その向こうへ
驚くべきことに、その日の放課後まで、てがみくんは一度も舟を漕ぐことなく六時間の授業を乗り切ったのだった。私が覚えている限り、そんなことはこれまでに一度だったなかったはずだ。最後のSHRが終わって放課後に突入した時、私たちは黙ってお互いの顔を見合わせた。そして、どちらともなく笑い出した。
「まさか本当に寝ないなんてね」
「自分でもびっくりしてる」
「こんなの、初めてじゃない?」
「そんなことない……と思うけど」
そして、今さら欠伸をふわりと一つ。右目の端に、薄く涙が浮いた。そんな姿を見ると、私は何だか彼のことがほんのちょっとだけ愛おしくなって、同時に、胸に微弱な電流を流されたようなくすぐったさを覚えた。
「ねえ、ジュース、買いに行こう」
そして私は、彼にそう言った。何も約束の履行だとか義務的なものではなく、自らの意思として、てがみくんと一緒に、中庭の自販機が三台連なったエリアに並んで向かい、そこにあるベンチに座って彼と話がしたかった。そこで私たちは、普段よりももう少しだけ踏み込んだ話をするのだ。例えば好きなファッションスタイルの話だったり。
というのも、私が見る限り、てがみくんは他の男の子たちと比べて、随分と身につける物への造詣が深い。彼の履いているスニーカー(うちの高校では上履きがない)や腕時計、普段使いのバックパックがどれも垢抜けていて、ものによっては高校生らしからぬ落ち着いたチョイスであったりする。私自身、学校でしか顔を合わせないような人には周囲と比べて服装やアクセサリーなどの小物の趣味が落ち着いている(自分ではそんなことはないと思っているのだけれど)とよく言われるから、余計にシンパシーを感じてしまうのだった。もしかしたらそれが、てがみくんに対して心を開くことが出来る要因の一つになっているのかもしれない。
彼は、私の提案に随分と面食らった様子だった。何か信じられないものを見た、という風な顔をしていた。おこがましいながらも理由は何となく想像できてしまう。客観的に見れば彼の反応というのはある意味では自然なのかもしれない。しかしそれでも、私は少しだけ悲しい気持ちになった。お願いだから、そんな顔をしないでよ、と言いたかった。
「もちろん、買うジュースは選ばせてくれるんだよね?」
てがみくんは、弱ったような、おどけたような調子でそう言った。彼のその言葉に、私はどこか救われたような気がした。
「ううん。私が気になってる新商品があるから、それを飲んでもらうの」
「つまり、毒味」
「ご明察」
私のふざけた物言いにてがみくんは声を上げて笑った。そこまで笑わなくてもいいんじゃないと言いたくなるほどに。
「泉ってさ、わりと面白いね」
「そうかな」
「うん。もっと、ガードが堅いというか、お高く止まってるんじゃないかって思ってた」
――それは、君が相手だからだよ。ねえ、気付いてる?
もちろん、今はまだ言えるはずがなかった。私は「そんなことないよ」と曖昧に笑った。
「じゃあ行こう」
先にカバンを持って立ち上がったのは私だった。まだ教室に残っている女の子のグループが、私たちの方をじろじろと見ている。私がこれまでに男の子と連れ立って教室を出ることなんてほとんどなかったからだ。そんなの、構うもんか、と思った。
廊下の窓から覗く空は、曇ってはいるものの雲はそこまで不穏な色でもなかった。少なくともてがみくんと一緒にいる間だけは、持ちこたえてほしい。帰りは雨にでもなんでも濡れてあげるから。
そうだ。私は、彼に期待しているのかもしれない。この人なら、こんな自分を変えてくれるんじゃないか。本当の私を、受け入れてくれるんじゃないか。――そして、あの過去を、振り切らせてくれるんじゃないか、と。
他の人にはない、そう思わせてくれるだけの何かを、てがみくんは胸に抱いている気がした。