私が彼を待つ理由
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ガラガラ、と引き戸が開く音がした。何の気なしにいじっていたスマホから顔を上げると、教室の中央部分に素っ気なく存在している壁掛け時計は八時二十分を指していた。その時計は、一番後列の私の席から見ると直線上に存在するのにも関わらず、最近は文字盤がぼやけて見える。そろそろ、メガネなりコンタクトなりの購入を検討する必要があるかもしれない。
担任の先生がノロノロと入室する姿が見えた。しかし教室のざわめきは、一向に収まる様子がない。私はその光景から、自分たち生徒のささやかな抵抗のような、革命の狼煙のような意味合いを勝手に感じ取ってしまい、おかしくなった。先生が低い声を上げながら教卓を出席簿でバンバンと威圧的に叩いてようやく、銘々が自分の席に戻り始める。そんな怠慢な行程の間にも、彼はまだ来ていない。
何しているんだろう。もしかして、まだ寝ているのかな。
彼なら、大いにあり得ると思った。
その光景は、例えば午後の授業中、ふと左隣を見ると、広がっている。
彼はその時、決まって肘をついている。そして手のひらの上に顔を乗せたまま瞼を閉じていて、それに相反するように口元は無防備にそっと開いている。もう頭の中で思い描くことができるくらいに見慣れた光景だ。本人曰く、『意識を深淵へと引きずり込まれる前に、腿や手の甲を抓ったりして精一杯踏ん張っている』らしいけれど、残念ながら功を奏してはいない。そもそも、机に左ひじを付いた時点で、無意識のうちに降伏のサインを出しているも同然だと思う。
けれど、あのあまりにも屈託というものがなさ過ぎるイノセンスな寝顔を見ていると、天使のような姿をした睡魔が抗いようもなく彼を包み込んでいるのだと納得することが出来た。日の当たる庭先で身体を丸めた猫が気持ちよさそうに寝ていたら、誰も(少なくともまっとうな人間であれば)わざわざ起こしてやろうという気を持つことはないのと同じ理由で、私は眠っている時の彼の肩を叩いたり、声をかけたりすることができない。
彼はいつでも、とても器用に、そして自然に自分の左の手のひらと指で顔を支えて眠るのだった。そこにはある種の健康的な魔法がかかっていて、彼の寝顔があまりに瑞々しく映るのは――そして私が折に触れてその横顔を見つめてしまうのは――その魔力の賜物なんじゃないかと、そんなくだらないことまで妄想してしまう。
彼ほど授業中に気持ちよく眠ることの出来る人間を、私は知らない。例え先生に見咎められて手ひどく怒られても構わないから、私もあんな風に、どこまでも気持ちよくすうすう寝息を立てられたらな、と思うことが、この二週間ばかりの間に何度もあった。隣の席に彼のような存在がいるということはつまり、そういった類のどうしようもない誘惑を否応なく突きつけられるということなのだ。
そして今日も、私はその澄んだ横顔をどこかで心待ちにしていた。なのに、隣の席はまだ空っぽだ。
「じゃ、出欠確認するぞー。赤沢」
一番の赤沢さんから順番に名前が呼ばれていく。さ行の人が呼ばれ始めるにはまだ少しあるけれど、それまでに滑り込めるだろうか。何だか私の方がそわそわしてきた。
「泉」
「あ、はい」
二番目に名前を呼ばれて(わかっていたはずなのに)、声が思わず上ずってしまった。教室に悪意のない笑い声が一瞬広がって、私は俯いてしまう。前の席の秋那が、歯を見せて笑ってこっちを見ていた。
「斎藤」
「はーい」
とうとう、後一人の所まで来てしまった。ああ、さすがに間に合わないか……。そっと息を吐いたその時、後ろの引き戸が勢いよく開いた。その人を見て、私は心の中で一気に表情をほころばせた。
よかった。ちゃんと来たんだ。
「沢村、いいタイミングだな」
「す、すみません」
息も絶え絶えにそう絞り出す彼――てがみくん――が私の隣にようやく着席する。パッと目があった私たちは、出欠確認が続く中で控えめに笑い合った。