徳川劇場:教えてクソ親父!鎌倉時代とかいう意味不明な時代は何なのか?
家康「前回の話の続きになるが、より深堀していこうと思う、まず最初に鎌倉時代というのは謎の時代である。
鎌倉に首都が移ったから鎌倉時代なのか?しかし、首都は鎌倉時代も京都だったのでは?というツッコミは当然生まれる訳である。
支配者という観点で見た場合、これまた複雑になる。
平家政権時代・頼朝時代・源氏時代・北条得宗家時代となるのでは無いか?
でもこれも随分飛躍し過ぎている。
例えば明治時代に伊藤博文時代とか山縣有朋時代とか桂小五郎時代とか言わないだろ?
昭和時代に限っても吉田茂時代とか岸時代とか田中時代とは言わない」
信康「日本史の時代区分て良く分からないなぁ……」
秀康「地名から取ってる割に縄文時代とか古墳時代とか弥生時代とかありますからね」
秀忠「戦国時代も地名じゃないぞ!」
家康「そもそも支配者という観点でいくと……別に鎌倉幕府というか北条得宗家は日本の支配者では無かった訳であり、依然として日本の支配者は天皇だったはずである。
天皇が日本の支配者であって北条得宗家は天皇の部下では無くて天皇の配下である征夷大将軍の部下である。
つまり北条得宗家は『天皇の陪臣』(天皇の家臣の家臣)だった訳である。」
信康「そうなるな……」
秀康「確かにそうですね」
秀忠「言われてみれば」
家康「室町時代という表現も間違っていて江戸時代がワシが既に江戸で政治を行っていたのに対して初代の足利尊氏は京都の室町で政治を行っていた訳では無い
しかも『将軍が室町どころか京都にいない状態』というのは初代の足利尊氏の時から既に始まっており、現役の将軍が追放されて諸国を放浪している状態も多かった。
奈良時代や平安時代は、それなりに説得力があるのに対して鎌倉時代と室町時代は全く説得力が無いのである。」
信康「現実には鎌倉幕府が全国を支配していたのでは?」
秀康「鎌倉が日本を支配していた?」
秀忠「それすら怪しい?」
家康「全くもって怪しい!前回でも言ったが!!考えて欲しいのは戦国時代ですら現在の愛媛県に当たる伊予国の国主は西園寺家が支配していたし、土佐国(高知県)は一条家だった。西園寺家と言えば明治の元老西園寺公望の一族だし、一条家は公家の最高位の五摂家である。
奈良県に当たる大和国は藤原氏の菩提寺である興福寺が支配者だった。京都のある山城国と近江国(滋賀県)の事実上の支配者は比叡山延暦寺だった。
大坂の支配者は本願寺だったし、石川県に当たる加賀国も本願寺が完全に支配していた。
戦国時代でコレなのだから!
