家への復讐が先かである。
この争いこそが本編最初の話に繋がる。
つまり親今川派=織田復讐派、親織田派=今川復讐派である。
親今川派の代表が松平広忠と松平康忠である。広忠公は言うまでも無いが父清康公を殺された恨みである。松平康忠とは長沢松平家当主で松平忠輝の養父である。長沢松平家は松平一門の中では最も支配領地が今川寄りの為に親今川派であった。と同時に松平宗家支持派でもある。(一度も裏切っていない。)
親織田派の代表は…松平長親その人である。彼はひ孫の広忠より息子の松平信定(桜井松平家)を押していた。この桜井松平家は織田家と通じており、織田家と血縁関係を結んでいた。
家臣で言えば有力一門の酒井家が二分していた。親織田派で松平宗家から独立を望んでいた酒井忠尚と酒井忠次の対立である。
※酒井家は安祥譜代と言われていて松平家とは親戚筋である。徳川家康は松平一門を信用しておらず、長い間松平一門を率いる立場を酒井忠次に任せていた程である。因みに譜代家臣を率いる立場は石川家が務めていた感じだったことが石川家と酒井家の対立の原因となっていた。つまり石川数正と酒井忠次の仲が悪いのは本人達の意思では無い部分も含まれていた。
この対立が史実での松平広忠の伊勢追放劇の原因となっていたと断言しても間違いでは無いほどである。
これほど松平家の意見を二分するほど織田今川の両方を松平家が憎んでいたことが分かるのである。
さて本編の話に戻ろう。
本編では幾つか史実とは異なる面がある。
一つ目は松平秀康により松平家は既に西三河を支配していることである。
史実では桶狭間の時点で松平家は西三河を完全には支配していない。だからこそ桶狭間の後、今川家の支援が無い中で生き残るために桶狭間の戦いの結果、今川軍が撤退した尾張南部から西三河に至る空白地帯を家康は支配しなければいけなくなったのである。
この支配を後押ししたのは織田信長である。織田信長は意図的に最低限の拠点以外(大高城、鳴海城)は支配せずに空白地帯を温存したものと見られる。でなければ松平家の反織田感情は鎮まらなかったと断言できるからである。
だが今回は西三河を統一している。そして吉良義昭とは既に戦いは決着をついていたもで西三河には松平家に対抗する勢力は存在しなくなっていた。
しかし、今川家は東三河に確固たる拠点を有しており、総合的には遠江国よりも今川の支配は三河の方が強い面があった。それに加えて松平家は今川家と縁戚関係にあった。
それでも松平家は守山から撤退する訳にはいかなかった。松平家の家臣から一兵卒まで皆口には出さないが怒りが充満しており、容易に秀康が撤退を口に出せば怒りの矛先が秀康に向きかねない状況だったからである。
また斯波義銀の方も怒り心頭のようで義元公に直接抗議するほど両者の仲は悪くなっていた。松平家は斯波家とも縁戚関係にあり、これにより斎藤家とも縁戚関係を持っていたこと撤退を難しくしていた。
秀康は守山に留まりながら今後の対応を考えることにした




