根付いたカルマ
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その日の授業中、てがみくんは普段よりもずっと調子が良かった。机に肘を付くこともなければ、欠伸の一つだって漏らすことはなかった。どこか胡乱げに細められた目つきはいつもと変わらないけれど、とにかく今日のてがみくんはいつもとは少し違うようだ。やっぱり、朝に遅刻しそうなくらい熟睡できたのがよかったのだろうか。面白くないなあ、とちょっとだけ思ってしまう。
「今日、雨降りそうだね」
四限目の英語Ⅱが始まると私は、そんな彼を応援する意味も込めていつものように話しかけた。嬉しいことに、これまでに私のくだらないお喋りに付き合ってくれている間に限ると、彼は一度だって眠った試しがない。
「傘、持ってきてないな」
大して焦った風もなくてがみくんは一息ついた。目尻をポリポリと掻くと、彼は薄く目を閉じて小さく欠伸を漏らす。そして口を真一文字に引き延ばしたかと思うと、何かのついでのように私に目を遣る。
「今日は絶対に寝ないから」
私は彼の決意表明に危うく笑ってしまいそうになった。同じセリフを、これまでに三度は耳にしていたからだ。
「放課後まで眠らずに過ごしたら、ジュース奢ってあげる」
「マジで?」
「うん。マジで」
てがみくんは、よーしと笑った。そして目元をごしごしと擦り、板書をノートに写し始めた。強調構文なんて、学んで何になるんだろう、と思っていた私の方も、ついつい彼に負けないようにシャーペンをサラサラ動かしてしまう。
沢村 鯉くんは、私にとって興味深い存在だった。そして、私が今、一番心を許している異性だと思う。
クラスが変わった当初は、隣の席に男の子が座るという事実に若干うんざりとしていた。というのも、この数年間、男の子と関わって愉快な思いをした経験が全くといっていいほどなかったからだ。幼馴染の瑞季は、そんな私に対して「これだから容姿に恵まれた女は」とため息を吐くけれど、私としてはそれなりに心を参らせてしまうこともあるのだ(例えば、好きでもない相手からの愛の告白を断る時とか……)。けれど、そんなことを限られた相手以外に馬鹿正直に口にしてしまうと総スカンを食らうことは、火を見るより明らかだ。だからこそ、どこにも解き放つことのできない濁った泥のようなストレスがどんどんと体内で堆積していき、その結果として私は、常に男の子に対して軽い緊張感を抱きながら接することになる。勿論、百人が百人自分のことを意識しているとは思っていない。けれど――口にするのも憚られる話だけれど――そう少なくない数の男の子が私に対して興味や関心を抱いているというのは、認めざるを得ない事実だった。
そんな中ではあったけれど、進級してクラスが変わった直後、私は自分の隣に座ることになったその男の子の名前に興味を示した。沢村鯉。コイくんっていうのかな。変わってるな、と。そして、一目彼の顔を見ると、彼の物憂げな表情の中には、人畜無害な安心さとでも言うべき光が隠れていた。私はそれをほとんど直感で感じとった。だからこそ、気軽に話しかけることが出来たのだ。自ら男の子に話しかけるなんて、本当に久しぶりのことだった。さらに、『てがみくんって呼んでいい?』とまで言ってのけた。実際に私は彼のユニークな名前が、その響きが、確かに気に入ってしまったのだ。
結果、私の慧眼も捨てたものではなかったようで、てがみくんに対してだけは、その後もほとんどリラックスして会話をすることが出来た。それはひとえに、彼の寝顔がこれまでに出会った誰よりも無垢で、無二のものであったことが影響しているのだと私は考えている。普段の彼はひねくれているというか、どちらかと言えばシニカルな物言いや表情をすることが多い。厭世的、とまではいかないけれど、少なくとも青春を胸いっぱいに謳歌しているといった雰囲気はあまり感じられなかった。
それだけに、授業中、隣の席で居眠りをしている時に見せる寝顔を知っている私は、この人の中にはきっと他の人とはちょっと違う一面が隠れているはずだと、根拠もなく思いを巡らせてしまう。
そして、彼の意識が覚醒している時に、臆病な草食動物のように意識の草の根に潜んでいるその片鱗を少しでも感じたくて、私は授業中に、声を潜めて特に意味もない話をふっかけるようになった。それは思いがけず楽しい行為だった。
私はいつからか、本当に近しい相手以外との会話をほとんど楽しめずにいた。例えば新しく女の子と仲良くなると、『誰々が瑚春のこと好きらしいよ』『泉さんは好きな人いないの?』『早く彼氏作ったらいいじゃない』『泉さんは男の子に不自由しないよね』というようなことを必ず口にされる。私を取り囲むのはその手の話ばかりだった。男の子だって、最初は音楽やファッションの話をしてくれているけれど、やがてそこには下心の色が見え隠れするようになる。私の方が相手を気に入る前に、目を背けたくなるような相手の心情がわかってしまうと、その事実は心に鈍い痛みを残す。そして必ず、私は泣きたくなるような悲しみを覚えてしまう。
自意識過剰と言われたらそれまでだ。これまで私が話してきた男の子の中には、あるいは下心など一切持ち合わせていなくて、私のことなんて何とも思っていないような人もいたのかもしれない。けれど、気付けば私はもう正常なジャッジを下せなくなっていた。一度そう思ってしまうと判定を覆すのは不可能に近く、結果ほとんどの異性に対して、正面切って関わることが出来なくなってしまった。それはもう、末期的に私の中に浸透している、ごく個人的な生活様式と言っても過言ではなかった。
だから今、てがみくんに対して『ジュース買ってあげるよ』と自然に言えたことに、自分でも驚いている。