鎌倉幕府が巨大な力を持っていたというのは極めて怪しい!!」
信康「承久の乱で勝っていたとしても……日本全国を鎌倉が支配していたというのは無理があるということか?」
秀康「戦国時代ですら武士は日本全国支配しているとは言い難い状況なのを考えると難しいな」
秀忠「確かに」
家康「鎌倉幕府の御家人の数は鎌倉中期くらいで480名とか言う数字だった(笑)
江戸時代の話だが徳川幕府は『旗本八万騎』と言われていたほどであり
それと比較すると家臣の数が異常に少ない
いくら時代が大昔で人口が少なかったことを考慮しても……平安時代の全盛期の貴族の数より少ないのでは無いか?という数しかいない
この程度の家臣数で日本全国を統治していたと考えるのは極めて厳しい」
信康「各市町村に一名の家臣がいると考えても(笑)480名て少なすぎるな……」
秀康「各都道府県に10名くらいですか?」
秀忠「旧国の数の方が現代の都道府県より多いからなぁ……」
家康「ちなみに北条得宗家の本拠地だった武蔵国で約80名、相模国の約30名いたらしいので……
そう考えると支配力が強い国には大勢の御家人が居た訳だから……『一国に代表者が数名置かれた』というような考察は無意味ということになる。
鎌倉幕府に従わなかった武士は大勢いたらしく……武士層に対してすらも鎌倉幕府は絶対では無かった。」
信康「家臣の数が既に地域によって偏っていた時点で怪しいな」
秀康「日本全国を統治していたとは言い難い」
秀忠「そんな程度だったのですか?」
家康「御家人の数=正社員だと考えた場合……やはり数が少なすぎる。周防・長門国を支配していた長州藩(毛利家)の上位家臣だけで約60家いて足軽より上の諸士だけで約一万人、足軽だけ約8000人いて、それ以外の下っ端だけで数万人いたと言われている。
御家人というのは足利家や武田家のような超有名一門のことを指すと定義したとしても……
長州藩だけで60家いた訳だから……
御家人=大名レベルと考えた場合、確かに江戸時代で256藩なので480名というのは多いように聞こえるものの……武蔵国だけで80名いたことを考えるに幾ら何でも中央集権化(統廃合)が進んだ江戸時代よりも数は多いはず
しかも公家や寺や神社なのが支配する地域は含まなかった訳だし、江戸時代より武士が支配する地域は狭かった訳だから……そんな力の無い武士達が広大な領域を支配していたとは言い難い
そう考えるに鎌倉幕府の御家人の数は少ないということになる。」
信康「江戸時代のような支配力が強くて戦国時代よりも統廃合が進んだ時代ですら大勢の大名と家臣がいた訳だから……それより弱かった鎌倉時代にしては武士の数が少ないよなぁ……」
秀康「鎌倉幕府が如何に小さい組織だったのか分かりますねぇ……」
秀忠「スケール意外と小さいんだなぁ……」
家康「鎌倉文化というのを説明する時に平安時代の王朝文化よりも質素で倹約なのは『武士が質素倹約』を好んだからだ。
という意見があるものの……
例えば豪華な厳島神社を建てた平清盛の伊勢平氏は、元を辿れば関東出身である。逆に源頼朝の河内源氏は大坂出身である(笑)
金閣寺を建てた足利義満の足利氏の出身地は現在の栃木県足利市である。」
信康「金が無かっただけか?」
秀康「豪華なものを作りたくても作れなかった?」
秀忠「日光東照宮みたいな建築物を作れなかったんですね(笑)」
家康「そもそも鎌倉文化なんて言うけども!
前回で述べたように関東の人々と関西の人々の『うどん・蕎麦』の味付けからして大きな差がある。味噌の味や醤油の味付けにも大きな差が生じている。
まして戦国時代の頃となると……話している言葉の違いは極めて大きかった。
現代ですら関西弁と関東弁の言葉のニュアンスの違いは大きいと言われている。」
信康「江戸時代でもお国言葉の違いは様々な問題を巻き起こしていた訳だから鎌倉時代みたいな大昔となると恐ろしいほど差があったのかもな」
秀康「突然鎌倉文化が爆誕したのでは無くて元々関東は関西圏とは違う文化だったと考えた方が自然なのかも」
秀忠「父上は三河国つまり愛知県民、私と兄上達は駿河と遠江育ちなので実は静岡県民ですからね」
家康「鎌倉文化が質素倹約だったのは単純に金銭不足という側面もあるという見方も出来るのである。
一方で実際に平安時代との違いも大きかったことは以前にも触れている。」
信康「平安時代の貴族文化を毛嫌いする傾向はあったからな」
秀康「貴族と武士の違いは明確だった訳ですね」
秀忠「それも鎌倉時代限定では?」
家康「ただし、その辺の話になると源頼朝が『落馬で死んだ』り『二代将軍と三代将軍が何れも暗殺されて死んでいる理由』の説明にもなってくる。
今の日本人の多くには分からないことであるけども……
鶴岡八幡宮の八幡宮というのは関西的なものだった。八慢神を祀る習慣は関東圏には無かった。それを源頼朝は鎌倉に持ち込んで大金をかけて鶴岡八幡宮を作った訳である。
頼朝は鎌倉支配を強めるために『鎌倉を京都化しようと画策』していた。
頼朝は関東圏では馴染みの無かった貴族文化を持ち込み始めた。
源氏は元皇族設定であり、頼朝は言わば公爵だった訳であり、生まれも育ちも京都だった。
頼朝はド田舎に生活する上で出来る限り都会風の街並みに整備したがっていた。」
信康「完全に関東をバカにしていた感あるな……」
秀康「ブチギレ案件になってませんか?」
秀忠「プライドの高い関東民が怒るぞ!」
家康「頼朝は若かった『落馬で死んだ時』の年齢は52歳だったと言われている。ワシが天下統一したのは57歳と考えれば物凄く若くして死んでいる訳である。
頼朝の息子の頼家と実朝は何れも京都文化に精通していた。
北条氏は外戚だっただけで何れは排除される可能性が高かった。北条家だけが頼朝の政策に反感を抱いているだけだったら、こうも容易く初代を含む三代が全員若死にする事態は起きなかった訳であるが……
現実として起きてしまったのは!それだけ頼朝達が進めようとした政策に対しての反感が大きかったからとしか考えられない」
信康「関東の人々は関西圏の人々が嫌いだった感じが伝わってくるな」
秀康「なんでそこまで恨んでいたのか?というくらい嫌ってますよね」
秀忠「不思議なものだな……」
家康「関東だけが特別だったというよりも……九州も関東と同じレベルで関西圏を嫌っており、歴史上何度も反乱を起こしている訳であり、そうした兆候は中国地方や北陸それから東北地方にも見られるものである。沖縄人の「本土の人間は!」みたいな発言も実は極めて日本的な発言なのかも知れない(笑)」
信康「どんだけ関西は嫌われてるだ?」
秀康「もっとも関西圏の人も関東が嫌いな感じがしますし(笑)」
秀忠「お互い様?」
家康「現代でも古代から続く日本の伝統とも言える地域紛争史が脈々と受け継がれている訳であり……この辺の経緯が頼朝王朝の早期崩壊を招いたとも言える。
頼朝は自分が公爵だということを誇りに思っていた節があり……
その辺が関東の人々の不満の原因になっていた。だから頼朝の一族は早期に排除されてしまい
伝統的な関東の支配者であった関東平氏の代表ということで北条氏が支配する体制が出来上がった訳である。」
信康「鎌倉時代は源氏の時代とか言いつつ実は平氏が支配しているんだな」
秀康「皮肉なモノだなぁ……」
秀忠「源氏が弱い証拠?」
家康「平氏が滅んで源氏が勝ったと歴史の勉強や歴史書で良く書かれるが……
北条家は平氏だったし、織田信長も平氏の子孫を自称していた。
平氏の子孫を自称している人々は非常に多かった訳で『滅んだ平氏』とは伊勢平氏のことであると仮定しても……
例えば戦国時代の後北条氏は伊勢氏であり、伊勢氏は平氏である。つまり伊勢平氏の子孫を自称していた訳である。」
信康「そういう方向に繋がってくるのか!」
秀康「後北条氏は平氏、それも伊勢平氏の子孫だから北条を名乗る。」
秀忠「関東を支配するなら伊勢平氏よりも北条氏と改名した方が良さそうな気がしますもんね」
家康「頼朝が死んで始終関係が途切れると……後白河上皇は鎌倉幕府が弱体化したと考えて西国の武士達を動員して幕府を倒そうとしたが……
独立を失いたくない武士勢力が糾合して西国の武士達を打ち破ってしまった訳であるが……
その結果、鎌倉幕府は京都に六波羅探題を置いて京都を監視しなければならなくなった。
このことは大きな負担となって行くことになる。」
信康「京都を支配することが負担?」
秀康「全国支配出来て嬉しいのでは?」
秀忠「天皇の方が正義だったような気が……」
家康「正義か悪か論で行くならば……残念ながら鎌倉幕府側に正義というのはあったのか?
というのは難しい、あえて言えば中央政府が地方政府を「目障り」という理由だけで強引に力尽くで叩き潰そうとしたことに問題があったと言うことは出来る。
しかも時期が頼朝が死んだ時というのも!
力がある者がいる間は大人しくしていたフリして実は裏切る気満々でした!!
約束を守らず、有利になったら全部無かったことにして良い!!!
という態度は当然ながら多くの人の怒りを買った。」
信康「幾ら天皇と言えども一度した約束は守らないとな!」
秀康「南北朝の争いに通じるものがありますね」
秀忠「主人と言えども部下にした約束は守らないとな」
家康「そういう意味で承久の乱で鎌倉陣営が勝利したのは必然だったと言える。
イギリスのジョン王がマグナカルタ(イギリス憲法)を無かったことにしようとしたら多くのイギリス諸侯から反発されて叩き潰されてしまったように……
支配者とは言えども……やって良いことと悪いことはあったのである。」
三人「……」
家康「とは言うものの……承久の乱で勝った鎌倉幕府は京都の反乱を許す訳にはいかなかった。
今後二度とあってはならないから六波羅探題を置く訳であるけども……
もともと天皇との約束では東国一帯の支配権は譲渡されていても!
西国まで支配する権限が渡されていたとは言い難い訳であり
また関東の武士達からすれば『京都からの独立』が重要なのであって本来は京都を支配することは負担だった訳である。
六波羅探題を置くと言うことは関東の武士達が京都に大軍で駐留しなければならず、駐留に掛かる費用や人員は関東の武士達が自己負担しなければならなかった。」
信康「関東の勢力からすれば……京都は西国を支配してるだけで満足していて欲しかった訳だな……」
秀康「関西の方まで関東の人々が統治するのは侵略という感じで後味悪いですしね」
秀忠「そこまでする経済的余裕が無かったのでは?」
家康「そうだな!経済的余裕という観点で見た場合、幕府は直轄地を持っていたとは言い難かった。幕府が直接支配する土地を持つようになるのは豊臣政権そして江戸幕府になってからである。
それに幕府の本来の支配者であるべき頼朝の一族は大きな土地を持っておらず、しかも早期に断絶してしまった訳であり、その後は形式的な将軍がいるのみだった。
将軍の家臣である北条家の支配地も大きくはあったが……日本全国を支配するという観点で見た場合規模が小さかった。」
信康「貿易は出来なかったのか?」
秀康「確かに……平家みたいに中国と貿易すれば良かったのでは?」
秀忠「西国支配出来なかったのかな?」
家康「その可能性は低かった。モンゴル帝国が侵略してくる時、朝鮮の高麗などが度々鎌倉幕府に「モンゴルと一緒に戦わないか?」と言って来ても鎌倉幕府は全く海外の情勢に疎い上に「我々は外交をする権限は無い」みたいなことを言うだけだった。
海外と貿易をする権限を持っていたなら、ここまで海外情勢に疎い政府になるはずも無く(笑)
海外貿易を鎌倉幕府が積極的に行っていたというのは考え難い
モンゴルに勝った後も特にモンゴル側と交渉したり、諸外国に使者を送ったというようなことも無い
海外貿易利権を獲得して貿易で稼いで家臣達に利益を分配しようと野心を抱いていた感じも見られないなど……
鎌倉幕府はいろいろと残念な政府であり、やはり地方政府という雰囲気が拭えなかった。」
信康「東国に引き篭もっていただけの政府という感じだな(笑)」
秀康「力はあるから頼られるせいで西へ西へ勢力拡大するのに……」
秀忠「勢力拡大を生かすという方向には行かないんだな……」
家康「こういう外の情勢への疎さは……後の後北条氏にも見られており(笑)
引き篭もり体質が関東勢には見られていたと言えるかも知れない
その辺が室町幕府になると変わってくる訳であるが逆に関東勢は保守的で変わろうとする室町幕府を嫌って独立戦争を巻き起こそうとする傾向があった。」




